手塚詩織、襲来

 ぼくは雑誌のバーコードをスキャンした。手塚詩織がずっと怖いをしてぼくを凝視しており、へまでもしたら大変なことになりそうだ、と怯えていた。

 会計をなんとか終えてほっとしていると、

「今日、何時に終わるの」

 と手塚詩織が言った。

 以前翔真に話しかけていたときよりも低い、というか棘があった。

「え、それは」

「いつ終わるのよ」

 有無を言わさない、終業時間を伝えなければてこでも動かない、そんな強い意志を感じた。

「お客さま、なにかございましたか?」

 危険を察知したらしく、隣にいた森川さんが入ってきてくれた。「すみませんが個人情報をお伝えすることはできませんので」

「個人情報なんて興味ないです。この人と話があるんです」

 手塚詩織は森川さんのことなど眼中にないとばかりに、顔を向けもしなかった。

「どういうご用件ですか」

 ぼくは勇気を出して訊ねた。というか、なにも答えずにいたらずっと手塚詩織は立っていそうだった。

「は? わかってるでしょ。ここで大声で言ってやろうか?」

「言ってもいいですけど、警察呼びますよ」

 森川さんが言った。

「呼べばいいじゃない、こいつのほうが悪人なんだから」

 どう考えてもジャンルは翔真のことである。警察で話したってどうなるわけもない。なんだ、怒り狂って無敵のひとにでもなってんのか。

「あなたね、ふられたからっていい加減にしなさいよ」

 森川さんが言った。

「は?」

 ぼくはびっくりして森川さんを見た。

「なに言ってんのおばさん」

 手塚詩織は顔を歪ませた。

「あのね、桃井くんみたいな推しの弱い子にふられたからって、強気になったら自分の思い通りになるなんて思ったらだめよ」

「ん?」

 森川さんの言ってることが理解できなかった。

「あれでしょ、あなた、桃井くんのこと好きなんでしょ」

 森川さんが、まるで自信満々に、正解と言わんばかりにカウンターを叩いた。

「なんでこんな男の腐ったようなやつを!」

 手塚詩織が怒鳴った。

 べつに言われたところで傷つきはしない。でも腹が立つ。なんでそこまで言われなくちゃならないのかと。どちらかといえば、いまお前のほうがカスハラ発動しているぞ。気持ちが昂っているから、なんて理由にもならない。

 遠くで会計をしたいんだけどこの状況では、と迷っているお客さんが見えた。

 店内にいる人たち全員が注目している。なんなら動画撮られてSNSにあげられるかもしれない。

「閉店作業を終えてからの退社なんで、十時半になります」

 ぼくは手塚詩織に負けた。

「桃井くん」

 森川さんが困った顔をしていた。なんならぼくを逃してくれる手筈を頭のなかで考えてくれていたのかもしれない。でも今日難を逃れても、絶対に次も来ますから、この人。だから話を聞くしかない。

「わかった。店の前にいる。逃げんなよ」

 と手塚詩織はカウンターの雑誌を奪うように取って、店を出て行った。

 

