第4話-本当って、何なんだろう

「みなさん〜!今日はとても光栄なことに、皆さんの大先輩であり、優秀なOBをお招きしました!しかも現役のスーパーヒーローなんです。盛大な拍手でお迎えください……嶋田悠馬さん。いや、皆さんにとってはこの名前の方が馴染みがあるでしょう……ポリス様です!」

壇上の先生がそう紹介すると、多くの生徒たちにとっては初めてスーパーヒーローを間近で見られる機会だったこともあり、教室中は大きな歓声と拍手で包まれた。

「うわっ、やべぇ!生で見るの初めてなんだけど!」

「すごい……背も高いし、めっちゃイケメン!」

「ポリス様〜!大好きです!」

男女を問わず、クラスメイトたちは彼の名前を熱狂的に呼び続けた。今日は教室内に欠席者は一人もおらず、さらには廊下にまで人だかりができ、壇上をじっと見つめている。

あまりに多くの熱い視線に、ポリス様は思わずわずかに落ち着かなくなった。群衆の前に立つことにはもう慣れているはずなのに、母校で後輩たちにこうして見つめられるのは、どこか複雑な気持ちを呼び起こすのだった。

先生はそのまま壇を降り、場をポリス様に任せた。

「ありがとうございます。皆さん、こんにちは。今日はここに来られて本当に嬉しいです。先生の紹介にもあった通り、実は僕も昔はこの学校の生徒でした。――というわけで、本日はいろいろよろしくお願いします」

ポリス様はにこやかに、少しだけお堅い挨拶をしてから、「質問形式でざっくばらんに話しましょう」と手を挙げてもらうことにした。教室の手は一斉に上がり、彼は次々と指名していく。

「好きな食べ物は?」

「そうだな……最近はホットドッグが気に入ってるかな」

「じゃあ、ドーナツは?」

「はは、たまには食べるよ。コラボの依頼、待ってます」

「どんな音楽を聴きますか?」

「昔からK-POPが好きでね。TWICEとか……いまの若い子たちって、まだ聴いたりする?」

「じゃあ、メンバーの中で一番好きなのは?」

「うーん……難しい質問だな……あえて言うなら……ジヒョさん、かな」

「ベンチプレス、どれくらい挙げられるんですか?」

「それがね……正確にはもう長いこと測ってないんだ。ただ、昔クルマに押し潰されかけた時に、片側をちょっと持ち上げて抜け出したことはある。あれが何キロかは、さすがにわからないけどね。はは」

教室はどよめきに包まれる。

「能力って、生まれつきなんですか?」

「いや、違うよ。特殊な血清を投与されて力を得たんだ。初代ポリス様と同じタイプの血清さ。もっとも、初代はもうずいぶん前に引退してるから、知らない子も多いかもしれないけどね」

「どうして、あなたがその血清を打てたんです?」

――教室の隅で、手を挙げずに声を放つ者がいた。顔立ちは霞んで、はっきりと見えない。

「僕は二代目ポリス様の選考に参加して、幸運にも選ばれたんだ。だから――」

「違う。どうやってチャンスを得たかを聞いてるんじゃない。……“何の資格があって”、ヒーローになれたのかを聞いてるんだよ」

「え……? し、資格って……どういう意味だ……?」

その瞬間、教室の空気が凍りついた。全員が一斉にポリス様を見つめる。

もう一人、やはり顔がぼやけた生徒が声を上げた。

「わからないの? 君みたいな人間が二代目に選ばれるなんて、おかしいだろ。――良心が痛まないの?」

「えっ……その……俺は……」

ポリス様の頭は真っ白になり、言葉が出てこない。その時、教室のあちこちで生徒たちの顔が次々とぼやけ、皆が一斉に彼へと視線を向け始めた。

「もしかして、初代が直々に『二代目は君だ』って言ってくれたの?」

「ち、違う……そんなことは……」

「本当はわかってるだろ? 君より相応しい人間はいくらでもいた。橘さんとか……あるいは――涼上とか」

「り、涼上……?」

その名を耳にした瞬間、ポリス様の中で何かのスイッチが弾けたように、全身が動揺で支配される。混乱に呑まれ、言葉すらうまく紡げなくなっていく。

「どうした? 忘れたのか? それとも……思い出すのが怖いのか?」

教室の奥――人混みの中に、漆黒のシルエットが立っていた。全身が黒に塗り潰されているはずなのに、ポリス様には“誰”なのかがはっきりとわかってしまう。

「す、涼上……ご、ごめん……俺は……」

その瞬間、黒い人影を中心に、虚無の闇が教室全体を侵食していく。生徒たちの顔はみな溶けるように曖昧になり、ぞろぞろと立ち上がっては屍のように壇上のポリス様へと歩み寄り、じわじわと取り囲んでいく。

異変を察知したポリス様は必死に教室から出ようとするが、両脇からは先生や大人たちが壁を作るように立ち塞がる。気がつけば、その顔もまた、ぼやけた仮面に変わっていた。

「どうした? また逃げるつもりか?」

「ち、違う……俺は……」

なぜか身体は鉛のように重く、一歩も動けない。ただ後ずさりして壁際に追い込まれ、迫り来る群衆を正面から受け止めるしかなかった。鼓動はどんどん早まり、恐怖は膨れ上がり、声すら喉から出てこなくなる。

黒いシルエットを先頭に、生徒たちは完全に彼を取り囲んだ。圧迫感で息が詰まり、殴る者、蹴る者、制服や装備をむしり取る手……そして耳元で悪魔のように囁き続ける声。囁きは空間全体に反響し、頭の中を侵食していった。

「や、やめろ……」

ほとんど裸同然にされ、恐怖と無力感に支配されたポリス様は床に蹲る。顔を上げることもできず、ただ両耳を塞いで声を遮ろうとする。だが囁きは直接脳に突き刺さり、逃れる術はなかった。

