無自覚匂いヒロインと竜神伯爵の添い寝婚〜夜伽はNGと言われたのに満月は修羅場〜実は竜の記憶に選ばれた運命の花嫁でした

ひさちぃ

第1話『運命の出会いは変態風味!? 匂いフェチ伯爵と本命彼女』

「エリザベーーーート!」


 今日も今日とて! 我が父、モンヴェール男爵の怒声が屋敷中に木霊する!


 分厚い木の扉も、廊下に並んだ古い甲冑も、びくっと震えたような気がした。窓ガラスまで微かに鳴る。可哀想に、朝から防音もお休みらしい。


 理由は、まあ、いつものこと。またまた縁談を一つ、お断り申し上げたからだ。いや、正確にはお相手の方から「あんな令嬢、こっちから願い下げだ!」と、涙ながらに訴えられたらしい。うん、知ってた。


「お父様、わたくしをお呼びでして?」


 書斎で熱読していた胸キュン恋愛小説から顔を上げ、しれっとお淑やかに返事する。指先にはさっきまでページを挟んでいた紙の感触が残っていて、インクと羊皮紙の匂いが、まだ鼻の奥にやわらかくこびりついている。


「お呼びでして、ではない! エリザベート!おまえという娘はっ!」

「あらお父様、ごきげん麗しゅうございます」


 ヒステリックにわめく父を華麗にスルー。椅子からすっと立ち上がり、スカートの皺を指先で払ってから、優雅にカーテシー。


 私、エリザベート・フォン・モンヴェール、十八歳。


 地味な茶色の髪はきっちり三つ編み。顔の半分を覆うような大きな丸眼鏡。これが私の戦闘服(?)。特技は読書! 趣味も読書! 好きなものは本! 嫌いなもの、現実の男との恋愛沙汰!


 母が腕組みし、扇で机を叩く。ぱちん、と澄んだ音が書斎の空気に跳ねた。


「エリザ! いい加減になさいませ! あなたももう十八ですのよ! いつまで本に埋もれて結婚から逃げ回るおつもり!」


 私はページを閉じ、指先で表紙の革の手触りをなぞりながら、小さく微笑む。


「あら、わたくしは逃げてなどおりませんわ。ただ、殿方がたのお眼鏡にかなわなかった。それだけのことでございます」


 そこへ父がどすどすと近寄り、重たい足音が床板を揺らす。机に拳を打ちつけた衝撃で、インク壺の中の黒がぷるりと震えた。


「どの口がそれを言うかっ! わざと嫌われるような奇行に走るお前が!」


 眼鏡を押し上げ、肩をすくめる。レンズ越しに見える父の顔が、怒りでまっかっか。


「まあお父様ったら。まるでわたくしが奇人変人のようですわ」


 ――否定はしないけど。


 そう。私は別に結婚が嫌なわけじゃない。ただただ、面倒くさいのだ。


 貴族令嬢としての嗜みは一通り叩き込まれた。刺繍? ダンス? まあ、人並みには。でもでも! 私の心をときめかせるのは、インクと羊皮紙の香りだけ!


 朝一番に新しい本のページを開いたときの、あの少し乾いた紙の匂い。インクが染みこんだ文字の黒さ。あれに比べたら、殿方の甘い言葉なんて、砂糖水みたいに薄く感じてしまう。


 恋愛小説は大大大好きだ。ドキドキするし、胸が締め付けられてキュン死に寸前になる。でもそれは、あくまでフィクションだから輝いているのだ。現実の殿方が「我が愛しの君」だの「君のためなら死ねる」だの囁いてきたところで、ねえ?


「うふふ、なんてロマンティックなのでしょう(感情ゼロ)」

「感動で胸が張り裂けそうですわ(大嘘)」


 口ではそう言いながら、心の中では本の続きのことを考えている。だって、昨夜のあの告白シーンの続きが、どうしても気になっているのだ。


 そんなんだから、これまで持ち込まれたご縁談は百発百中で破談。両親の胃に穴を開け続けて早数年。お薬ちゃんと飲んでるかしら。薬草の匂いが屋敷から絶えないのは、もしかして私のせい?


「よろしいか、エリザベート! 今夜の王宮夜会が、お前にとって最後の機会だと思え!」


 父がビシッと、それはもう最終勧告の勢いで言い放つ。額にはうっすらと汗。怒鳴りすぎだ。


「もし今夜も相手を見つけられなかったら……お前を辺境の修道院に叩き込むからな!」

「まあ素敵! 静かな環境で思う存分読書三昧ですわね!」

「エリザベーーーート!! この親不孝者めがぁぁぁ!!」


 本日二度目の父のハイトーンシャウトが、春の麗らかな青空に高らかに吸い込まれていった。窓の向こうで、木々の小鳥が一斉に飛び立っていくのが見えた。ごめんね小鳥たち。


◇◇◇


 そして夜!


