あの音を聞いた日

長谷川 優

あの音を聞いた日

第1話:あの音を聞いた日


 エルムヒル小学校が閉鎖されたのは、今から八年前。けれど、それよりもずっと前から、地元の人々はその裏手にある森に近づかなくなっていた。理由は、音だ。何の音かと聞かれれば、誰もはっきり答えられない。ただ「聞いた者は忘れられない」と、口を濁す。


 クレア・ハンセンは、その音を一度だけ聞いたことがあった。


 15年前、兄のジョナが姿を消す前夜。クレアは二階の窓辺で寝つけず、外を眺めていた。すると森の方角から、かすかな音が聞こえてきた。「チィ……チィ……チィ……」と、何かが乾いた風を裂くような、金属とも虫の羽音ともつかない異様な響き。あの夜を境に、兄は戻らなかった。


 それから彼女は町を離れ、ジャーナリズムを学び、大都市で記者として働いた。だが母が病に倒れ、クレアは再びこの町へ戻ることになった。埃をかぶった実家で、兄の部屋だけが時間を止めたように当時のままだった。


 その夜、ふと目が覚めた。時計は午前2時17分。風の音が耳に触れた気がして、カーテンをそっと開ける。森の中に、赤い光が揺れていた。


 その瞬間だった。「チィ……チィ……チィ……」


 確かに聞こえた。凍りつく背中を叩くような、あの音。夢じゃない。過去が、いままた扉を叩いている。


 翌朝、クレアはICレコーダーと古い一眼レフをバッグに詰めた。かすかに震える手を無理やり押さえ込みながら、森へ向かう。足元の落ち葉は濡れていて、ぬかるみに足が取られるたび、心臓が強く脈打つ。


 森の中は意外なほど静かだった。いや、静かすぎた。鳥の声も、風の音も、すべてが閉じ込められたように消えている。


 クレアはレコーダーのスイッチを入れた。「記録開始。2025年10月7日、午前10時12分。エルムヒル森内にて異音の調査――」


 そのときだった。


「クレア」


 背後から、誰かが名前を囁いた。冷気が頬を撫でた。


 息を止め、ゆっくりと振り返る。だが誰もいない。木々のあいだから、朝の光が斜めに差し込んでいるだけ。


 ふと、足元を見ると、そこには新しい足跡がひとつあった。自分のブーツとは明らかに違う形。小さく、裸足のようにも見える。


 クレアは息を呑み、音もなく後ずさった。その時、レコーダーが「チィ……チィ……」と再び拾いはじめた。


 15年の沈黙が、ついに破られた。

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