――「やっぱり変わってないな、昔と同じだ」

――「その制服を着る資格なんてない」

――「加害者のくせに」

――「ヒーロー? 偽善者の間違いだろ」

――「逃げることしかできない臆病者」

――「笑わせるな!」

――「全部お前のせいだ」

――「情けないな、その姿」

――「哀れだ、ざまあみろ!」

――「お前のせいで俺たちは――」

――「気持ち悪い!」

――「みんな死んだんだぞ!!!」

「やめろォッ!!!!!」

最後の叫びが頭に響いた瞬間、ポリス様はベッドから飛び起きた。荒い呼吸、止まらない震え、冷や汗が全身を伝う。

必死に周囲を確認し、ただの悪夢だったと理解したところで、わずかに安堵の息を吐く。だが表情はすぐに虚ろになり、無言のまま浴室へ向かった。

シャワーの水が絶え間なく降り注ぐ中、彼はぽつりと自分に言い聞かせるように呟いた。

「そうだ……俺なんて、所詮……」

=================================


「では、これで退院手続きは完了です。ご快復をお祈りします、橘さん」

病院の受付で手続きを終えた橘は、再びお馴染みの黒いフライトジャケットを羽織った。数日前、DSAが正体不明の敵に襲撃された際、彼を含め多くの職員が負傷して入院していた。

数日の療養を経て、身体のあちこちにまだ傷は残っているものの、自由に動ける程度まで回復したため、今日ようやく退院となった。

「橘さん、今お時間ありますか? 少しご同行をお願いします」

声をかけてきたのは、片腕をギプスで固めた男だった。橘が視線を向けると、彼は胸ポケットからDSA職員証を取り出す。身分を確認した橘は、特に何も言わずそのままついて行った。

「どこへ?」

「別の病室です。高瀬さんがあなたを呼んでいます」

「おぉ……元気そうか?」

「大事には至ってませんが、しばらくは入院が必要ですね」

「そうか……お前も大変だな。手が治ってないのに働き詰めで」

「仕方ありません。非常事態ですから、誰一人として手を休められないんです」

「ちょっと待てよ……それなら、なんで他の奴らをもっと呼ばない? 俺の同期でも、現場にいなかった職員でも、他に山ほどいるはずだろ。でもこの数日、ここで見かけたのはごく一部だけだ。それに携帯まで制限して……一体どうなってるんだ?」

「申し訳ありません。この病院は現在、半封鎖状態にあります。他の職員は自由に出入りできませんし、電子機器の使用も制限されています。……詳しい事情については、高瀬さんから直接お聞きください」

廊下には警察やDSA職員が何人も警戒に立っていた。どうやら彼の言葉通り、病院全体が封鎖体制に置かれているらしい。

橘と男は一つの病室の前に到着した。入口には数名の職員が立ち、橘の証明書を確認し、ボディチェックを済ませてからようやく通された。橘はドアの前で軽くノックする。

「俺だ。入るぞ」

「どうぞ」

「……DSAは数日前、正体不明の敵に襲撃され、現在までに死者六名、負傷者は二十名近くにのぼっています」

病室に入った橘の耳にまず飛び込んできたのは、テレビのニュースだった。画面にはDSA襲撃事件の速報が映し出されている。視線を移すと、ベッドに横たわる高瀬の姿。顔色は悪くないし、致命傷というわけでもなさそうだ。眼鏡をかけた彼は、険しい表情で机に広げられた大量の書類に目を落としていた。

「高瀬さん、俺を呼びましたか?」

「やあ橘。怪我の具合はどうだ?」

橘の姿を確認した高瀬はテレビを消し、横の椅子を示して座るよう促す。しかし手元の資料にはまだ目を通し続けていた。

「まあ何とか。普通のチンピラ相手なら、まだやれるくらいです。……高瀬さんは?」

「大したことはないさ。ただ、しばらく入院だな。歳を取ると治りも遅くなる」

「……えっと、それだけ聞きたくて呼んだんですか?」

問い返された高瀬は、初めて橘の方へ顔を上げた。そして手元の書類を脇に寄せ、真剣な眼差しを向ける。

「橘。――あの日、なぜあそこにいた?」

「……は? どういう意味です?」

「襲撃の日、君はあのフロアにいた。だがあの時、私はすでに職員全員に赤色警戒を発令していたし、あの階は通常職員立入禁止区域だ。君はどうやって入った? 規則違反は明らかだ。DSAの規定では、私は君を処分、最悪解雇する権利もある」

「ま、待てよ……はぁ!? 俺は命懸けでビルの外壁よじ登って、頭ひとつどころか二つも三つも上の巨体と殴り合って、血まみれになってここに担ぎ込まれたんだぞ。それを今さら“規則違反だからクビ”だと? ふざけんなよ!」

高瀬の冷酷な問い詰めに、橘は一瞬言葉を失い、次いで爆発するように怒鳴り返した。

「君の答え次第で、今後の処遇を決める。だから正直に話せ」

対する高瀬は表情一つ変えず、淡々とした声音を崩さない。その態度に、橘は肩の力を抜き、やや苛立ちを抑えながら口を開いた。

「……あの時、ちょうど外からDSAに戻る途中で、一通の退避指示のメッセージを受け取った。最初はそのまま指示通り帰ろうと思ったんだが、中にまだ人が残ってるかもしれないと気になって……結局引き返した。

一階に入った時、上の階から銃声が聞こえた。現場にいたのはポリス様だけで、他にヒーローも支援部隊もいなかった。見過ごせるわけないだろ。だから彼と示し合わせて、俺が外壁を登って強化ガラスを破って侵入した。

その後は……あんたと合流して、あの得体の知れない化け物と鉢合わせ。戦って、派手にぶっ飛ばされて、こうして病院行きになった――ただそれだけだ」

「外のガラスは強化仕様だ。どうやって割った?」

「その少し前に、得体の知れない武器で銀行強盗をやってる連中を相手にしたんだ。その時に手に入れた、短い棒みたいなやつがあってな。たまたま持ってたから、それで叩き割った」

「他に、君と敵が接触しているのを見た者は?」

「ええと……赤髪の女がひとり。俺と一緒に止めようとしたんだが、全然歯が立たなかった。結局、無駄だったよ」

「……経緯は大体わかった。だが一つ、どうしても理解できないことがある。なぜわざわざ危険に首を突っ込んだ? 君だって馬鹿じゃない。安全圏に留まるのが最善なのはわかっていたはずだ。

“誰かを助けたい”という理由を挙げるなら信じなくもないが……あの状況で君が出てこなくても、誰も責めはしなかっただろう。逆に“敵を倒すためだ”と言うなら、君が敵と示し合わせて芝居を打った可能性すら排除できない。――それでも、なぜだ? なぜそんな選択をした?」