 キラッキラのシャンデリアが目にも眩しい、王宮の夜会ホール!


 幾十もの蝋燭の炎が天井近くで渦を巻き、金の飾りに反射して、視界のあちこちで光がちらつく。胸元まで届く音楽が、弦と管の重なりでホールを満たし、床には人々の靴音が絶え間なくリズムを刻んでいた。


 色とりどりのドレスと軍服が、まるで万華鏡のようにくるくる踊る。香水とワインと人いきれの入り混じった甘い匂いが、ほんのりと鼻にまとわりつき、コルセットの締め付けと相まって、胸の奥がじわりと重くなる。


 そんな中、私は壁の花! ……いや、もはや壁の染みと化して気配を消していた。背中の大理石がひんやり冷たくて、ここだけちょっとした避難所だ。


「エリザベート様、今宵の貴女は夜空に輝く月よりもなお美しい……」


 今日のターゲット……いやいや、熱心な求婚者のお一人、ねっとり粘着系で有名なボルドー子爵が、うるんだ瞳で私を見つめてくる。口元から甘ったるいワインの香りがして、少し酔っているのか頬が赤い。


(うわぁ……今日のノルマ達成まで、あと何分耐えればいいのかしら……)


 内心で盛大なため息をつきつつ、完璧な淑女スマイルを顔面に貼り付ける。頬の筋肉が引きつりそう。


「まあ、子爵様ったら、お口がお上手ですこと」

「この後、私の屋敷のバルコニーで美しい月を見ながら語り合いませんか? もちろん、二人きりで……ね?」


 ぐいっと力強く腕を掴まれ、ぞわわわっと全身に鳥肌が立つ! 掴まれたところから、肌が冷たくなっていくような感覚。


(逃げろ!今すぐ逃げるんだ、私!)


「あ、あちらに! とても珍しい七色に光る夜光蝶がいますわ!」


 あらぬ方向を指さし、子爵が「なぬっ!?」と気を取られたその一瞬!


 私はドレスの裾をひるがえし、猛ダッシュ!


 滑りやすい床をヒールで蹴るたび、かつん、と乾いた音が響く。人混みを巧みにかき分け、袖のレースが何度か他人の衣装に引っかかりそうになりながら、柱の陰から、さらに奥のテラスへと逃げ込んだのだった。


「はぁ……はぁ……ま、撒けた……かしら……?」


 ぜえぜえと息を切らし、テラスの手すりに寄りかかった、その時。


 夜風が汗ばむ首筋を撫で、さっきまでまとわりついていた香水の匂いを、少しだけさらっていく。遠くの庭から、夜咲きの花のほのかな香りが混ざり込んできて、肺に入る空気が急に冷たく澄んだ。


 ふいに背後から、ゾクッとするほど低い声がした。


「お困りのようだね、レディ?」

「ひゃっ!?」


 心臓が跳ねる勢いで振り返ると、そこには……!


 息をのむほど美しい男性が、月光を背に立っていた。


 漆黒の闇を溶かし込んだような黒褐色の髪。吸い込まれそうなほど深い、燃えるような紅色の瞳。白いシャツの襟元から覗く喉のラインに、月の光が薄く滑っていく。まるで、闇の神に愛された貴公子。少女漫画から飛び出してきたの? レベルの美形!


(だ、誰……!? 見たことないお顔だけど、とんでもないイケメン……!)


 思わずぽけーっと見惚れてしまった私に、その人はゆっくりと近づいてくる。靴音が石畳の上で柔らかく響くたび、胸の鼓動が妙に意識されてしまう。


 そして、私のすぐ目の前でぴたりと立ち止まると、くんくん、と鼻をわずかにひくつかせた。


(え? 何? この人、私の匂い嗅いでるの……?)


 次の瞬間、彼はうっとりと恍惚の表情を浮かべて、こうのたまったのだ。


「……君の匂い……すっごく気に入った」


「うへっ!?」


 思わず、カエルの潰れたような声が出た。自分でもどこから出たのか分からない音。


「ああ、なんて極上の香りなんだ。まるで、魂の奥底が歓喜に打ち震えるようだ……」


 彼の視線が、私の髪から首筋、胸元へとふわりと滑っていく。今日、侍女が選んだのは、香りの控えめな白い花の香油だったはずだ。けれど彼の言い方は、それだけじゃない何か――もっと奥の、自分でも意識したことのない部分まで嗅ぎ当てられているようで、背中に妙な汗がにじんだ。


「あ、あの……どちら様で……?」


 私の全身全霊の困惑を完全スルーして、彼は恍惚とした表情で言葉を続ける。


「生まれて初めてだ。こんなにも心が、本能が掻き立てられる香りは」


 そして、有無を言わさず私の手を取り、その燃えるような紅い瞳で射抜くように見つめて、こう高らかに宣言したのだ!


