わたしを名づけるということ
森に音が戻っていた。
風が枝を揺らし、鳥が鳴き、葉がこすれる。
クレアは、それをただ黙って聞いていた。
目の前で、ひとりの少年が――今まさに“名を持とう”としていた。
ミレイユは少年の前に跪き、言った。
「誰かにつけられた名ではなく、自分で選ぶこと。そうして初めて、その音は“あなたのもの”になる」
少年は黙っていた。
目を閉じ、両手をぎゅっと握りしめる。
クレアは感じていた。
彼の中で、幾つもの音が交差している。
母の声。教師の言葉。過去の呼び方。すべてが“名前未満”の音として漂っている。
だが、そこから彼は、ひとつの音を選んだ。
そして、唇を震わせる。
「……リス」
それは、どこか曖昧で、子どもらしい響きだった。
クレアは思わず問いそうになった。「なぜその名前を?」と。
けれど言わなかった。
なぜなら、その響きが――彼の中に“居場所”を作っていたから。
ミレイユが微笑む。
「リス。それが、あなたの名ね」
リスは小さく頷いた。
そして、その瞬間、彼の輪郭が確定した。
顔がはっきりと見え、声が空気に乗り、“存在の証明”が音になった。
それは静かな、けれど確実な奇跡だった。
クレアは涙をこらえながら、微笑んだ。
この世界で、名前を持つということが、どれだけ深いことか。
それは、過去を受け入れ、未来を許し、今という瞬間に“自分を置く”こと。
リス――かつて名を持たなかった少年――は、いま、確かにここにいる。
そしてミレイユが最後に言った。
「名前を持つことは、帰り道を持つこと。もしどこかでそれを忘れても、また“誰かが呼んでくれる”。それが名前という魔法」
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