Dr.東洋 〜陰陽のカルテ〜
ドクター東洋
第1話 帰還の医師
羽田空港に、春の淡い陽光が射し込んでいた。
国際線到着ロビーの自動ドアが静かに開く。黒のスーツに身を包み、キャリーケースひとつを引いた男が姿を現した。背筋をまっすぐに伸ばし、短く整えられた黒髪は端正な輪郭を引き立て、眼差しには揺るぎない静けさと、どこか研ぎ澄まされた緊張感が漂っている。
男の名は、東 洋樹(あずま ひろき)。
日本で医師として研修したのち、イギリス留学中に偶然出会った中医学に深く惹かれ、進路を変えて中国へ渡った。北京、南京、成都と各地で研鑽を積み、臨床と研究に没頭した十年。西洋医学の研修医だった頃とは、別人といっていいほどの風格をまとっていた。
自動ドアのすぐ外で、東は足を止めた。目を閉じて、ゆっくりと深く日本の空気を吸い込む。湿り気を帯びた花の匂いと、かすかに潮の気配が混じる春の風。
「……ただいま」
その小さな呟きは、ロビーに満ちる喧騒に飲み込まれていった。
東はモノレールに乗り、浜松町で山手線に乗り換える。大きな荷物はなかった。キャリーケースの中には、文献と鍉鍼(ていしん)、そして数冊の古典書。身軽さが、彼の過ごしてきた年月の密度を物語っていた。
品川駅で新幹線に乗り換える。
目的地は1時間半ほどで到着する建康市(けんこうし)。人口約六十万、都心と地方のちょうど中間にあるような、ほどよく賑わい、ほどよく落ち着いた街。その中心に位置する私立・KKCセントラル病院。彼のかつての職場でもあった。
車窓から流れる春の風景をぼんやりと眺めながら、東は記憶を辿っていた。
研修医として働いていた二十数年前のあの頃――、
医療の現場に立ち尽くし、疾患を「診る」ことと「人を診る」ことの間で迷っていたあの日々。
西洋医学の限界に気づきながらも、出口の見えない中で、ただ懸命に日々の業務をこなしていた。
そんなある日、留学先のロンドンで出会った一冊の本が、彼の人生を変えた。 黄帝内経の英訳版。書店の隅に積まれていたその本を、なぜか手に取った。パラパラとめくるうちに、古代の知が彼の胸を突き動かした。
「これは――“生きた医学”だ」
そう確信した瞬間から、彼は迷いなく道を選んだ。
中国へ渡り、師を求め、臨床の場で汗を流し、数えきれない患者と向き合った。そして今――再び日本の医療の現場に、彼は戻って来た。
かつての恩師が院長となっており、その院長から誘いがかかったのだ。あの病院が、今どうなっているのか。
そして、中医学が、果たして日本の医療の中でどこまで通用するのか。
新幹線が、建康市に近づいていた。
建康市 KenKouCity——高層ビルが立ち並ぶ中心街と、四季折々の自然が残る郊外がゆるやかに共存する街だ。
東は、建康駅に降り立った。
タクシーに乗り込むと、車は駅前ロータリーを抜け、しだいに街の中心部へと向かっていく。途中、車窓に広がったのは、吉祥寺公園の桜並木。風に舞う花びらが、ちらちらと陽光に透けていた。
「二十五年ぶりか……」
思わずつぶやいた声は、運転手には聞こえていないようだった。
病院の正門前にタクシーが止まると、東は静かに会釈して車を降りた。
KKCセントラル病院——市内で三つある三次救急指定を受けた総合病院だ。近年は高齢者医療と地域包括ケアにも力を入れており、大学病院に匹敵するほどの医療機能を持っている。
玄関を入ると、すぐに案内係の職員が待ち受けていた。
「東先生ですね、お待ちしておりました。どうぞ、院長室へ」
東は静かに頷き、職員のあとに続く。
院長室のドアがノックののちに開かれ、奥から現れたのは白髪をきっちり撫でつけた紳士だった。白衣ではなく、紺のジャケットにグレーのスラックスという落ち着いた出で立ち。上唇の上に短く清潔に整えられた白い髭を蓄えており、目元に深い皺を刻むが、そのまなざしは鋭く、温かみと洞察力を同時に感じさせた。 浅黒い肌が、蓄えた白い髭を際立たせた。
「よく来てくれたね、東先生」
院長・白鳥源三は、懐かしさと信頼を滲ませた口調で言った。
「ありがとうございます。こうして再び、先生のもとで働けるとは思っていませんでした」
