君と死ぬために生きてきた

霜月ルイ

第1話:君と死ぬために、生きてきた。

 ただ、静かだった。


 白い天井に、ヒビが一本走っている。

時計は針を動かすのをやめていて、秒針がどこかを指したまま、沈黙していた。


 薬の瓶が倒れたまま、拾われていない。

コップは倒れ、水が床に滴り落ちている。

窓から差し込む夜の光が、あまりに静かで、

この部屋には、生きていた痕跡さえ、最初からなかった気がした。


 まぶたは開いている。

それなのに世界は、まるで膜の向こうにあるみたいに――ぼやけていた。

光も音も、遠く。

空気の感触さえ、もう体の外側で起きているように思えた。


 それでも、ただ一つだけ。

僕の手に残っていたのは、ミオの手の温もりだけだった。


「ねぇ、ユウ…」


 細く、かすれた声が僕の耳の奥で震えた。

それは声ではないのかもしれない、ただの記憶の残響かもしれない。

でも僕はそれが、ちゃんとミオの声だと分かった。


「ミオ…」


 声にならない声で彼女の名前を呼ぶ。

僕自身ちゃんと彼女の名前を呼べているのかは分からなかった。

もう声なんて出ていなかったのかもしれない。

それでも、彼女の手が僕の指をぎゅっと握り返した。

冷たくなっていく指先、それでもまだ、生きている温度があった。


「ユウ……夢だったとしても、君と一緒なら……私、幸せだったよ」


 ミオの瞳は、もう、どこにも焦点を結んでいなかった。

彼女の胸が、かすかに上下する。

それが生きている証なのか、それともただの習慣のような動きなのか、もう僕にはわからなかった。


 呼吸の音は聞こえない。けれど、その沈黙が、返って僕の胸を締めつけた。

涙も、苦しさも、憎しみも、何も映っていないのに、

その顔は――信じられないほど、優しかった。


 僕はただ、それを見ていた。

泣くこともできなかった。

笑うことも、怒ることも、拒むことも。

ただ――見ていることしか、僕には残されていなかった。


 ただ、“その時”を待っているしかなかった。


 僕の名を呼ぶ彼女の言葉が、空気に溶けていく。

ただ、やわらかな微笑みだけが、唇の端にかすかに残っていた。

それを見ている僕の中に、何かが音もなく崩れていくのを感じた。


 心とか、魂とか、そういう名前のついたものじゃない。

もっと、生理的な、もっと原始的な、“生きる”という反応そのものが、

彼女の静けさに引きずられるように、すうっと沈んでいく。


「……ミオ」


 名を呼ぶ声はもう声ではなかった。


 喉の奥が焼けるように痛む。

酸素はまだあるのに、呼吸ができない。

思考はまだ動いているのに、体がもう、命令を受け取ってくれない。


 彼女の手はまだ僕の指を握っていた。

その細い指の一本ずつが、すこしずつ、熱を失っていく。


 冷えていく。

 冷えて、冷えて――でも、それでも。


 それでも、その手は最後まで、僕のことを離さなかった。


 静かに沈んでいた記憶が、音もなく浮かび上がる。


「ねえ、もしさ……ふたりだけの世界があったら、どうする?」


 あの白い屋上で、彼女はそんなことを言った。

僕は「逃げたい」って言った。でも彼女は違った。


「逃げるんじゃなくて、そこにずっと、ふたりきりでいたい」


 今になって、それがどれほど強い願いだったか、ようやく理解する。


 薬の瓶の中に詰めた、最後の選択。

「ふたりで一緒に」という、それだけの願いに込めた量。


 足りなければ、どちらかが残る。

多すぎれば、苦しんで死ぬ。

ちょうどよければ、眠るように。


 彼女と何度も確かめたはずだった。

でも今、こうして横たわる彼女の顔を見て思う。


 本当は、どんなふうに死んだってよかったんだ。


 僕の意識が揺れた。

現実の縁がほどけていく。

意識はただ、あの白い部屋へと、漂いはじめた。



 彼女と初めて出会ったのは、

白い壁と白い天井に囲まれた、小さな“病棟”のなかだった。


 静かだった。

音というものが最初から存在しないような場所。

消毒液の匂いと、閉じられた窓ガラスに映る自分の顔が、いつも薄く揺れていた。

そこでは、時間もまた、ただ“存在している”だけだった。


 世界のすべてを閉ざされたような空間。

僕も彼女も、それぞれの壊れ方を抱えながら、

どこか“似たような目”で、周囲を見ていた。


「君、名前は?」


 ミオが話しかけてきたのが、最初だった。

壁のシミを見ながら、僕のほうを見もせずに、ただぽつりと訊いてきた。


綴木つづきゆう


 それが、最初に言葉を交わした瞬間だった。

でも、不思議と、もっと前から知っていたような気がしていた。

彼女が手を差し出したとき、僕は少し迷って、

それでも、その手を取った。


 そのときからだった。

僕たちの世界が、少しずつ“壊れ始めた”のは。


 今、その手は僕の手を握っていて、

そして、あと数秒もすれば――もう、動かなくなる。


 世界の色は褪せ、音は溶けて、空気が沈むように重くなっていく。


 ああ、もうすぐだ。

瞬きひとつで、世界は音もなく消えていく。


 それでも。

 それでも――


 僕は、君と死ぬために、生きてきた。



 僕と一緒なら、それでいい。

そう言って、彼女は笑っていた。


 僕の視界が揺れる。

光が滲み、色が消え、輪郭が曖昧になっていく。

音も、匂いも、遠くなった。

誰かが僕の名を呼んだ気がしたが、それが現実かどうかも、もはや定かではなかった。

 

 すべてが、夢の水底に引き込まれていくようだった。

夜の静けさはもう、耳の中ではなく、脳の奥で鳴っていた。


「……僕も、行くよ。ミオ」


 その言葉を呟くことさえ、僕の最後の力だった。


 心臓の音が、遠ざかる。

血の流れる感触も、熱も、痛みも――何もかもが、ミオのいる方へ引きずられていく。


 体が沈む。

ベッドに寝ているはずなのに、どこまでも落ちていく感覚があった。

遠ざかるのは、世界じゃない。僕のほうだ。

手はまだ繋がれているのに、それさえもう“感覚”としてしか残っていない。

声も、匂いも、熱も、僕の中から順番に、静かに消えていく。


 誰にも知られず、

誰にも見つからず、

この狭い部屋の、壊れかけたベッドの上で。


 僕たちは、

やっと、同じ場所にたどり着いた。


 そして世界が、

静かに――音を立てずに、崩れていった。


 そして、ただ静かに重なっていた、ふたつの影だけが――

夜の奥へと、消えていった。

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