乗馬倶楽部のもふもふな一日~仔馬と聖歌様~

時系列:もふアン遭遇前、春のある日の放課後。




 聖アストライア女学園の広大な敷地の一角に設けられた乗馬倶楽部。そこには、ヨーロッパの貴族の館を思わせる優雅な厩舎と、手入れの行き届いた広々とした馬場が備わっている。放課後、乗馬倶楽部のエースである橘響子は、数週間前に入厩したばかりの栗毛の仔馬にシルフィードと命名し、馬房で、その手入れに精を出していた。


「よしよし、シルフィード。お前、本当にいい子だな。毛艶もどんどん良くなってきたし、こりゃ将来が楽しみだぜ!」


 響子は、仔馬の首筋を優しくブラッシングしながら、快活な声をかけた。シルフィードは、まだあどけなさを残しながらも、そのすらりとした四肢と賢そうな瞳から、名馬の血統を感じさせる仔馬だった。響子にとっては、まさに期待の星である。


 そこへ、厩舎の入り口から、ふわりと春風のような気配と共に声がかかった。


「響子様、ごきげんよう。シルフィードちゃんにご挨拶にまいりましたの」


 声の主は、もちろん万里小路聖歌だった。彼女は、いつものように完璧な制服姿のまま、しかしその大きな蒼い瞳は、好奇心と期待でキラキラと輝いていた。


「お、聖歌様! よく来たな! 見てくれよ、こいつが噂のシルフィード! まだ小さいけど、足なんかもうカモシカみたいだろ? 父さんの知り合いの牧場でも、将来はグランプリを狙える逸材だって評判なんだぜ!」


 響子は、自慢の仔馬を聖歌に紹介しようと、その血統や運動能力について熱っぽく語り始めた。しかし、聖歌の関心は、どうやら別のところにあるようだった。


「まあ、響子様……。このシルフィードちゃんの、この……このたてがみ! なんて柔らかそうで、そして陽光を浴びて黄金色に輝いているのでしょう! まるで、最高級のシルクを何百本も束ねたタッセルのようですわね! そして、このお鼻の周りの、ビロードのような短い毛……。ああ、指先でそっと触れて、その繊細な感触を確かめてみたいですわ……!」


 聖歌は、シルフィードの血統書や将来性には一切触れず、ひたすらその「もふもふポイント」に熱い視線を注いでいた。響子は、そんな聖歌の様子に、苦笑いを浮かべながらも、どこか慣れた様子で頷いた。


「あー、うん、確かに毛並みは最高だよな。俺も毎日ブラッシングしてっけど、触り心地はマジでヤバいぜ。聖歌様も、よかったら撫でてやってくれよ。こいつ、人懐っこいから大丈夫だ」

「まあ、本当ですの!? ありがとうございます、響子様!」


 聖歌は、目を輝かせると、おずおずとシルフィードに近づき、その小さな頭にそっと手を伸ばした。シルフィードは、最初は見慣れぬ聖歌の姿に少しだけ警戒したような素振りを見せたが、聖歌の指先から伝わる優しいオーラと、彼女から発せられる微かな甘い花の香りに、すぐに安心したように鼻を鳴らし、聖歌の手に自ら頭を擦り付けてきた。


「まあ! なんて愛らしいのでしょう! このお鼻の先の、ベルベットのような滑らかさ……そして、この額の、つむじの周りの柔らかな産毛……。ああ、たまりませんわ……!」


 聖歌は、シルフィードの頭を優しく撫でながら、恍惚とした表情で呟いた。その指使いは、まるで貴重な美術品を扱うかのように丁寧で、シルフィードもまた、聖歌の撫で方がよほど心地よいのか、うっとりとした表情で目を細めている。

 響子は、そんな一人と一頭の姿を、微笑ましく、そして少しだけ呆れながら見ていた。


(聖歌様って、本当にブレねえよなー。どんな動物見ても、まず最初にチェックすんのが毛並みと手触りだもんな。まあ、シルフィードも気持ちよさそうだから、いっか)


「響子様、このシルフィードちゃんのお腹の毛も、触らせていただいてもよろしいかしら? あの、短くて密集した、まるで上質な絨毯のような……きっと、顔をうずめたら天国のような心地よさに違いありませんわ……!」


 聖歌が、真剣な眼差しで響子に許可を求めると、響子は思わず吹き出した。


「ぶはっ! 顔をうずめるって、聖歌様! さすがにそれはシルフィードもビックリするぜ! でもまあ、腹の毛が柔らかいのは確かだな。ほら、ここらへんなんか、マジでふわっふわだぜ」


 響子が、シルフィードの脇腹あたりを指差すと、聖歌は吸い寄せられるようにそこに手を伸ばし、その柔らかな感触を確かめるように、何度も何度も優しく撫で続けた。その間、彼女の口からは「ああ……」「素晴らしいですわ……」「この弾力、この温もり……」といった、感嘆の言葉が途切れることなく漏れ続けていた。

 しばらくして、ようやくシルフィードの「もふもふ」を堪能し終えたのか、聖歌は名残惜しそうに手を離すと、満足げな表情で響子に微笑みかけた。


「響子様、本当に素晴らしい体験をさせていただきましたわ。シルフィードちゃんのこの至高の手触りは、わたくしの『もふもふ記憶』の中に、永遠に刻まれることでしょう」

「そりゃよかったぜ! シルフィードも、聖歌様に撫でてもらって嬉しそうだったしな なあ、聖歌様、今度さ、一緒に外乗行こうぜ! 学園の裏の森の中をさ、馬で駆け抜けんの、マジで最高に気持ちいいんだぜ! 風を切って走るってのは、こういうことかって分かるからさ!」


 響子が、いつものように快活な笑顔で誘うと、聖歌は一瞬、その提案に興味を示したかのように見えたが、すぐに首を横に振った。


「まあ、外乗も魅力的ですけれど……。でも、風を切って走るよりも、わたくしはやはり、このシルフィードちゃんの温かいお腹に、もう一度だけ顔をうずめさせていただく方が……いえ、何でもありませんわ。うふふ」


 聖歌は、悪戯っぽく微笑むと、再びシルフィードの元へふらふらと近寄っていった。響子は、そんな聖歌の後ろ姿を見ながら、やれやれといった表情で肩をすくめた。


(聖歌様には、やっぱスピードとかスリルとかより、『もふもふ』なんだよなー。まあ、あれだけ幸せそうな顔見ちゃうと、こっちもなんか嬉しくなっけど)


 春の陽光が降り注ぐ聖アストライア女学園の乗馬倶楽部では、一人の少女の純粋な「もふもふ愛」が、仔馬と、そしてそれを見守る友人の心を、温かく包み込んでいるようであった。橘響子は、この風変わりな友人の持つ、不思議な「もふもふパワー」に、改めて感心せずにはいられなかった。


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