第72話
濃霧の森。
白い闇を進むと、大きな木の下に誰かが背を向けて立っている。
豊かな黒髪、
見間違えるはずもない。
「ダリア…!」
フローリアンは叫んで走り寄った。
女性が振り返る。
虚ろな瞳が彼を捉え、唇がわずかに動いた。
フローリアンは、彼女に触れようと手を伸ばす。
しかし、まるで幻影のようにすり抜け、実態に触れることができない。
彼女は何か言いたげな、悲しそうな眼を彼に向けた。
しかし声を発することなく、ただ静かに視線を落とし、やがてその姿は霧の中にかき消えていった。
「行くな…!」
窓を雨が激しく打っている。
―また…あの夢…―
フローリアンは
全身から汗がにじむ。
暗い窓の外は雨の音だけが聞こえる。
ベッドの上のエイシオはよく眠っている。
まだ夜は明けていないようだ。
フローリアンはヨロヨロと立ち上がると、シャワーで汗を流した。
翌朝になっても、まだ雨は降り続いている。
いつもは賑やかな宿の前の路上も、人影はほとんどない。
ひと足先に目覚めていたエイシオは、昨晩の残り物のパンを頬張っている。
「調子はどうだ?」
とフローリアンが尋ねたが、少年はただ無言で首を横に振るだけだった。
雨はその日一日中振り続けた。
エイシオは時々思い出したように結晶に触れたが、すぐに飽きたように放り出す。
全く進展がない。
と、いうより、全くやる気を感じない。
しかしフローリアンはもう
自然の流れに任せるしかないと
翌日、昼前になるとフローリアンは「用がある。」と言って身支度を整えた。
「いつ帰るの?」
無感情な声でエイシオが尋ねると、
「分からない。
遅くなるかもしれないが、食べるものはそこに置いてある。」
そう言って部屋を出て行った。
エイシオが不自然なまでに高揚していたことに気付きもせずに。
「私だ。開けて。」
ヒロの声に、エイシオは
「さあ、行こう。
一刻も早くここを出なければ。
荷物は置いていくんだ。
欲しいものがあるなら、後で買ってあげるから。」
日記を置いて行くことに難色を示したが、その執着よりも姉に会える希望が
ヒロに手を引かれ、宿の外に出た。
正面には、ヒロが用意していた不気味なスパークを放つゴーレムが、興奮したように地面を前足でかいている。
「ちょっと待ってて。」
そう言うと、急ぎ宿の裏に回ってフローリアンのゴーレムの
ゴーレムが一声いななき、宿の裏の林の中へと消えて行くのを見届けると、エイシオのもとへ戻ってきた。
「馬を逃がしたの?」
「そうだよ。追われちゃマズいからね。」
そういって、
「さあ、出発するよ。」
そう言うなり、馬に
人通りの多いメインストリートを回避し、小路を駆け抜け村を出る。
あとは極力距離を稼ぐのみ。
ヒロは更に鞭を打ち、2人を乗せたゴーレムは一路、エーヘイデンの街へ向かい、ひた走った。
活気ある村の雑踏が遠ざかっていく。
そのころ、フローリアンは約束のモノを受け取るため、例のギルド・バーで待っていた。
昼間とあってか、他に客の姿はない。
“日暮れまでには必ず例のものを引き渡します。”と告げられていたが、一向にヒロの現れる様子はない。
村の小さな礼拝所の鐘が午後3時を告げている。
吹き抜けの窓からは、曇り空の淡い光が差し込んでいる。
いい加減しびれを切らしたフローリアンが、バーテンダーに声をかけた。
バーテンダーの男は不安そうにフローリアンを見上げると、
「ヒロに会いにきた人かい?」
と、オドオドと尋ねた。
「そうだ。」と答えると、おずおずと小さな紙切れを差し出した。
「日没の鐘が鳴ったら、これを渡せと言われたんだが…。」
フローリアンはそれをひったくると、天窓の薄明りを頼りに文字を目で追う。
――約束とは、時に破られるために存在する。――
「ふざけやがって…、あのガキ…」
激怒したフローリアンは、カウンターを乗り越え、バーテンダーの胸ぐらを掴んで、棚に釘づけた。
酒のボトルが落ちて、床にガラス片と液体がぶちまけられる。
「オイ!あいつは今どこにいる!?」
「わ…私は知りません…。
ただ…ただ、子供がどうとか…そんなことは言っていたかと…。」
と、憐れなバーテンは震えながら答えた。
「クソッ!!」
フローリアンは、ようやく
裏につないでおいたはずのゴーレムの姿はなく、部屋はもぬけのカラ。
荷物だけが置き去りにされている。
ベッドの上に上質な紙の便箋が一通置かれており、そこにヒロからの挑戦とも取れるメッセージがしたためられていた。
――ようこそ。惨めなフローリアン君。
気付いていないようだったので、教えて差し上げましょう。
私は君の“親愛なる”トレディシム修道会のメンバー。
そして未熟なパラディン十三
君はかつて我々の教団から大切なものを奪いましたね。
それにより我々が、どれほどの
良い機会ですから、君にも同じ苦痛を味わってもらいましょう。
どうしてもパラディンを奪い返したいと思うのなら受けて立ちます。
ここから北東のエーヘイデンの街に来るといい。
もし、できるならの話ですが、ね。
ヒロより。敬意をこめて。――
便箋にはトレディシム修道会のエンブレム、交差する鎌の印が
もはや一刻の
過去の
再びこの世が闇に覆われようとしている。
フローリアンは部屋に散乱している荷物をかき集めると、小雨降りしきる外へと飛び出した。
―今なら、まだ間に合う…!
間に合ってくれ!―
そう願った。
むしろそれは祈りであった。
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