第8話 妖精の王国への入口『門』
老女を背負って俺は森の奥へと踏み込んだ。
木々の背は高く、絡まり合う枝は天を閉ざし、足元の落葉は長い時を眠ったまま踏み返された形跡すらなかった。
森は沈黙し、ただ土と苔の匂いがしんと漂っていた。
吐く息は白く、空気は言葉を凍らせるほど冷たくなっていく。
導かれた先は、まるで森が呼吸を止めたような異様な場所だった。
空気が変わった。
年老いた巨木たちが環を成し、天を見上げれば枝々の隙間から夜空がのぞいていた。まるでその空間だけ時間と理がずれているかのようだ。空気が泡立つように揺らぐ。
その中央に、鏡面のような泉があった。
音も立てずに満ちた水は月光を映しながらも揺れもせず水面は鏡のよう。その奥底は見えない。
泉の周りの空間が音も無く泡立つように震えていた。空気がさざ波のように揺れ、視界がにじんでいく。
老女がその縁に近づき、杖を静かに立てた。
「ここが『門』。妖精どもが異界とこの地を結んだ、世の裂け目じゃ。あやつらはここまでたどり着くと森の木々の精を得つつ魂魄を飛ばす。そして人の世に異界と繋がる石があらばそこへ行き、人の子をさらう」
老女の声は震えていた。彼女は静かに呪文のような言葉を唱え始めた。
森の風がざわめき、泉の表面にわずかな光の輪が広がる。しかし、それはすぐに消えた。
何度唱えても『門』は開かない。
「なぜじゃ...『門』が応えぬ!」
老女は膝をつき虚空をにらむ。彼女の色の無い薄い唇が震える。
震える白い指が宙を探るように動く。額には苦悶のしわ影が深まる。
「俺のせいか?」
自問した。覚悟が足りないのか。
いや、違う。俺は既に全てを失っている。
愛する者も、帰る場所も。後に残すものはない。
この胸に抱えるものは、愛を失った痛みと忘れ難い怒り。
焼かれた家、失われた日々、妻が、我が子ゴドウィンが燃え去った...今もまぶたの裏に焼きついている哀しい亡骸。
俺は腰に下げた『ナルフィラム』の塊を強く握った。
冷たく青黒いその金属は、まるで心臓のように脈動していた。
「お前の強い想いじゃ」
老女の声がかすかに届く。「形無きままでは『門』に届かぬ。己の奥底にある境界を越えねばならぬ」
俺は目を閉じた。
あの夜の記憶――血の臭い、火の粉の熱、あの冷たい眼差し。
そして...
バルドリック!
蒼銀の玉座に座したあの妖精の王。俺の全てを奪った、理の向こうにいる存在。
その名を胸中で叫ぶと、泉の表面に黒いひび割れのような模様が走り、やがて光が逆流するようにほとばしった。
怒りが意志に火をつけた。
哀しみが祈りとなった。
その瞬間、泉が揺れた。
風も無いのに木々がざわめき空が鳴った。
泉の中心が静かに割れ、深淵のごとき裂け目が開いてゆく。
そこには『向こう側』があった...色彩が歪み、音が光と混ざり合い、この世の理を超えた回廊が闇と光のうねりとなって立ち現れていた。
「開いた...開いたぞ!」
老女が呻くように叫んだ。だがその声には、喜びよりも、哀しみと恐れが混じっていた。
「ここから先は、お前の想いの強さあるのみ」
老女が俺に背を向け、ささやくように言った。
「『門』は扉ではない。自らの内にある『境界』を越えた者にしか道を示さぬ。見えるものも、聞こえることも、全てが幻かもしれぬ。だが...惑わされるな...真実は姿を変えて現れるかもしれない」
俺は息を吸い、泉の光へと足を踏み入れた。
水ではない、光でもない、しかしすべてを包みこむ何かが俺の身体を呑み込んでいく。
それは光の膜のようで、冷たくもあり、やわらかくもあった。
一歩踏み出すごとに、重力が失われ、音が消えていく。
光が、闇が、視界の端から溶け合い、言葉にできぬ旋律が耳をくすぐった。
この世の理の向こう。
妖精たちの王国へと続く狂気が俺を呑み込んでいった
背後で老女が微笑んだような気がした。
それは、母が子を見送るような...
けれど、二度と会えぬと知る者の微笑だった。
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週1話くらいのペースで続きを上げていく予定です
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