問いかけに、橘はしばし沈黙する。だがやがて、少年のようにまっすぐな眼差しで答えた。

「……自分が正しいと思ったことに、理由なんて要るのか? 俺が知っているヒーローなら、誰だってそうするはずだ。全員だ。……まあ、俺はただの凡人だけどな」

「勇気と無謀は別物だ。前線に立たなくても、できることはいくらでもあったはずだ。君はヒーローじゃない。能力も装備もなく、一人で、何が待ち受けているかもわからない。何より――君には“やらなきゃならない理由”なんてなかった」

高瀬の理路整然とした返しに、橘は言い返せず黙り込む。だがしばらくして深く息を吐き、再び顔を上げた。その目は、どこか少年のように真っ直ぐだった。

「……そうだな、全部その通りだ。誰にも強制されてねぇし、俺が行かなくてもきっと誰も責めなかった。俺なんてただのオッサンで、特別なもんは何一つない。誰が見ても無駄死にだって思うだろう。……正直、今思い返しても、あの時の俺は頭がおかしかったとしか言えねぇ。

だってよ、素手でビルをよじ登って、バラバラにされかねない化け物に挑むなんてさ。映画の撮影じゃあるまいし、金積まれても普通やらねぇだろ。

……でも、あの瞬間だけは“立たなきゃ”って思ったんだ。力がなくても関係ねぇってな。もちろん口で言うのは簡単だし、後付けでカッコつけてるだけかもしれない。

でも――あの時の俺は、“もしかしたら自分にもできるかもしれない”って、ほんの少しだけ信じたんだ。……まず信じて、それから動く。そうすりゃ、ただの無謀とは呼ばれねぇだろ?」

「つまり……“できるかもしれない”って信じただけで? ただの感覚で動いたのか?」

「そうだ。信じるかどうかはあんた次第だが、本当にそれだけだ。……まあ、結果は何もできずにボコられただけなんだけどな」

橘は肩をすくめ、苦笑混じりに言った。さっきまでの英雄然とした勢いは一気に半減したが、その態度はどこか誠実でもあった。

高瀬はしばし彼を見つめ、黙考する。

「……わかった。もう行っていい」

「えっ? それって……クビってことですか?」

「いや、職はそのままだ。ただ、今の君に働ける状態じゃないのも事実だ。病院を出て、しばらく休め。次の指示があるまでな。もちろん、この件については守秘義務がある。徹底してくれ」

「休暇? イエス!……っていや待て、確かに休めるのは嬉しいけど、今どういう状況なんだよ?」

「最悪だよ。端的に言えば――DSAは壊滅状態だ」

「待て……壊滅って、どういう意味だ?」

「数日前の襲撃で、数十名が死傷し、本部ビルは深刻な損壊を受けた。現在は封鎖され、当面は機能しない。

それだけじゃない。メディアは連日大騒ぎ、株価は暴落、たった数日の間に数十億円規模の損失が出ている。……だが本当に深刻なのはそこじゃない。DSA内部の機密が漏洩し、しかも犯人はまだ捕まっていない。

これまでの混乱なんて前菜に過ぎん。これから起こることの方が、我々を本当に破滅させるだろう」

高瀬は死人のような顔つきで、淡々と現実を突きつけた。

「じゃあ……俺たちはどうすればいい? ヒーローに応援を頼むとかは?」

「もちろん、関係機関と協力して調査や緊急対応は進めている。だがな……正直、この件は厄介すぎる。できる限り内密に処理しなければならん。基本的に、外部には頼れない」

「は……? なんでだよ?」

「これから先は機密事項だ。君の職務範囲を超えている。――橘、もう下がっていい」

「待てよ……俺は当事者の一人なんだぞ。この状況を知る権利くらいあるだろ? た、確かに自分から首を突っ込んだのは認める。けど……一応は女ひとり助けただろ! ……たぶん……いや、技術的には助けたってことでいいよな? とにかく、俺をこんな病院送りにした相手が何者かくらい、知ってて当然だろ。それに、あの化け物は俺の顔を見てる。もしまた襲ってきたらどうすんだよ!」

橘の訴えに、高瀬は小さくため息をつく。そして机の上の資料の一つを手渡し、説明を添えた。

「敵は最初、一般人の姿で現れた。ただし“催眠眼鏡”を使っていたため、我々には正体が見抜けなかった。その後、あの巨体へと変貌した。だが、現時点で把握している超人類データには、該当する能力者はいない。これで答えになったか?」

橘は資料をめくりながら、高瀬の言葉を頭に刻み込んだ。敵の輪郭がおぼろげに見え始める。

「そのブリーフケース……DSAを潰しかねない代物を奪われたって言ってたが、中身は一体なんなんだ?」

「……正直に言おう。君は知らない方がいい。あれはDSAの最高機密に近いものだ。たとえ知る権利があったとしても、その真実と、それに伴う責任を背負えるかどうか……疑わしい。

どうしても知りたいと言うなら止めはしない。ただし、その時はすべて自分で背負え。――警告はしたからな」

「……正直、自分に何ができるのかなんてわからない。でも……だからって“何もしない”なんて嫌なんだ。少なくとも俺にとっては、少しでも動いた方が気持ちは楽になる……はずだから」

「……もう一度言う。誰も君に強制はしない。動かなくても、誰も責任を押し付けたりはしない。だが今回の件は、面倒ごとと痛みと危険しかもたらさないだろう。それでも“気が楽になる”ためにやると言うのなら……私は止めない。すべて君自身の選択だ。本当に理解しているのか?」

高瀬は深く念を押すように言い切った。それ以上は言わず、橘の答えを待った。

橘は俯いたまま、しばらく沈黙を続けた。

「……高瀬さん。俺にDSAで働く機会をくれたこと、本当に感謝してます。数年前、あんたが受け入れてくれなかったら、俺なんかここにはいなかった。今の俺は説得力ゼロかもしれませんけど……ここでやっと、自分の居場所を見つけられた気がするんです。もしそれまでなくなったら……俺は、本当に何も残らない」

両拳を強く握りしめる橘。その目は少年のように真っ直ぐでありながら、大人の暗さと現実も滲ませていた。

高瀬はしばし橘を見つめ、それから諦めたようにため息をついた。

「……わかったよ」

彼は傍らから一つの試験管を取り出す。中には桃色に輝く液体。橘はそれを目にした瞬間、思わず目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。

