螺鈿宮抄 珀帝国による焚書の後調べ

田辺すみ

第1話 訪い

 その山麓には男が棲みついて、書を刻んでいるという。

 三日三晩さまよってたどり着いたほらの中には、切り出された花崗岩の石板が幾重にも積まれて、目の前にして私は呆然と立ち尽くした。傍らの小屋から印刀を使う微かな音が響いてくる。泥だらけの衣服だが今すぐにでも読みたい衝動を抑え、私は小屋の戸を叩いた。


「何の用だ」

 男は静かに問うた。この辺りの言葉ではない。上げた顔は傷だらけの皮膚を風雨にさらした強面であるが、髭は整えられている。眼光はまるで千年を生きた岩亀のように、妖しく輝いていた。

「西から来た者です。石板を読ませていただきたい」

 私は珀通語で応えた。男は目を伏せ、座して作業を続けたまま重ねて訊ねる。今度は珀通語であった。

「何のためだ」

「私は書物を扱う商人です」

 立ち上がった男は私よりも上背があった。なめされた筋肉を纏った四肢は、誉を授かった頃より衰えはしたろうが、他を威圧するのに充分だろう。

「なぜ俺の書いたものなんだ」

「貴方は何のために書いているのですか」

 鋭いというより捉えて離さない視線が僅かに揺れた。胼胝たこで固くなった指先を取って額に着ける礼をする。呟く声が言った。

「弔うためだろう、きっと」


 珀帝国はイド大陸の東を覆う大帝国である。勃興は辺境の小国であったが、騎馬戦力を背景に成り上がった。三代前の潤帝は中興の祖と呼ばれ領土を最大とし、数多の属国を従え、黄歌城のある安京は集積と貿易で栄える文化都市として知れ渡っている。

「汐将軍、お許しを。私は貴方様の物語を伝えたいのです」

 先代から仕える西鎮都護大将、かつて風神と畏怖された武人は、ひざまずいた私を見下ろした。格子から差し込む陽光が舞う埃をさやかに輝かし、山のひやりとした空気が頬を撫ぜる。遠くで鳥の鳴く声がする。

「時の流れと共に朽ちるべきものだ」

 嘆きとも諦めとも決意とも聞こえる言葉であった。私はゆっくりと視線を上げる。

「いつしかは。けれども、貴方様の物語で救われる者もいるのです」


***


 黄歌城は広大な敷地を誇るが、後宮に次いで大きな宮殿は螺鈿宮と呼ばれる書館である。第二代皇帝の時代から設営が始まり、増築を重ねるごとに装飾にも工夫が凝らされた。己れは芸術などには疎い方だと思っているが、と汐は門をくぐって見渡す。なにせ初めて訪れたのだ。柱や梁に絡まる蔦のように施された螺鈿が返す光に気を取られていると、司書官の一人が進み出て礼をする。

「汐将軍とお見受けいたします。ご案内がご入用でしょうか」

 白と紫の官服は司書官のものだろう。そう聞いている。汐は頷いた。武官としてそれなりの身分とはなっているが、昨今の事情もあって、高級文官たちに汐は気後れする。司書官は黒檀の大卓に彫刻された螺鈿宮の全景を説明してくれる。書物は分類され3棟の建物に保管されている。建物の一階は開架と書見卓の並び、二階は閉架であり博士たちの研究の場であった。

「こちらの離れは?」

 3棟は回廊で繋がっているが、その後方に池を隔ててもう1棟、小規模な建物が見える。司書官はああ、と感慨もないように答えた。

「そちらは属国から集められた”蛮族”の資料館です」


 ”蛮族”、”蛮族”か、ならば俺に相応しいかもしれん、と汐は考えた。行き方を尋ねると、そちらには専門の司書官がおりますので、花水堀に着きましたら鐘を鳴らして戴ければ参上いたします、と素っ気ない。エリート文官が関心を持つものでもないか、と汐は理解し、応接の間を抜けて長い長い廊下を辿っていった。果たして時間が分からなくなるほど長い。建物も回廊も多種多様な装飾で彩られており、まるで四季の景色を一度に見ているようであった。これまで図書館に来ることも、自然の移ろいを楽しむ余裕などもなかったのだ、悪くはない、と汐はうつらうつらと思う。なんと言うのだったか、桃源郷というのだったか、夢のように平和で穏やかな里があり、そこでは時間が違うように流れているのだという話があるのを思い出す。目の前に蓮花の綻ぶ池が現れたのは、その時であった。


 水は蒼く底は見えず、蓮花は純白で雫をたたえ、まあるい葉は緑に揺れている。まるで霞がかったようなその向こうに橙色の屋根が浮かんで見えるが、橋なぞはかかっていない。どうすべきか、迂回するには時間がかかりそうだ、と周りを探ると、不釣り合いにぽつんと、苔むした金属の柱に鐘がぶらさがっていた。訝しげに木槌で何度が叩き、澄んだ音が夕暮れの空に響き渡るのを仰ぎ見る。さて、本殿の陛下にも聞こえてしまうのかな、などと風に当たりながらしばらく待っていると、蓮花の間を縫って舟が近づいてくる気配がした。


「変わった方が訪ねていらしたものですね」

 舟を漕いでいたのはやはり司書官服を着た人物であったが、髪は結いて下ろしていた。乾いた肌は白く、深く切れ込んだ目元がこちらを向く。どこか遠征先で見かけた、あちらの方の天使像のようだな、翼は無いが、と汐は想像し、そんなことを憶えている自分に若干驚いた。

「足労をかけました。西方安鎮部の汐と申す」

「お噂はかねがね。恐れ入ります、ここは敷地内でも城外のようなものでして、あまり情報が伝わってまいりません」

 どうぞ、と舟に導かれる。甲冑を着けていたら沈んだのじゃなかろうか、という小舟に座すると蓮花の匂いに包まれた。すい、と舟が動き出す。

「何か書物をお探しですか」

 蓮子の葉の陰に水底を覗いていた汐は、櫂を操る司書官の声に我に返った。薄暮のなかに立つ司書官の表情は朧げに輝いて、よく見えない。

「部下から新しく生まれた子に、名前を送ってほしい、と頼まれまして」

「それは名誉なことです」

「そうです。ですが俺はこちらの字を知りません」

 西の、啓典同盟諸国の周辺に縋る小国が汐の故郷であり、七つだか八つだかの時、珀帝国に攻め入られて村を焼き出され、奴隷となった。こちらで運良く武官の養子になり、皇帝の目に留まって重用されたが、ついぞ珀語の書き方を習得することはなかった。だから、螺鈿宮で適当な文字を探そうと思ったのだった。

「手伝ってもらえると幸いなのだが」

 司書官は目を瞬かせたようだった。いつの間にか宵の明星が藍色の天空にかかっている。『よろこんで』と微笑んだ司書官はまるで、蓮花が蕾を開くようだった、と汐は述懐した。

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