「いや、こちらこそ感謝している。うちの病院にとって、君のような人材は実に貴重だ。西洋医学も中医学も、どちらも深く知っている医師など、そうはいない」
短い挨拶と今後の勤務の簡単な確認を終えると、東は院長室を後にした。
廊下に出て、ふと右手の方向から軽快な足音が聞こえた。
現れたのは、白衣姿の若い女性医師。身長が高く、芯の強そうな瞳とキビキビとした動きに、ただならぬ実力を感じさせる。長い黒髪を後ろで一つに束ね、白衣の裾が揺れていた。
すれ違いざま、彼女の視線が東の胸元にあるネームプレートに一瞬止まった。
「……とうよう先生ですか? あっ、ごめんなさい、あずま?ひがし?先生?」
笑って頭を下げる彼女の声は明るく、どこか親しみやすい。東も少し口元を緩めて会釈する。
「いえ、よく間違えられますから。あずまです」
「白鳥亜季(しらとり あき)です。循環器内科におります。あ、あと東洋医学科にも最近はちょっと顔を出してまして……」
彼女の苗字と東洋医学科と聞いて、東は一瞬だけ目を細めた。院長と同じ「白鳥」。だが何も言わず、再び静かに会釈だけして歩き出す。
その背中を見送りながら、亜季は小さく呟いた。
「……なんか、不思議な人……」
東洋医学科の医局は、病院の一角にひっそりと設けられていた。壁際には漢方文献や古典の書が並び、どこか書斎のような雰囲気が漂っている。
そこにいたのは一人の男。年齢は東と同じくらいだろうか、背筋は伸び、グレーの作務衣に白衣を羽織った姿が、どこか医師というより道士のような風情を醸していた。
「君が、東先生か」
その男——吉桝 鐵山(よします てつざん)は、書物から一瞬目を上げ東に視線を投げた後、再び書物を眺めながら言った。口調は柔らかいが、言葉の一つ一つに重みがある。
「はい。東 洋樹と申します。本日からお世話になります」
東が深く頭を下げると、ようやく吉桝は彼の顔をじっと見据えた。表情に笑みはなく、静かに、ただじっと観察しているような眼差し。
「……中国の風は、どうだった?」
一拍置いた問いに、東は微かに口元を綻ばせた。
「厳しく、そして深かったです」
吉桝は小さく頷き、再び視線を文献に戻した。
それは、歓迎でも拒絶でもない、沈黙の応答だった。
✳︎
医局での挨拶を終えた東は、鍼灸師の藤崎新也(ふじさき しんや)に案内されながら院内を巡っていた。ちょうど救命センターの前を通った時、扉がバンと開き、看護師の緊迫した声が響いた。
「また、あの人来ました!」
ストレッチャーに乗せられてきたのは、蒼白な顔で両手を季肋部に当てた女性。苦しげに体をよじりながら、「息が…肋骨の下が…」と繰り返していた。
「はいはい、例の“痛いのに検査は異常なし”の人ね。今月だけで何度目だっけ…」
救急科の医師がモニターを見もせず、点滴の準備を進める。カルテを写したモニターにはCT、エコー、血液検査、すべて異常なしの文字がずらりと並ぶ。
「今回も安定剤抜きで点滴して、少し休んで帰ってもらうしかないな……正直、こっちも限界だよ」
その言葉に、東は一歩、患者に近づいていた。
東はゆっくりとストレッチャーの上で苦しんでいる患者に歩み寄った。顔を覗き込むと、女性の目は涙で滲み、呼吸は浅く早い。声にならない呻きの中で、両手で季肋部を押さえている。
「少し、診させてもらってもいいですか」
救急の医師に確認を取ると、年上で白衣を着ている男性に会釈をして
「おねがいします」
と言って後退りした。
東は舌を見せてもらい、表情を変えずに脈をとる。人差し指、中指、薬指が滑らかに患者の手首の内側の皮膚を滑っていく。周囲のスタッフは固唾を飲んで見守っていた。
そのあと患者である女性に幾つか質問をした。
「いつ頃から苦しくなったんですか?」
「いつもちょっと苦しいんだけど、今日は年金の日だから色々お金払ってこなきゃいけないと思って出かけようとしてたんですよ。そしたら急に苦しいのが酷くなって…」
「お一人暮らしなんですか?」
「もう何年も一人でね。子供も遠くで生活してるし、足腰は弱ってくるし。これから先心配だな、なんて思っていたら…」