「こ、これは……」

「どうだ、見覚えがあるだろう?」

「まさか……俺の思ってるアレか?」

橘の問いに、高瀬は静かにうなずいた。

「――臨時性の超能力血清だ。使用者は短時間だけ超人類の力を得られる。残念ながら、私が密かに取り戻せたのは一本きりだがな。」

「ま、待て……頭が追いつかねぇ……つまり、お前ら、こんなもんを裏で作ってたってことか? しかも大量にあったそれを敵に奪われた? な、なんでそんな……」

橘は混乱で言葉もうまく繋げられなかった。

「もし“なぜ極秘で製造していたのか”と聞きたいのなら……それは私と上層部で協議した上での決定だ。数年前、黒市にこの類いの薬剤が流通し始めた。当時のものは効果が乏しく、ほとんど失敗作だった。だが、我々はその潜在性を見た。

考えてみろ。これを使えば、ただの一般人がポリス様を凌ぐ力を一時的に得られる。そして薬効が切れれば力は消え、再び普通の人間に戻る。――単純で扱いやすい武器だ。あれば我々自身を守る手段にもなる」

「じ、自分たちを守るって……誰からだ?」

「人類に脅威を与え得る存在すべてだ。とりわけ超人類を想定している。戦争の抑止にも、超級ヴィランの制圧にも使える。必要とあらば……ヒーローに対してさえもな」

「なっ……ヒーローに? 正気かよ!」

「橘、よく聞け。数十年前、超人類が初めて現れた時、この世界は根底から変わった。今や“人が空を飛ぶ”ことを誰も不思議に思わなくなった。

だがもし、ヒーローですら手に負えない脅威が現れたら? あるいはヒーロー自身が突然悪に走ったら? その時、普通の人間はどうなる? 全滅だ。

――空間にゲートを開く者、あらゆる物質をすり抜ける者、天候を操る者、怪力・不死身・飛行・眼からのレーザーを兼ね備えた者。そんな連中を、現代兵器だけで止められると思うか?

だから“保険”が必要なんだ。いざという時に、これがあれば多少なりとも抗える。力そのものに善悪はない。どう使うか次第だ。……君も理解しているだろう、橘」

「……もっとも、今さらこんな話をしても仕方ないがな。敵は大量の血清を奪った。いつでも超人類のテロ組織を作れる規模だ。

しかも今回の襲撃には不自然な点が多い。まるで我々の内情を熟知しているかのように、血清の存在も、保管場所も最初から把握していたようだった。……出来すぎていると思わないか?」

「な、何を言いたいんだ……?」

「合理的に考えれば、敵はDSA内部の人間と見ていいだろう。そうでなければ知り得ない情報だ」

「……内通者? なんだよ、人狼ゲームでもやってんのか」

「橘、これでわかっただろう。DSAは“普通の人間とヒーローを繋ぐ橋渡し”だ。だが、その立場で密かに“ヒーロー対策用の血清”を作っていたと知られたら? しかも内部の裏切り者に奪われたとなれば……DSAはもう終わりだ」

「……じゃあ、どうすればいい? 俺にできることはあるのか?」

「他に道はない。敵が誰なのか突き止め、奪われたものを取り戻すしかないんだ。……橘、君はもう知ってしまった。責任から逃れることはできない。

君に残された選択肢は二つだ。ひとつは、このまま私の下で雑務をこなすことだ。もっとも、君の能力と頭じゃ足を引っ張るのがオチだろう。最終的にはコーヒーの買い出し要員になるだけだ」

「おい、俺だって一応は国立大卒なんだぞ? ……まあいい。で、二つ目は?」

橘は不安げに問い返した。

「私は他の対応で手一杯だ。敵の行方を調べる時間はほとんどない。そこで臨時に調査班を編成した。……橘、二つ目の選択肢は、その班に加わり、敵を突き止め、血清を取り戻すことだ。――さあ、どうする?」

高瀬の視線を受け、橘はしばし考え込み……やがて口を開いた。

「決まってるだろ。あんなボコボコにされて、黙ってられるかよ」

「いい返事だ。病院の外に車を回しておく。すぐに班の責任者と合流しろ」

「了解。じゃあ行ってくる――」

「――待て、もう一つだけある」

背を向けかけた橘を、高瀬の声が呼び止めた。

「君個人に、追加の任務を託したい。班の任務とは関係ない。どう扱うかは君の自由だ。受けるかどうかも含めてな」

「……なんだって?」橘は怪訝そうに眉をひそめる。

高瀬は机の上から例の試験管を取り上げた。

「この最後の一本を――君に預ける。どう使うかは君次第だ」

「は、はぁ!? 本気か!?」橘は思わず声を荒げる。

「私が冗談を言うように見えるか?」

その表情は先ほどと同じく、揺るぎなく真剣だった。

「……ど、どうして俺なんだ? 俺を信じるのか?」

「君は過ちを犯した。だからこそ、私たちよりも正しい選択ができるかもしれない」

橘は試験管をじっと見つめ、しばらく黙り込んだ。自分の心の奥底すら揺らいでいるようだった。

「……わかった。預かるよ」

差し出された瓶を大きな手で受け取る。その小さな容器は、なぜか鉛のように重く感じられた。橘の胸には複雑な思いが去来する。

「では――橘、幸運を祈る」

「……ああ。じゃあ行ってくる」

どこかぼんやりとした表情のまま、橘は血清を身に収めて病室を後にした。

去っていく背を見送りながら、高瀬は再び机上の資料に目を落とし、低く呟いた。

「……橘。お前はやっぱり、自分を許せないんだな」

橘はひとり、退院のため病院の廊下を歩いていた。途中、重傷で治療を受けている仲間の姿や、完治していないのに動き回る職員たちの姿が目に入る。

彼は立ち止まり、しばしその光景を見つめたあと、財布から一枚の写真を取り出した。写っているのは高校生の少女。

写真を見つめ、首を振って気持ちを立て直すと、橘の表情はより引き締まったものに変わる。

「凛……行ってくる」

写真をしまい込み、橘は病院を後にした。

================================


橘は病院を出たあと、車に乗ってある国立研究機関へと向かった。行き先に多少の疑念を抱きつつも、指示通り下車して中へ入る。

身分を提示し、セキュリティチェックを受けた後、職員に案内されて辿り着いたのは研究室兼会議室のような部屋だった。

橘は軽くノックをした。すると自動でドアが開く。案内役の職員はそのまま立ち去り、橘はやや緊張した面持ちで室内へ。そこに実験用の白衣を着た男が立っているのを見て、橘は思わず軽く一礼した。

