黒い太陽(1)


 早朝、首都ケメトの大通り。

 これからそれぞれの仕事や学舎へと赴く人々が、まばらながらも街へと集まる時間帯。

 ある人はしきりに空を気に掛け、またある学生は手元の携帯画面に釘付けとなっている。大通りの主役とも呼べる巨大な商業施設には壁面に埋め込まれた大型の液晶画面があり、その中では神妙な面持ちのナレーターが言葉を発していた。


「……繰り返しになりますが、本日も“黒い太陽”は定位置から一切動く様子がありません。

 気象衛星、天文台、宇宙監視ステーションを含むあらゆる機関が調査を続けていますが、現段階では“実体が存在しない”との見解が……」


 街行く人々はその情報に目や耳を傾け、気にするような素振りは見せるものの。長くその場に留まることはなく、自らの日常をこなす為に足を動かす。

 非日常ではある。だが、まだ彼等にとっては話題の種子でしかない。


「砂漠で彷徨った挙句に、夢うつつで辿り着くオアシスとでもいうのか? カメラにも映らない、我々の目だけがあの黒い太陽を見つけるだなんて……、集団幻覚と言われた方がまだ納得出来る」


 若いコメンテーターが肩を竦めながらそう発言する。

 まだこの世に生を受けて二十か三十だろうに、などと思う。少年の姿をしたホルスは街中を歩きながら、そんな自分の独り言に心の中で笑う。神であるその身だからこそ、たかが、と感じてしまうのは致し方のないことではあるが。

 すれ違う人々は皆“黒い太陽”の話題に夢中で、ホルスの存在を気に掛ける様子はない。ある程度自由に動けるよう、人間側から神の存在を認知出来ないように術は掛けているが。


 それでも、信仰の薄さを自覚する。全盛期とも呼べる時代と比べると、その力は人と同等か、それ以下だ。

 ホルスは傷の癒えた翼を広げ、ゆっくりと空を見上げる。


 太陽と同じ大きさの、“ナニカ”。

 あれを太陽などと呼びたくはない。が、同等の存在であることは、直感的に理解していた。

 それは光もなく、影を落とすわけでもなく。ただ、黒々とした体を空に浮かべている。


 ホルスは地面を軽く蹴ると、黒い太陽に向かって飛び立った。

 その姿を、真実を映す為に。


 順調に飛距離を伸ばし、雲の横を通り過ぎる。早朝の冷えた空気が肺に入り、ホルスは一度、瞬いた。天空の神である彼ならば、あと数刻もすれば黒い太陽の元へ辿り着けるだろう。

 視界が徐々に黒に支配される。本来であれば、ここまで近寄れば太陽はその真の姿を見せる。天体としての姿とは異なり、神の目を通すとそれは太陽神ラーを乗せた船の姿となる。船、と言っても小柄なもので、艀と呼ばれる運河などを渡るものではあるが。


(ここまで近付いても、何も見えない。いや、それどころか。本当に近付いているのかも、わからない……)


 力強く羽ばたき、速度を上げても。

 その距離は一向に、縮まらない。縮まって“いないような気がする“、というのが正しいか。

 背中に嫌な汗が伝う。引き返すという選択がホルスの頭に浮かんだその時、突然ぐるりと身体が上下に反転した。


「なっ!?」


 前触れもなく、強風が襲ったというわけでもなく。重力が無茶苦茶になった、そんな空間に突如閉じ込められた。ホルスの身体が上下左右に振り回され、どちらが天地かもわからなくなる。

 何とか立て直そうと翼を動かしても、安定には程遠く。何度目かの上下が逆さまになったその時、玩具で遊んでいた子供が急に手を離し、落下していく人形のように。ホルスもその場から解放された。