「決定だ。君は、今日から俺のものだ」


「…………はいぃぃぃぃぃぃ!?」


 何なのこの人、マジで怖い! 顔面偏差値は神レベルなのに、言動が完全にヤバい人じゃないの!


 手を握られたところが熱いような、冷たいような、変な感覚でじんじんして、頭の中までしびれてくる。


 私が脳内パニックでフリーズしていると、そこへタイミング最悪にも、先ほどのボルドー子爵が息を切らして追いついてきた。額に汗をにじませ、胸をぜえぜえ鳴らしている。


「エリザベート様! こんなところにおられましたか! さあ、私の腕の中へ!」

「ひぃっ!」


 またしても腕を掴まれそうになった、その瞬間!


 目の前の超絶美形様が、子爵の腕を音もなくパシッと掴み返した。指先だけで、まるで軽い小枝でも掴むみたいな動き。


 え、何その反射神経。そして何その握力。子爵の顔がみるみるうちに歪んでるんですけど!


「彼女に気安く触れるな。汚らわしい」


 地を這うような、凍てつくほど低い声。さっきまでのうっとりした声とは別人みたい!


 テラスの空気が一瞬で冷え込んだ気がして、夜風が首筋に刺さる。


「な、なんなのだ貴様は! 私は栄えあるボルドー子爵であ――」

「黙れ、愚図。その名を二度と俺の前で口にするな。虫唾が走る」


 美形様の紅い瞳が、恐ろしいほど冷酷に細められる。まるで獲物を仕留める直前の猛獣。


 ボルドー子爵は、その尋常ならざる覇気に完全に腰が砕け、顔面蒼白どころか土気色。


「ひぃぃぃ! も、申し訳ございませんでしたぁぁぁ!お許しをぉぉぉ!」


 子爵は脱兎のごとく逃げていった。まさに蜘蛛の子を散らすよう。あっという間の出来事だった。逃げていく背中の香水の匂いが、風に流されて薄れていく。


「……ふう。鬱陶しい羽虫が消えたな」


 美形様は、何事もなかったかのように涼しい顔で私に向き直る。その紅い瞳は、またしても、さっきのうっとりとした熱っぽい色に戻っていた。ころころ変わるその色に、こちらの心拍だけがついていけない。


(変わり身の早さが神業レベル!)


「さて、改めて自己紹介させてもらおう。俺はアルヴィン・ラヴェル。伯爵だ」


「は、ははは、伯爵様……でいらっしゃいましたか!?」


 ラヴェル伯爵家といえば、王族の血縁にも連なる超名門! しかも現当主は若くして「竜神」の異名を取るほどの無双の剣士だと噂に聞く。舞踏会の噂話の中で、何度となく耳にした名前。そのたびに、私は「ふうん」と本のページに視線を戻してきたのだけれど――。


 ――そして、鉄壁の堅物で、女性には一切興味を示さない、とも。


(え、えええ!? この人があの!? 噂と百万光年くらい違うんですけど!? むしろ真逆!)


「それで、愛しい君の名前は?」

「え、えっと……エリザベート・フォン・モンヴェールと申します……」

「エリザベート……ふむ。エリィ、と呼んでも差し支えないかな?」

「な、ななな、馴れ馴れしいにもほどがありますわ!」


 思わず素で叫んでしまった。だって! 初対面(しかも超ド級の変態発言付き)の男性に、いきなり愛称で呼ばれるなんてありえない!


 アルヴィン様は、心なしか少しションボリした顔をする。さっきまで猛獣みたいだったくせに、急に子犬みたいな目になるのはずるい。


「そうか……残念だ。だが、すぐにそう呼んでもらえるよう、俺は努力を惜しまないつもりだ」


(そういう問題じゃないのよ!)


「そ、それよりもアルヴィン様! 先ほどの『俺のもの』というご発言は……いったい……?」


「ああ、言葉の通りだ。君の、その魂ごと俺を惹きつけてやまない極上の香りに、俺はもう完全にノックアウトされてしまった。だから、君を俺の妻として、この腕に迎え入れたい」


「…………やっぱり筋金入りのド変態じゃないですかぁぁぁぁぁ!!」


 私の魂の絶叫が、静まり返った夜のテラスに虚しく、そして高らかに響き渡った。

 テラスの欄干越しに見える庭園の闇が、さっきよりもぐっと深く感じられる。月だけが、呆れたように白く光っていた。


 この夜の衝撃的な出会いが、私の退屈極まりなかった本だけの日常を、根底からひっくり返す大事件の幕開けになるなんて。この時の私はまだ、知る由もなかった。


 そして、彼の燃えるような紅い瞳の奥に、時折ふっとよぎる、深い深い孤独と悲しみの色の意味も、まだ。


(第1話 了)

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