ノイズの海

 ジョナの声は、確かに耳元で囁いていた。


「……聞こえるでしょ、クレア……ずっと、話してたのに……」


 クレアはラジカセに駆け寄り、停止ボタンを叩いた。だが音は止まらなかった。テープが回る機械音とは別に、頭の奥――骨伝導のように内側で声が続いていた。


 何かが壊れている。現実の境界か、自分の精神か、それともこの家そのものか。


 クレアは日記を抱えて部屋を飛び出した。窓の外には午後の陽光が溢れ、木々は微風に揺れていた。けれど、その全てが偽物のように思えた。まるで背景が貼り付けられた映画のセットのように。


 書斎にこもり、ノートパソコンを開く。日記の内容をデジタルに記録することで、少しでも現実の側に立ち戻れる気がした。


 ジョナの記録は、日に日に異常になっていった。


 「音が、笑ってる」「壁の向こうで誰かが泣いてる」「自分の声が、自分のじゃない」――


 クレアは気づく。最後のページだけ、紙質が違う。差し替えられたようなそのページには、短い文章と奇妙な図形。


「ノイズの中に出入り口がある。目を閉じて、音を受け入れろ」


 図形は、らせんを描くように曲がりくねった無数の線で構成されていた。どこか神経図に似ていて、見ていると目が回るような錯覚に陥る。


 その瞬間だった。パソコンの画面がバチッと音を立てて暗転した。


 再起動されたモニターに、映っていたのはクレア自身の顔――だが、それは数秒前までの映像ではない。現在進行形で、今まさにこの部屋で座っている自分の姿が映っていた。


 「……ライブ映像……? どこから……」


 部屋を見回す。カメラなど設置した覚えはない。画面の中のクレアが、不意にこちらを向いた。


 そしてもう一人のクレアが、唇だけを動かして何かを呟いた。実際には音は聞こえない。けれど、口の動きを読み取るのは難しくなかった。


「入って」


 その瞬間、パソコンのスピーカーから耳を裂くようなノイズが流れ出した。正体のない金属音、ひび割れた笑い声、逆再生された人間の叫び。


 クレアは思わず両手で耳を塞いだ。だが音は耳を通らない。鼓膜の外ではなく、脳の中に直接染みこんでくる。


 次の瞬間、視界が白く塗りつぶされた。気づけば、椅子の上で倒れ込むようにして目を覚ましていた。息が荒く、汗が首筋を伝って落ちていた。


 ノートパソコンは再び真っ暗になっていた。画面の上部に、一行だけテキストが浮かんでいた。


「次の入り口は、左耳の奥にある」

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