「初めまして、橘と申します。高瀬さんの指示でこちらに参りました。どうぞよろしくお願いします。」

「ああ、聞いていますよ。私は比嘉。ここの研究員で、ずっとDSAとも協力してきました。こちらこそよろしく。」

比嘉は穏やかに笑みを浮かべながら自己紹介を返した。

「比嘉……比嘉博士?もしかして“地球で一番頭がいい人”ってやつですか? ヒーローたちの道具やスーツをいろいろ作ったって聞いたことがありますけど。」

「はは、まあ確かに私は頭がいい方には入ると思うよ。でも“一番”ではない。上位の一人、くらいかな。」

「じゃあ、ここにいるってことは博士が僕らの指揮官なんですか?」

「いやいや、違うよ。私も君と同じで呼ばれただけさ。指揮官は高瀬さんだ。もうすぐ来るはずだよ。」

「え? でも高瀬さん、忙しくて来られないって……」

「おや? もう来てたのね。……って、本当にあなたなの?」

不意に女の声が響き、橘が振り向くと、一人の女性の姿が近づいてくる。よく見れば、以前どこかで会った顔だった。

「き、君は……あの時の……?」

彼女は橘より数歳若く見え、冷静な表情に対し、鮮やかで鋭い印象を与える赤いポニーテールがよく映えていた。

「ああ、高瀬さんが来た。彼女が今回の指揮官だよ。」

比嘉博士が橘に紹介する。

「えっ、君も高瀬って……まさか……?」

橘が困惑した声を上げると、彼女は小さくため息をつき、自ら名乗った。

「高瀬花里奈。……父のことは、もう知っているでしょう。」

高瀨は腕を組み、橘の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「ま、まさか……君が彼の娘さん? えっ? でもよく見れば確かに似てるかも……参ったなぁ、今度は父親から娘さんに仕えることになるとは。と、とにかく、俺は橘って言います。俺は――」

「あなたの資料はもう確認してあるわ。橘煉司、三十二歳。軍事訓練を受けた経験があり、DSAに入る前はスタントマン。――なるほど、私たちにはあなたのように“しぶとい”人材がもっと必要ね。」

「つまり……あなたが俺たちのチームの指揮官ってことですね? じゃあ、俺は何をすれば?」

「まずは情報整理からよ。あなたはあの時、敵と至近距離で交戦したはず。……何か気づいたことは?」

高瀨は敵に関する資料を一冊、橘へ手渡す。橘はそれを開きながら思案した。

「うーん……力は相当強いし、動きも速い。それに腕を別の形に変化させることもできる……」

「ありがとう。でもそれくらいは誰でも分かるわ。あなた、あれだけ殴られておいて役立つ情報は一つもないの?」

「……ほとんど一方的にボコられてただけですけどね……。防御力が高すぎて、どう殴っても効いてる感じがしなかった。……ただ……あの“サイリウム”を使った時だけは……」

高瀬は比嘉博士に指示を出し、博士は端末を操作して当時の戦闘映像をスクリーンに映し出した。どうやらフロアの監視カメラが捉えた映像らしい。

画面には、高瀬が例の謎の武器で敵の背後を突き、初めてダメージを与えた瞬間が映る。続いて橘がヘルメットを脱ぎ、全力で敵の頭に叩きつけ――その巨体が初めて両膝をついた。

「どうやら、これが唯一まともにダメージを与えられた場面ね。あのサイリウムはただ傷を与えるだけじゃなく、敵の装甲にも干渉して、これまで通らなかった物理攻撃を通すことができたようだわ。」

その時、比嘉博士が別の画面を呼び出し、謎の武器に関する解析データを表示した。

「この数日で調べた結果、サイリウムのエネルギー構成は地球由来ではないことが分かった。……宇宙から来たものだ。それに、十五年前の“129事件”――あの異星人襲撃の際に使われた一部の武器と類似している点も見つかっている。」