 その時、ホルスの色の異なる二つ眼は、全く違う景色を映していた。


 生き物も、植物の影も無い。

 デシェレトとはまた違った雰囲気の、生命の息吹を全く感じられない土地。

 泥土に塗れた、あの場所は……。


 かつて、世界に海だけが存在していた頃。

 初めて海面に姿を見せたという土地がある。

 太陽は海で濡れた身体をそこで乾かし、世界創造を始めたという。


 その場所こそ、“原初の丘“。


 今まさに、ホルスが見たものだった。


 見えたものはある。が、黒い太陽と原初の丘に何の繋がりがあるのか、それはまだわからない。

 何より、今。落下していく身体を止める術がない。翼は役に立たず、方向感覚も未だまともなものとは言えない。

 さてどうしたものかとホルスが頭を悩ませていると、ホルスの足首を何者かの手がガシリ、と掴んだ。


「おいおい、何が降ってきやがったのかと思えば……、しっかりしろよ王サマ」


 聞こえてきた声に目を瞬かせ、ホルスは逆さまの状態で何とか相手と視線を合わせようとする。


 そこにいたのは、太陽の船の守護を務める、セクメト女神であった。

 乱暴に船の上へとホルスの身体は投げ出され、べちりと間抜けな音を立てて尻餅を着く。


「いたた……。助かりました、セクメトさん」

「おう。怪我ねぇか?」


 ホルスは腰を摩りつつ立ち上がり、セクメトを正面から見上げる。セクメトの行動は豪快ではあるが、気遣いはある。故にホルスも特に文句は言わず、素直に御礼の言葉を述べた。


 彼女の背は高く、小柄なホルスと並ぶと威圧感がある。加えて視線だけで人を殺めることが出来そうなほど鋭い目付き。戦女神であるが故、ある程度の厳しさを感じることが出来る。

 胸部にはハーネスベルトを巻き付け、その身を引き締めている。ノースリーブの黒のハイネックは丈が短く、胸元までしかない。その剥き出しの腹や四肢には多くの傷が走り、歴戦の猛者に相応しい勲章にも見える。彼女の腹筋は見事に割れ、鍛え上げられた肉体は最早芸術美だ。


 セクメトはかつて、太陽神ラーが生み出した殺戮の女神。神を崇めることを怠った人々への天罰として、彼女は作られた。

 彼女は人を殺め続け、生みの親であるラーが「もう良い」と止めても血の味を覚えた獣として暴走し、最終的に血のように赤く染めた酒を飲み、酔ったところを回収された。

 その後殺戮衝動は身を潜め、こうして船の守護者として女神の仕事に就いている。


「あの黒い太陽を調べていたら、急に制御が効かなくなりまして。お手数をお掛けしました」

「あぁ、あの気味悪ィやつか。何かわかったのか?」


 緩やかに天を漕ぐ太陽の船の上で、ホルスとセクメトは互いに肩の力を抜く。気を張る必要性が無い、たったそれだけのことだが、彼らの信頼関係が感じられる空気が漂う。


「いえ、僕の眼でもよくわからなくて。一瞬、原初の丘が見えたのですが。黒い太陽との繋がりは不明です」

「へぇ。親父もアレに脅威を感じていないみたいだぜ。すっかりボケ老人だが、てめぇの身が危険ってなると敏感だし、そこは信用してるんだが」


 セクメトが船の奥に設置された寝台へと目をやる。

 布張りはされているが、その隙間から虚ろな目をした骨と皮だけとなった老人が横たわっているのが確認出来る。

 その老人こそ、この世界の太陽そのものであり、創造神なのだが――、今やその栄光の面影は無い。

 とはいえ、ホルスが少年の姿をしているように。ラーもまた、老人の姿が固定されただけだ。衰えこそある、だがセクメトの言う通り、創造神である彼の力は健在である。


「お久しぶりです、お爺様」


 ホルスは寝台に向かって頭を下げる。

 返事のつもりなのか、なにやら呻く声が返ってきた。聞き取ることは出来ないが、どうやら機嫌良く笑っているらしいとホルスの眼には見えたので、此方も軽く笑みを返しておく。


「セクメトさん、貴女も何か感じることはありませんか?」


 偉大なる太陽に挨拶を済ませ、引き続きホルスは黒い太陽についてセクメトに尋ねる。

 彼女は自身の顎に手をやると、首を捻りながら答え始めた。


「さてな……、敵だってなら、今直ぐにでもぶっ倒してやるよ。でもよ、例え今アレに攻撃したところで、徒労に終わるだけだろう? 俺の牙も爪も通りゃしねぇ、そんな無意味な戦いをする趣味はねぇんだ」

「……まるで一度攻撃したことがあるかのような言い方ですが?」

「ん。なんか文句あるか」

「せめて僕の許可を得てから……、いや、今迄黒い太陽と一番近い距離にいたのは貴女でしょうし……現場の判断ということにしておきます」


 セクメトの堂々たる態度に、王であるはずのホルスも目を伏せるしかない。彼女が好戦的な女神であることは百も承知だ。何より本当に危険があれば真っ先に王宮へと知らせてくれるだろう。セクメトとは、そういう女神だ。


