外伝 日常甘々スケッチ③『父なる竜の小さな悩みの種 ~甘噛み、浮き輪、そして秘密のひれ~』

 アレクシスがこの世に生を受けてから、ラヴェル邸の日常は、かつてないほどの愛おしさと、そして時折訪れる微笑ましい騒動に満ちておりました。特に、我が君アルヴィン様の、父親としての一喜一憂ぶりは、添い寝係として長年お仕えしてきたわたくしにとっても、日々新鮮な驚きと喜びを与えてくれるものでございます。さて、ここからは、そんなある日の出来事を、奥様であるエリザベート様の視点でお届けいたしましょう。


【歯が生え始めて“甘噛み→微出血→パパ竜本能スイッチ!?”】


 その日、アレクシスはちょうど歯が生え始めた頃で、少しばかりご機嫌がすぐれませんでした。応接室の柔らかな絨毯の上で、私があれこれとおもちゃであやしておりましたが、なかなか泣き止んではくれません。


「おやおや、アレク。歯がむず痒(がゆ)くて、おつらいのですわね」


 私が困ったように眉を寄せていると、書斎から戻られたアルヴィン様が、心配そうに声をかけました。


「どうした、エリィ。アレクの様子がいつもと違うようだが」

「それがアルヴィン様、どうやら歯が生え始めて、むず痒いようなのです。何を口に入れても、すぐに飽きてしまって……」


 アルヴィン様は、ふむ、と一つ頷くと、アレクシスの前に屈み込み、ご自身の太く、しかし節くれだった指を、そっと差し出しました。


「アレク、これならどうだ? 父の指だぞ」


 アレクシスは、きょとんとした顔でその大きな指を見つめると、次の瞬間、小さな口を開けて、あむっ、とその指に噛みつきました。まだほんの数本しか生え揃っていない、可愛らしい小さな歯で、一生懸命カミカミしております。


「はは、なかなか力が強いな、アレクは」


 アルヴィン様は、目尻を下げて微笑んでおりましたが、その時です。

 アレクシスが、特に力を込めてカミッとした瞬間、アルヴィン様の指先から、ぷくりと、ほんの小さな赤い血の玉が滲み出たのです。


「あっ……!」


 私は小さく声を上げました。

 その血の匂いと、アレクシスの唾液の甘い香りが混じり合った瞬間――アルヴィン様の紅琥珀の瞳の奥が、カッと、一瞬だけ鋭い光を宿しました。それは、かつての、竜の本能を剥き出しにした時の光。彼の喉の奥から、グルル……と、低い、獣のような唸り声が、微かに漏れ聞こえたような気がいたしました。彼の肩が強張り、アレクシスを抱き上げるその腕に、一瞬だけ、黒い鱗の幻影がよぎったように見えたのです。

 アルヴィン様が、その指先の血をすぐには拭わず、驚いたように見つめています。


(パパ竜本能スイッチくわっ!?)――私は、思わず息を呑みました。


 しかし、それもほんの一瞬のこと。

 私は、ふわりと白檀の香りを纏いアルヴィン様のそばに寄り添い、その血が滲む指先に、そっと自分の唇を寄せました。


「痛いの痛いの、飛んでいけ――ですわ」


 優しい口づけと共に、私の香りが彼を包み込む。

 その強張った手に、そっと自身の温かな手を重ねました。


「大丈夫ですわ、アルヴィン様。アレクも、悪気はないのです。ただ、むず痒いだけですから」


 私の優しい声と、彼を包み込む白檀の香りに、アルヴィン様の瞳の光は、すぐにいつもの穏やかで愛情深い父親のそれへと戻りました。彼は、はっとしたように一つ息を吐くと、少しだけ照れたように、しかし何よりも優しい手つきで、アレクシスの頭を撫でるのでした。


「……ああ、そうだな。すまない、少し驚いただけだ」


 その横顔は、強大な竜の力を持つ存在ではなく、ただただ我が子を愛する、一人の父親のものでございました。



【王都マルシェ初お出掛けで、アレクの背びれがヒラリと…】


 数日後、よく晴れた夏の初め。アレクシスにとって、初めての王都マルシェへのお出掛けの日がやってまいりました。

 アルヴィン様は、少し緊張した面持ちで、しかしどこか誇らしげに、アレクシスを抱っこ紐で胸に抱き、私と並んで、賑やかなマルシェの中を歩いていらっしゃいます。


「アルヴィン様、エリザベート様、そして若君! お健やかで何よりです!」

「まあ、可愛らしい! 将来はきっと、伯爵様のような立派な騎士におなりでしょうな!」


 道行く人々が、次々と親しげに声をかけ、手を振ってくれます。その度に、アルヴィン様は、少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに会釈を返していらっしゃいました。


 色とりどりの野菜や果物、香ばしい焼き菓子の匂い、そして人々の陽気な声。アレクシスは、その全てに興味津々で、小さな目をきらきらと輝かせています。

 彼が、露店に並んだ赤いリンゴ飴に手を伸ばそうと、勢いよく身を乗り出した、その時でした。

 抱っこ紐の中で動いた拍子に、アレクシスの背中の、ほんの僅かな部分が、お洋服の隙間からヒラリ、と見えてしまったのです。そこには、あの、お風呂の時にだけ時折姿を現す、可愛らしい「小さな背びれ」が……!