「……つまり……あいつも宇宙人ってことですか?」

「現時点では断定できない。ただ、敵の能力がそれらと何らかの関連を持つのは間違いないと思う。今後も調査を続けるつもりだ。」

「よし、とりあえずここまでね。次は――どうしたの、橘? 何か気になることでも?」

高瀬は、資料と画面を見つめて考え込む橘に気づき声をかけた。

「さっき“交戦して何か気づいたことはないか”って聞かれましたよね。考えてみたんですけど……多分、気に入らない答えになると思います。」

「言ってみなさい。」

「その……俺には敵の目的がよく分からないんです。」

「目的? DSAの機密と血清を盗むことじゃないの?」

「いや、それじゃなくて……。あいつ、戦いに慣れてないというか……本気で殺す気で戦ってるようには思えなかったんです。」

「橘、あいつは実際に何人も殺しているのよ。」

「分かってますよ。そのことは残念に思ってます。でも……どうにも引っかかるんです。

あの力が本気なら、俺たちなんて一瞬で殺せたはずでしょう? なのに俺も生きてる、あんたも生きてる、あんたの父さんも生きてる。ほかにも助かった人間はいる。

……信じてください。人が“本気で殺そうとしている”かどうかは、必ず伝わってくるものなんです。」

「……つまり、“殺すつもりがなかった”って言いたいの?」

「分かりません。ただ……事はそんなに単純じゃない気がするんです。」

「……分かった。とりあえず、あなたの言葉は覚えておくわ。

ともかく、敵がDSA内部の人間である可能性は高い。そこで、怪しいと思われる候補を何人かリストアップしたの。

この資料を見て、何か思い当たる人物がいないか確認して。」

高瀬は橘に新たなファイルを手渡した。

「どれどれ……えっ? 鈴木……こいつは……」

「どうしたの? 彼に何か怪しい点でも?」

「いや、怪しいとかじゃなくて……あいつ、まだ俺に金返してないんだよな。……あ、いや、今は関係ないけど。」

高瀬は呆れ顔で目をそらし、橘はさらに資料をめくっていく。――そして、とある見覚えのある名前で手が止まった。

「……えっ? ま、まさか……こいつが……?」

「新人の西山よ。どうかした? あなた、彼と親しいの?」

「何度か一緒に仕事しただけです。でも……どうして彼までこのリストに?」

「理由は単純よ。DSAに入ったばかりの新人なのに、すぐに事件が起きた。疑われても不思議じゃないでしょ。

あなた、彼と関わったことがあるなら、何か“変だ”と感じたことはなかった?」

「うーん……正直、そこまで親しいわけじゃないですけど……彼が宇宙人の殺人犯だなんて、とてもじゃないが思えません。

俺が鈍感なだけかもしれませんが、特に“怪しい”と感じたことは……。」

「仮に彼が敵だったとしたら――あの時、あなたの顔を見て“昔のよしみ”で手を止めたのかもしれない。

あなた自身、“本気で殺す気がなかったように感じた”って言ってたわよね。もしそうなら、全部つじつまが合う。」

「わ、分かってます。でも……でも……」

橘は、西山が敵かもしれないという考えをどうしても受け入れられず、言葉を詰まらせた。

「もちろん、これはあくまで推測よ。確かな証拠が必要だし、いずれにせよ私たちは彼を調査する予定。

あなたの場合は状況を考慮して、別の任務を任せた方がいいと思うわ。」

「……」

「どうしたの? 何か不満でも?」

「……高瀬さん。もし可能なら、西山の調査……俺にもやらせてもらえませんか?」

「橘、この件は非常に重大よ。もし私情に流されたら――笑い事じゃ済まないわ。」

「分かってます……。でも……以前、あなたのお父さんに頼まれて俺が西山の指導役をやってたんです。

もしあの時、彼におかしな点があったのに気づけなかったとしたら――今回の事態、俺にも責任の一端があるかもしれない……。」

「何度も言うけど、まだ敵が誰か確定してないのよ。あなたがそこまで思いつめる必要はない。」

「それでも……できるなら、もう一度彼と会って確かめたいんです。今度こそ、俺は――」

橘は険しい表情で、手にしたファイルをぎゅっと握りしめた。

「……分かったわ。でも忘れないで。私はあなたの上官よ。行動する時は必ず私の指示に従うこと、それが条件。」

「承知しました。ありがとうございます。」

「あ、そうだ。危うく忘れるところだったわ。父が血清をあなたに託したんでしょ?」

「ああ、そうだ。」

「……」

「……」

「……今、持ってるの?」

「あるよ。」

「じゃあ出しなさいよ。使い方を教えるから。」

「お、おう……悪い。」

「はぁ……ほんとポンコツね。」

「……間違いなく、親子だな。」

返す言葉もなく橘は血清を取り出した。高瀬に呆れられつつも、比嘉博士は画面を切り替えて血清のデータを映し出し、さらに特殊な注射器のような器具を手渡した。

「これは注射器だ。血清をそのまま入れて、血管に直接打ち込めばいい。すぐに効果が現れるはずだ。

能力は主に身体能力の強化――怪力、スピード、耐久力、反応速度……そういったものだろう。ただ、具体的な表れ方は個人差に左右される。持続時間も未知数だ。

まだ試作品の段階だが、以前の旧バージョンに比べればかなり安定しているよ。」

「じゃあ……副作用は?」

橘が尋ねると、比嘉博士は一瞬言葉を切り、それから続けた。

「……肉体的な激痛に加えて、精神錯乱、幻覚、感情の暴走なども報告されている。後遺症が残るかどうかも分からない。

だから、よほどの緊急時以外は安易に使わないことを勧める。」

「……できれば、使いたくなんてないですよ……。」

橘は顔を曇らせ、低くつぶやいた。

「……よし、今日のところはここまでにしましょう。あなたも一度帰って、しっかり休んで。」

「分かりました。……でも、“調査”って具体的にはどうするんです? そもそも、犯人がまた姿を現すんでしょうか。」

「もし彼がDSAの一員なら、また必ず姿を現すはず。……橘、あんたも覚悟しておきなさい。」

高瀬は拳を軽く握り、闘志をのぞかせながらそう告げた。

「……DSAでの仕事が、再び始まるってことよ。」

=================================


「はぁ……休暇明けって、やっぱり気が重いな……」

数日後、橘は再びDSAへ足を運んだ。建物に入る前、彼は入口付近を歩き回りながら周囲の様子を確認する。

施設は依然として半封鎖状態で、周囲には警察や関連職員が警戒に立ち、さらには野次馬の姿も以前より増えていた。

西山の姿は見当たらない。橘は深く息を吸い、意を決して中へ入った。

建物へ入る直前、橘は無意識にジャケットの内ポケットへ手をやり、中身を確かめた。

――あの血清と注射器。いまや外出する時は常に身に付けるようにしている。まるで海外旅行のパスポートを肌身離さず持ち歩くように。

襲撃から一週間近く。応急処置を経て、DSA内部は一見通常業務を取り戻したかのように人々が行き来していた。

「いないな……まだ来てないのか、それとも……」

オフィスに到着した橘はまず西山の姿を探す。しかし見当たらない。

数秒考えた末、彼はいつものルーティンを済ませることにした――トイレで一仕事。

便座に腰を下ろし、用を足しながら思考を巡らせる。

「もし西山が本当に“あの敵”だったとしたら……これまで見せてきた姿のどこまでが本物なんだ……」