「で? てめぇはこれからどうすんだ、ホルス」

「そうですね……、原初の丘について調べようかと。僕の眼が映したものなのですから、黒い太陽の正体に近付けるかもしれない」

「ふぅん。真面目に仕事するのも良いけどよ。ほら、あれだ。てめぇの母親。まだ塞ぎ込んでんのか?」

「……ええと」


 急な話題に、ホルスは言葉を詰まらせる。

 ホルスの母、イシス。

 彼女は今だに、ネフティスが王宮から去った事実を受け止めることが出来ていない。

 それこそ初めの頃は、物や従者に当たり散らかし、その鬱憤を周囲にぶつけていた。ホルスも自らを盾にし、どうにか母を落ち着かせていたのだが。


 ホルスだけでなく、セクメトも含めた多くの女神たちがイシスの元に訪れ、励ましたり、叱責したりと、様々な手段でイシスを宥めていたが……。

 暴れるような事はなくなったものの、今度は自室に閉じ籠もってしまった。すっかり塞ぎ込んでしまい、死人のような顔で王母の仕事を続けている。


 周囲に手を出さなくなっただけマシではあるが、どう答えたものかとホルスが迷っていると。

 セクメトがそんなホルスの肩に手を置き、からりと笑って見せる。獣のような尖った八重歯が見え、野生的な印象を強く与えつつも。母性とも呼ぶべき優しさを感じ取ることも出来た。


「ま、イシスの癇癪は今に始まったことじゃあねぇが。説得に手間取ってるってならいつでも俺を呼びな」

「いたっ。……ありがとうございます、セクメトさん」


 ばしり、とホルスの背中が叩かれる。

 その痛みに驚くものの、ホルスは薄らと頬を染め、少年の姿に相応しい朗らかな笑みを浮かべた。


 過去、セトと王座争いをしていた頃には。気付くことが出来なかった、周囲の温もり。

 己には母しかいない。父の仇を取ることでしか、自身の存在価値を見出せない。そんな風に、切羽詰まっていた頃がある。

 今は、そうではない。母イシスの影に怯えることもなく、頼れる者たちがいる。

 ホルスが温かな気持ちに包まれているのを見て、悪戯心でも沸いたのか。セクメトはニヤリと口の端を吊り上げると、地上を指差した。


 そこには黒い太陽に怯えながらも、日々の暮らしを続ける人間達の姿がある。


「今の人間達に不満があるなら。いつだって命じてくれよ。なぁ、王サマ?」

「……その時が来ないことを祈ります」


 殺戮の女神が、冗談だと笑っているうちに。

 ホルスは翼を広げ、太陽の船から飛び立っていった。



 後日、王宮内。

 山のように積まれたパピルス紙の中に埋もれ、羽根ペンを持つ手を忙しなく動かす書記官の姿がある。

 情報の書き込まれたパピルス紙が、彼の手からひらりと舞い上がり、粒子となって必要とする者の手へと運ばれていく。

 また、彼は机上に置かれたタブレット端末を操作し、慣れた手つきでデータ化した文章を先方へ送信。それが終わると、次は電話対応をこなしつつ目の前に設置されたモニターに向かってキーボードで文字を叩き込む。

 その作業が終わる前に彼の元に新たな仕事が運ばれ、書類の山が増えていく。


 虚ろな目でそれを見た彼は引き出しに仕舞って置いた小瓶を取り出し、その蓋を開ける。

 ごくりと喉を鳴らしたところで、彼は漸く部屋の入口に立つホルスの存在に気付いた。


「少々お待ちください……、この案件だけ片付けますので……」


 疲労の色を隠さずにへらりと笑ってみせる、若き書記官。見た目だけなら、ただの仕事中毒者。しかし、彼もれっきとした神なのである。


 知恵の神、トト。

 肩まで届くほどの長めの黒髪で、前髪の一部には銀色のメッシュを入れている。多少は目立つ外見の筈なのだが、何処となく平凡さが抜けきれていない。見た目だけは仕事慣れし始めた二十後半程度の男性に見えること、常に猫背気味であるということ、そして王宮勤めの書記官ならば誰でも着用することの出来るシンプルな制服、という装いなのも原因の一つだろう。言ってしまえば、何処にでもいるようなサラリーマンの風貌なのだ。