「桃井くん、わたしもついていこうか?」

 レジ締め作業を終えて、バックヤードで帰りの支度をしているとき、森川さんが言った。

「いや、大丈夫です。立ち向かいますし、森川さんに危険がおよんだら大変ですから」

「わたしなんてもう年なんだし、死んだって大丈夫よ!」

 森川さんが胸を叩いた。

「ありがたいんですけど、死なれたら後味悪いんで、いいです」

「こっちだって桃井くんが刺されでもしたら。でも桃井くん、あんた意外と男らしいとこあるのね」

 僕の顔を見て、あ、差別っぽい発言した? と森川さんが慌てた。

「いや、全然です。でも、一度話し合わなくちゃならないかもって覚悟はしていたんで」

 正直ぼくは、翔真を恨んだ。なんなら連絡して呼ぼうかと思った。しかし、翔真がやってきて三人で話したとて、被害が広がるだけだろう。

「刺すかどうかはわかんないけど、腹に少年ジャンプでも入れておこうかな」

 とぼくは冗談にしてはずいぶんなことを言った。いちおう捨て身のギャグのつもりなのだが、

「お客の忘れ物のバットあるわよ、持ってく?」

 と森川さんはもっと物騒なことを言った。

「いや、多分大丈夫です」

 ぼくは断った。


 裏口で、森川さんと別れて、ぼくは店の前に向かった。

 手塚詩織はシャッターに寄りかかってスマホを見ていた。スマホのライトで顔だけが明るかった。

「お待たせ」

 ぼくは言った。

 手塚詩織は返事をせず、ぼくのことをじっと見た。

「ぼくになんの用ですか」

 もしものためにスマホで会話を録音したほうがよかったかも、なんて今更思った。でも、どこかでそれほど大ごとにはならない気がする。

「あんた、いつから翔真と付き合ってんの」

 手塚詩織が口をひらいた。

「二ヶ月前」

 僕は言った。

 先日、翔真と設定を詰めておいたのだ。

「どこで」

「友達の部屋で」

「誰の」

「そんなのべつにいいでしょ。知ってどうなるんだよ」

「なにを」

「友達の誕生パーティーで」

「なぜ? どんなふうに?」

「5w1Hになってんだけど」

「基本でしょ」

 手塚詩織はぼくを睨みつけたままだった。「絶対嘘」

「世の中に絶対なんてない」

 ぼくは自分でもなにを言ってるんだかわからなくなってきた。挑発しないようにしなくちゃいけないのに、確実に相手を煽っている。

 そうだ、ぼくは翔真と付き合っている(設定な)んだ。

 やり通さなくては、嘘だと絶対白状してはならない。

「あんたのこれまでのSNSに、翔真のことも、男がいるって匂わせもなにもないじゃない」

「エゴサしたんだ」

「したからあんたのバイト先を特定できた。あんた、『本屋のバイトだるい』とか、直後に五反田の店でおひとり様アピールしながら食べ物の写真あげてたから、簡単に特定できた」

「すごいね、探偵みたいだね」

「ふざけないで」

「SNSに翔真のことを書かないのは、ぼくらが付き合っているのを秘密にしているからだよ」

 うまい返しだ。誰も褒めてくれないから自分で自分を褒めてあげたい。

「当たり前でしょう。こんなことがばれたら、これからってときなのに、めちゃくちゃよ」

 こんなこと、というのはぼくと付き合っていることか、それとも男と付き合っていることか。どっちにしても、

「翔真に失礼じゃないかな、その言い方」

「あんた、いま翔真が一番大事なときだってわかってるわよね」

「それは」

 僕は口篭った。

 大学の三回生だからってこと? いや一番大事って、就職? ゲイだから就職できないなんて、そんな職場はこちらからお断りだ。

「事務所にスカウトされたばかりだっていうのに、男と付き合ってる? 悪いけど、日本ってそういうの寛容じゃないわよ。そんな噂が立ったらどうしてくれるの?」

 新しい情報が提示されて、ぼくは絶句した。事務所? スカウト? いや、おかしくないけど。むしろ芸能人というか俳優でないことがおかしいくらいだけど。

 そしてなぜかこの人、日本はまだまだ寛容ではないとか謎に代弁してくれてる。

「あんたは翔真の芝居のための材料でしかないわよ」

 手塚詩織はさっきまで睨んでいたというのに、急に憐れむように言った。

「材料」

「そう、次の芝居でゲイの役をやるから、どんなもんかって付き合ってるだけよ。きっとそう。あんたがすり寄ってきたから、参考になると思ってお情けで付き合っているだけだから。あいつ、役のことを考えたらそればっかりになって周りが見えないの。小学校のときの学芸会で、亀の役のときもずっと這いつくばったり殻に閉じこもるとか言ってダンボール箱被ってたし」

「なにそのおもしろエピソード。ていうか、手塚さん、翔真を昔から知ってるんだ」

 本気なのかギャグなのか、付き合いが長いというマウントなのか。

「わたしたち、結婚の約束してるから」

 手塚詩織が威張るように胸を張った。

「結婚」

 ぼくは喉を鳴らした。

「わたし、あんたなんてどうせ芝居が終わったら捨てられるだけだってわかってるから。身の程を知っておけってこと。あと、翔真はあんたと同じじゃないから。人間の価値も、あとゲイだって勘違いして仲間だとか思わないでよ。そんなこと絶対にないんだから」

 以上、忠告したから。

 手塚詩織は駅のほうへと大股で歩いて行った。

 その怒りを感じる背中を見送りながら。

 芝居が終わったら、って、そりゃそうだ。そういう約束だし。

 ぼくと翔真が釣り合わないのはわかっている。

 ゲイじゃない? それは手塚詩織が認めたくないからなだけじゃないのか。いや、役のために演技している?

 さまざまな思いが錯綜して、混濁して、どこから手をつけたらいいのかわからなくなった。

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