橘はぶつぶつと独り言を漏らす。時折途切れる声は、排便に力を込めているせいだった。

「そう考えると、俺は西山のことをほとんど知らない……。どのみち、もっと彼を知る必要がある……あああっ! くそっ、昨日何食ったんだ俺は……!」

用を済ませ、橘はオフィスへ戻った。

「もっとも……奴が本当に姿を見せるかどうか――って、うわっ!」

橘は反射的に近くのデスクに身を隠した。その不審な動きに周囲の職員が白い目を向ける。

理由は一つ。視界に“目標人物”――西山の姿を捉えたからだ。

西山はいつも通りスーツ姿で、無表情のまま橘の席のあたりに立っている。おそらく橘を探していたのだろう。

数秒後、橘は小さくため息をついた。

「なんでだよ……元カノにばったり会った時より緊張してんじゃねぇか、俺……」

橘はゆっくり立ち上がり、姿勢を整えてから席へと歩を進める。

距離が縮まるごとに心拍数が上がっていくのを感じながら、彼はそっと西山の肩に触れた。

「……っ!? た、橘さん……?」

「……よ、よぉ……久しぶりだな、西山……」

突然肩を叩かれた西山は小さく震え、橘を見て目を丸くする。驚きと動揺で口調が少しどもり、橘もまた気恥ずかしそうに挨拶を返した。

「ひ、久しぶりです、橘さん……そ、その、あの時以来……」

「ああ、先週の事件の後、DSAは封鎖されてたからな。……お前、大丈夫か? 怪我とかしてないか?」

「あ、はい……僕は大丈夫です。橘さんこそ……怪我をしたって聞きましたけど、大丈夫なんですか?」

「今はもうほとんど治った。たいしたことじゃないさ、はは……」

「……」

「……」

不自然な会話が途切れ、気まずい沈黙が落ちる。橘は本来、西山の反応を探るつもりだったが、自分でも情けないほど上手く話を運べなかった。

「あの……橘さん、僕、そろそろ仕事に戻りますね……」

「……あ、ああ……分かった……って、ちょ、ちょっと待て!」

西山が立ち去ろうとした瞬間、橘は思わず大声を上げる。突然の呼び止めに、西山は再び肩を震わせた。

「えっ……な、何ですか?」

「いや、その……最近ちょっと飲みに行きたい気分でな。高瀬さんにも“新人を頼む”って言われてるし……分かるだろ?

だから、今夜あたり軽く一杯どうだ? 二人だけで……簡単な歓迎会ってことで。どうだ?」

「あ……そうなんですか……」

「で……どうだ? 時間、空いてるか?」

西山は一瞬迷う素振りを見せたが、橘の自然で真剣な眼差しに視線を向けられ、返事をした。

「……分かりました。大丈夫です。」

「よし、じゃあ今夜な。」

「は、はい。では、また後ほど……橘さん。」

西山は少し考えた末にそう答え、オフィスへ戻っていった。

橘も彼の様子を一度確認してから自分の席に戻り、いつものように端末を立ち上げる。――だが仕事を始めるわけではなく、腕を組んで考え込んでいた。

「やっぱり……どこかに違和感がある。でも、その正体は一体……」

橘は先ほどの会話を反芻しながら、西山の態度や言葉を必死に探ろうとした。

「そういえば……前に俺がブチ切れた時でさえ、西山は落ち着いてた。それなのに、今日のただの雑談ではどこかぎこちない……。

普通の同僚同士だって、しばらく会わなければこうなるもんなのか? それとも、俺が疑心暗鬼になってるだけなのか……?」

橘は堂々巡りの思考に沈み、次第に自分を疑い始めた。

「待てよ……俺が怪我したこと、知ってるのはごく一部のはずだ。……なのに、どうして西山は……」

再び思案に沈みながら西山の方へ視線をやる。橘はすぐに高瀬へ簡単な報告を送り、そのままパソコンで飲み会に良さそうな店を検索し始めた。

気付けば退勤時間が近づいており、橘は西山の近くに座っている同僚に声をかけた。

「おい、小林。ちょっと聞きたいことがあるんだが、今いいか?」

「なんだよ? またデータ写させろとか言うんじゃないだろうな?」

「は? なんのデータだよ……まあいい。実はな、西山の近くに座ってるだろ? 今日の彼の様子、どうだった?

ほら、高瀬さんから新人の面倒見ろって言われてるし、実際のところどうしてるのか気になっててさ。本人には直接聞きづらいだろ?」

「うーん……そんなこと言われても、俺も彼と全然親しくないしな……。でも、少なくとも問題なさそうだったぜ。

さっきも、知らない職員が物を落として散らかした時に拾ってあげてたし、不機嫌そうな顔もしてなかった。

……まあ、相手が黒ストッキングの美脚女子だったからかもしれんけどな。ははっ。」

「そうか……」

橘は考え込んでしまい、背後に人が近づいていることに気付かなかった。

「橘さん?」

「えっ!? に、西山……?」

今度は逆に、西山の声に驚かされて橘が肩を跳ねさせた。

「すみません。ちょうど退勤時間だったので……橘さんのオフィスに行ったんですけど、姿が見えなくて。」

西山は朝のぎこちなさとは違い、自然な口調で答えた。特に不審な点は見えない。

「ああ、分かった。ちょっと片付けるから、すぐ行こう。」

「はい、分かりました。」

西山は頷いて自席に戻り、荷物をまとめ始めた。

橘も片付けをしながら思考を整理し、気持ちを切り替えて西山のもとへ向かった。

「よし……じゃあ行くか。」

「はい。」

久しぶりに二人きりになった橘と西山は、そのまま並んでDSAを後にした。

「橘さん、これから行くのは……?」

「ああ、悪い。実はアメリカンスタイルのバーを予約してあるんだ。前に行ったことがあって、結構よかったから。……先に言うべきだったな、すまん。別の店にするか?」

「いえ、大丈夫です。僕もそういう店は行ったことがないので……いい機会かもしれません。」

「そうか……。今の時間だと道路は混んでそうだな。よければ電車で行こう。そんなに遠くない。」

「はい。」

二人は軽く会話を交わしながら駅へ向かい、そのまま電車に乗り込んだ。幸運にも席が空いており並んで腰を下ろす。

だが、乗客が増えて車内が混み始めると、自然とまた沈黙が訪れた。

「…そういえば…今日は残業じゃなかったのか?」

橘は沈黙を破ろうと、先に口を開いた。

「えっ…まあ、だいたい終わりましたから…ちょうど先週…」

「そうか…なるほどな。そういえばさ、今日は一人で大丈夫だったか?」

「うん…まあ、なんとか…」

「そうか。もし分からないことがあったら、俺でも他の誰かでも遠慮なく聞けよ。」

「はい…ありがとうございます。」

「…」

「…」

そのとき、電車にちょうどおばあさんが乗ってきた。だが、空いている席はどこにもなかった。橘はそれに気づいて、周囲を少し見回したあと、腰を上げようとした――その瞬間。

「もしよければ、こちらにどうぞ。」

「まあ、ごめんなさいね。ありがとう。」

意外にも先に立ち上がったのは西山だった。彼は丁寧に声をかけ、席を譲ったのだ。その姿を見つめながら、橘はふたたび考え込むような表情を浮かべた。

ほどなくして電車は駅に到着し、二人は降り立った。改札を出て少し歩くと、目的地の店に辿り着く。中へ入ると、そこは普通の居酒屋よりもずっと賑やかで、まるでアメリカンレストランのような雰囲気だった。だが、大きなスクリーンで生中継されている野球の試合に、西山の視線が自然と引き寄せられる。客たちは酒を飲みながら大声で盛り上がり、スクリーンの前に集まって観戦する者も多い。その熱気はさらに高まっていた。