 こうして人間には到底無茶な仕事量をこなしていなければ、彼が神であることを忘れてしまうだろう。


 彼は“知恵”を司るが故、様々な分野の仕事をこなすことが出来てしまう。

 本来ならば彼の主な仕事は書記、つまりは“書き記すこと”が役目である。もう一つの主な仕事としては、冥王オシリスの補佐だ。


「トトさん、お忙しい中ありがとうございます。相変わらず凄い量ですね」


 ホルスは足元にまで散らばる書類を慎重に避けながら、部屋の中へと進んでいく。

 ここは元々応接室だったのだが、今は臨時的にトトの仕事場となっている。彼の普段の職場は冥界にあるのだが、こうして彼が地上に出ると彼自身が持ち込んだ仕事に加え、王宮内で彼を頼りにしている者たちが押し寄せ、更に仕事を増やしていくのだという。

 ホルスはそれを良しと思っていない。自身も王として多くの仕事を抱える身だが、トトは常軌を逸している。


「ホルス様のお気遣いもあり、これでも仕事量は減ったのですが……ふふ……、つい隙間があると思うと予定を捩じ込んでしまうんです。どうしてですかね」

「休んでください。拘束具をつけてでも休んでください」


 ホルスは真剣である。冗談で済ますべきことではない。

 恐らく、の話ではあるが神は過労死というものと無縁だろう。とはいえ、限度がある。


「我もその意見に同意する。トト、お前は仕事を詰め込み過ぎだ。医者の不養生とはよく言ったものだが……お前は医術を司る神でもあるのだろう? せめてこういった飲み物は避けろ」


 ホルスの後に続くように、ジャッカルの姿をしたアヌビスが部屋へと入ってくる。

 彼の視線の先はゴミ箱の中身。そこには大量の空き瓶が投棄されている。その瓶のラベルには朱鷺の面を被った筋肉質な男性が印刷されていて、怪しげな宣伝文句も綴られていた。


「アヌビス様、それは私の点滴のようなものでして」

「知っている。お前の自作した薬だろう? 死者も蘇る! がキャッチコピーの」

「ひどい」


 二柱のやり取りに、ホルスがぼそっと呟いた。

 その謎のドリンクに関しては、ホルスも王宮務めの神官達が愛飲しているのを目撃している。神経活性剤とのことだが、出来れば飲まない方が良いのだろう、ということは理解出来る。死者ならちゃんと棺で眠ってほしい。


「勿論本当に蘇るわけではありません! 今話題のカフェイン飲料と似た成分ですし、過剰摂取さえしなければ健康に害もなくてですね」

「この量はどう考えても害があるだろう。ホルス、冥界の監獄なら空きがある。此奴は早急にそこにぶち込むべきだ」

「良く眠れるアロマもありますよ、トトさん」

「あぁぁぁぁスミマセンやめてください次は休みます休みますから」


 トトの力説をスルーし、アヌビスとホルスは真顔のまま冷たく会話を続けた。

 余談だがホルスも多忙ゆえに眠れぬ日があるので、こっそり様々なアロマを試すのが今のマイブームである。


「では、僕が頼んだ例の資料だけ提出したら、即休暇に入ってください。これは命令ですよ」

「うぅ……」

「諦めろトト、王命だ」

「せめてオシリス様の残したリストの整理だけでも……、あぁぁぁホルス様の目が怖い初めて見たかもしれないこんなホルス様のお姿、立派になられましたねあはははは」

「本当にあの薬、おかしな成分は入っていないのか?」


 アヌビスが空き瓶の匂いを嗅ぎそうになったので、ホルスはやんわりと止めておいた。

 尚、目が怖いと言われたが。トトの悪あがきに気持ちも冷めに冷めて、氷点下にまで達していたのだろう。

 上司は怒らせない方が良い、それだけの話である。



 トトが涙ながらに資料を集めているのを横目に、ホルスはアヌビスと向き合う。

 アヌビスには未だデシェレトの捜索を命じており、今回もその報告がてら、此処に寄っただけだった。……誰かさんのお陰で、少し遠回りしたが。


「やはり、あの黒い太陽の真下にデシェレトの神殿があるようだ。ただ、嵐……いや、最早災厄そのものと呼ぶべきか。被害は広がっており、前回の時よりも近寄ることが難しい」


 突如現れた新たな災厄、バアル。

 彼は今も猛威を奮い、あの神殿を守っているようだが……、彼もまた、“融合された側”だった筈。

 その力は、神格は、どれほど残っているのか。そして、黒い太陽と関連はあるのか。まだ不明なことばかりだ。


「バアル、か……。彼を鎮める手段も考えないと」

「ああ、頼む。今回の捜索で、我の部下も二名ほど流されてしまった。奇跡的に怪我もなく、無事に戻れこそしたが……」


 解決すべき問題は多い。

 だが、そのどれもが一つに繋がっているような、そんな気もした。

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