「あっ!」


 私とアルヴィン様は、同時にそれに気づき、顔を見合わせました。幸い、周囲の人々は、まだ誰もその小さな「秘密」には気づいていないご様子。

 アルヴィン様は、さりげなく、しかし素早く、アレクシスの背中を大きな手で覆い隠し、私は、にこやかに露店の店主と会話を続けながらも、その背中にそっとショールをかけました。その際、私の袖口から、先日マルシェで求めたばかりの、香花を模した新しいレースがちらりと覗いたかもしれません。

 二人で再び顔を見合わせ、ほんの少しだけ安堵の息を漏らし、そして、くすりと小さく笑い合ったのでした。


 この、ちょっぴり特別な家族の秘密は、こうして、私たちの機転と愛情によって、今日もまた優しく守られたのでございます。



【真夏の香花プール開き & “竜尾うきわ” 製作記】


 マルシェからの帰り道、あまりの暑さに、私が素敵な提案をいたしました。


「アルヴィン様。お庭に、アレク専用の小さな香花プールを作りましょうよ!」


 魂樹の若木から滴る清浄な水と、庭に咲き誇る香花から抽出したオイルを混ぜれば、肌に優しく、そして心も体も癒される、極上のベビーバスになるはずです。


 その日の午後、ラヴェル邸の中庭には、可愛らしい小さなプールが完成いたしました。

 そして、そのプールサイドでは、アルヴィン様が、何やら真剣な顔で、大きな木材と格闘していらっしゃいます。


「アルヴィン様、それは一体何を?」

「ああ、エリィ。アレクのために、特別な浮き輪を作っているんだ」


 彼が誇らしげに示した設計図(?)には、どう見ても、かつての彼のものとそっくりな、立派な竜の尻尾の形が描かれているではありませんか!


「これがあれば、アレクも水の上で安定するだろうし、何より、格好いいだろう?」


 その、あまりにも純粋な父親心に、私は、嬉しそうに、そしてちょっぴり呆れたように微笑むしかありませんでした。


 そして、ついに完成した「パパ竜特製・竜尾うきわ」!

 アレクシスは、その奇妙な、しかしどこか安心感のある浮き輪にちょこんと乗せられ、香花プールでキャッキャと大はしゃぎ。


 アルヴィン様も、上半身裸になってプールに入り、アレクシスと一緒に水遊びを楽しまれています。その光景は、まさしく絵に描いたような幸せな父子の姿。

 あまりにも心地よい水温と、愛しい我が子の笑顔に、アルヴィン様は、すっかりリラックスしきっていたのでしょう。

 彼が、アレクシスを高い高いするように持ち上げた瞬間、そのお尻のあたりから、にゅるり、と、またしてもあの黒く立派な尻尾が、ほんの一瞬だけ、水面から顔を出しかけたのです!


「アルヴィン様っ!」


 私の小さな悲鳴に、アルヴィン様はハッと我に返り、顔を真っ赤にしながら慌ててそれを隠そうとしますが、後の祭り。


 しかし、その時、アレクシスが、まるで父の窮地を救うかのように、パシャパシャと勢いよく水面を叩き、その水しぶきが、偶然にもアルヴィン様の「秘密」を隠す、見事な水のカーテンとなったのです。

 アルヴィン様の、今は見えなくなった尻尾の先から、ぽちゃん、と真珠のような雫が一つ、床石に落ちて小さな染みを作りました。私は、誰にも気づかれぬよう、そっとその雫を指で掬い、小さなガラスの小瓶へと移し替えたのです。いつか、何かの錬香の素材になるかもしれませんわ。


「おやおや、アレクは、パパのことが大好きですのね」


 私の優しい言葉に、アルヴィン様は、照れながらも、この上なく幸せそうな笑顔を浮かべるのでした。


 ラヴェル家の、ある夏の日の午後。

 父なる竜の不器用な愛情と、母なる人の優しい眼差し、そして、その全てを祝福するかのような魂樹の香りに包まれて、小さな若君は、今日もまた、すくすくと成長していくのでございます。


(日常甘々スケッチ③ 了)

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