「わあ…」西山は思わず感嘆の声を漏らした。

「ははっ、すごいだろ?俺も最初に来たときはびっくりしたさ。中に入るか? それとも、別の場所にする?」

「い、いえ…せっかくだし…大丈夫です。」

「よし、じゃあ入ろうか。マスター! 二人だ!」

店員に案内されて席についた二人は、周囲の賑やかな空気に少しずつ影響され、肩の力を抜いていった。

「ここは料理もうまいぞ。遠慮せず好きなだけ頼め。今日は俺のおごりだからな。」

「い、いや…そこまでしていただかなくても…」

「ははっ、いいって。どうせ俺も腹減ってるし、多めに頼もうぜ。」

注文を済ませると、すぐにビールが二杯運ばれてきた。

「じゃあ、とりあえず――乾杯!」

「乾杯。」

橘がグラスを掲げ、西山もそれに合わせて軽くグラスを鳴らした。橘はビールを豪快に一口飲み干し、心なしか表情も緩んでいった。

「ぷはぁ~っ。仕事終わりの一杯は、やっぱ最高だな!」

「はは、分かります。」

「そういえば、こうして一緒に飲むのは初めてだよな。せっかくだし、あとで店員さんに写真でも撮ってもらおうぜ。」

「いやいや、そこまでしなくても…」

「いいじゃないか。今日は新人歓迎会ってことで。ま、二人きりだけどな、ははは。」

「ふふっ、それも確かに。」

橘だけでなく、西山の表情も少しずつ柔らかくなっていった。ほどなくして、ハンバーガー、フライドチキン、ポテト、ナチョスといったジャンクフードが次々とテーブルに並ぶ。橘は大きくハンバーガーにかぶりつき、ポテトを一度に数本まとめて口へ放り込み、さらにビールで流し込んだ。そして満足そうに笑い、大叔らしい豪快な笑い声を上げる。

「うおおっ、たまんねえな!やっぱジャンクフードは最高だ! 西山も食ってみろ!」

「じゃあ、いただきます。」

西山もハンバーガーとナチョスを口に運び、もぐもぐと噛みしめる。

「……これ、美味しい。」

思わず目を丸くしてうなずく西山の様子に、橘はにんまりと笑った。

「だろ? 遠慮すんな、どんどん食え!」

店内に流れる音楽に合わせて、二人は料理を味わいながら大きなスクリーンの野球中継を眺め、気づけばすっかりこの賑やかな雰囲気に溶け込んでいた。観客席から時折響く歓声も耳に入り、ますます場の空気は高まっていく。

「あっち、すごく盛り上がってるな。そういえば西山って、何かスポーツやってたのか?」

「うん…高校のとき、一時期だけ野球部に入ってたことがあった。」

「へえ? じゃあ野球が好きなのか?」

「いや…別に。下手だったし…それまで野球の経験なんて全然なかったから…」

「え? じゃあ、なんで野球部に?」

「それは…」

「おっと、無理に言わなくてもいいぞ。」

「いや、大したことじゃないんだ…」西山はビールを一口飲み、頭をかきながら続けた。

「ただ…その頃好きだった子が、野球部のマネージャーだったから…」

「えっ、そうなのか? ははっ、意外と普通だな、お前。」

橘が少し笑うと、西山は当時を思い出したのか、どこか気恥ずかしそうな表情になった。

「で、結局その子とは…?」

「何もなかった。自然消滅だよ。」

「卒業後も全然連絡取ってないのか?」

「うん。もう連絡できなくなった。」

西山はどこか寂しげに苦笑した。その表情を見て、橘は妙に見覚えがある気がしたが、特に深く考えはしなかった。

「ドンマイ。アニメみたいな青春なんて大抵ウソだよ。俺たちみたいに普通のやつの方が多いんだ。――それとも、このあとキャバクラにでも行くか?」

冗談めかして言った橘に、西山は危うく口の酒を吹き出しそうになった。

「な、なんでいきなりそんな話に…」

「ははっ、冗談だって。ただ…本当に行きたいなら別にいいけどな?」

橘がわざと眉を上げてみせると、西山も小さく笑みを浮かべた。

「はは…まあ、その話はまた今度だな。」

「行きたくなったら、いつでも呼んでくれよ、bro。」

「broって…友達…ってことか…」

「ん? 何か言ったか?」

「い、いや…別に。」

西山は小さくつぶやいたが、橘の耳には届かなかった。

そして二人はそのまま少し黙り込み、周囲の賑やかな空気にさらに身をゆだねていった。

しばらくして、西山はビールをぐっと飲み干し、軽く息を吸い込むと橘に口を開いた。

「あの、橘さん、あなたはどう…」

ちょうど言いかけたその時、西山のスマホが鳴り出した。

「あっ…すみません、ちょっと…」

画面を見た西山の表情が一瞬だけ変わる。

「気にするな。出ていいぞ。俺はちょうどトイレに行ってくる。」

橘はそう言って席を立った。

「うーん…やっぱり特に怪しいところは感じられねぇな…むしろ、前より少し分かった気がするくらいだ…」

橘はファスナーを下ろしながら、ぼそぼそと独り言を漏らす。

「…何にせよ、こいつにはできるだけ今回の件に関わってほしくねぇ…」

トイレを済ませて席に戻った橘は、店内外が妙にざわついていることに気づいた。客たちは一様にスマホを見つめ、あちこちでざわざわと議論が起きている。大スクリーンの前にはさらに多くの人が集まっており、西山もそこに立っていた。橘は訝しみながら近づき、画面を覗き込む。そこには野球中継ではなく、緊急ニュースが映し出されていた。

「…緊急速報です。先ほど入った情報によりますと、現役のスーパーヒーロー・ポリス様――嶋田悠馬氏は、学生時代に不良生徒であり、複数のいじめ事件に関わっていた疑いがあるとのことです。証言によれば、同級生に暴言を吐いたり、暴力をふるったこともあったとされています――」

そのニュースを目にした瞬間、橘の頭から酔いが一気に吹き飛んだ。

「What the fuck…?」

騒然とする店内。客の中には信じられないと顔を見合わせる者、憤りを隠せない者、失望の声を上げる者もいた。そんな中、橘は西山に視線を移す。彼は特に強い反応を見せず、ただ――その口元がわずかに上がっているように見えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る