「それは心配ですね…」
沈黙のあと、東は穏やかに口を開いた。
「——これは、肝気の巡りが悪くなって起きている痛みです。中医学では『肝鬱気滞(かんうつきたい)』と呼ばれる状態です」
「肝鬱……?それはどんな病気なんですか」
後ろで聞いていた救急医が眉をひそめた。
「現代医学の疾患に当てはめるのはちょっと難しいです。あえて言えば心の病が体の症状として現れてくる身体表現性障害ということになるのかもしれません。中医学では強いストレスがかかると肝臓にストレスがかかって、季肋部が痛くなることがあると考えているのです」
一緒に診察をしていた藤崎も頷きながら、患者の腹診をしていた。
「両側に胸脇苦満が強く出ていますね。」
東と藤崎は顔を見合わせてうなずいた。
そして東は白衣のポケットから、細長い金属の筒を取り出した。その中から現れたのは、小さな先端の丸い金属の棒——鍉鍼(ていしん)だった。刺さない鍼に、看護師たちは一様に首を傾げる。
「鍼って……刺さないんですか?」
「必要ないんです、今回は」
東は患者の足元にまわりこむと、足の甲にある肝経のツボ・太衝(たいしょう)の左足の方に鍉鍼をそっとかざした。まるで空気に触れるような繊細な動きで、軽く、撫でるように。 そっと目を閉じて何かに集中しているかのようだった。
周囲には、金属が擦れる音さえない。東の手元をじっと見ていた藤崎が、息を飲んだ。
数秒の静寂ののち、患者が突然、大きく息を吐いた。
「……あれ……?」
苦悶の表情がふっと和らぎ、両手が季肋部から離れていく。肩の力が抜け、仰向けの姿勢になった彼女は、まるで嘘のように穏やかな顔になっていた。
「痛く、ない……楽になった……どうして……?」
看護師が慌ててバイタルをチェックし、モニターの数値が安定していることを確認する。藤崎は、まだ信じられないという顔で、東と患者を見比べていた。
「……東先生、今のは……一体どういう……?」
「“気”が滞っていたんです。現代医学にはない概念ですが、体と心を繋ぐものが、時にこうして悲鳴を上げることがあります」
東は微笑み、提鍼をそっとポケットに戻した。
「鍼を刺すだけが鍼灸治療ではありません。気を動かす。それが中医学というか、鍼灸治療の本質といえるのかもしれませんね。」
✳︎
「……いやぁ、驚いたよ。本当に。救命センターですごく苦しがっていた患者が、あんなふうに落ち着くなんて!」
東の院内見学を終えて二人が医局に帰ってきた。引率した藤崎が、先ほど救命センターで起こったことを身振りを交えて語っており、周りではほかの医局の面々も興味津々で聞いている。
「鍉鍼って言うんですか? 刺さないんですよね?」
「皮膚に軽く触れるだけだったんですよ。でも、患者の呼吸がすーっと落ち着いて、顔色も変わったんだ。魔法かと思ったよ」
東洋はデスクに持参した茶器と茶葉を置きながら、静かに微笑んだ。
「今度、鍉鍼の勉強会を開きましょうか」
そこへ、医局のドアが開き、白衣姿の女性が一歩踏み込んできた。白鳥亜季だった。 「すみません、失礼します。……あっ、あの時の……!」
東洋と目が合い、白鳥はぱっと頬を赤らめた。 「さっき院長室の前ですれ違いましたよね? でも、まさか東洋医学科の先生だなんて知らなくて……間違って“とうよう先生”って呼んじゃってすみませんでした!」
「ああ、いいですよ。じゃあ、これからは“東洋先生”でお願いします」
東がさらりと返すと、白鳥は思わず吹き出した。
医局の空気が一気に和らぎ、白鳥も自然と輪に溶け込んでいく。
「よろしくお願いします、東洋先生。」
その光景を、吉桝鐡山は壁際からじっと見つめていた。腕を組み、口元にはわずかな笑みを浮かべながらも、その眼差しにはまだ猜疑の色が残っていた。 ――本物かどうか、じっくり見させてもらおう。
——Dr.東洋。
その静かな足音は、確かにこの病院の中に響き始めていた。
(第一話 了)
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