第8話「自分の力で立つ」
街を離れる選択をしたあの夜から三日目の朝、千早は橘家の庭を眺めていた。華やかに咲き誇る桜の木々、清らかな流れの小川、そして記憶が刻まれた家の隅々—これらすべてと別れる日が来たのだ。
「千早...荷物は準備できたか?」
椿が孫娘に声をかけた。杖に寄りかかる様子は以前より元気に見えた。
「はい...必要最小限だけ」
千早は小さな風呂敷包みを示した。
「そうか...」
椿は深い溜息をついた。
「まさか、こんな形で別れることになるとは...」
「祖母様...」
千早は祖母の手を取った。
「雪と共に生きると決めたことは後悔していません。でも、あなたたちと離れるのは...」
言葉が詰まる。千早の瞳には涙が浮かんでいた。
「心配するな」
椿は孫の頬を優しく撫でた。
「私たちは大丈夫だ。澪も元気になったし...」
実際、妖宝のおかげで澪の病は完全に治り、今は町の市場へ買い物に出かけていた。
「あの子は強い...お前の母親だからな」
椿は微笑んだ。
千早は祖母を抱きしめた。小さくなった体を感じながら、彼女の心に決意が芽生えた。
「必ず...また会いに来ます」
椿は黙って頷いた。言葉にできない思いが、二人の間に流れていた。
「ところで...」
椿が周囲を見回した。
「雪は?」
千早の表情が曇った。
「三日前から姿を見せていません...」
***
あの夜の翌日、雪は「少し考えることがある」と言い残し、姿を消した。千早との行く末を考えるための時間が必要だったのだろう。彼女は理解を示し、待つことにした。
しかし、約束の三日が経とうとしている今も、雪の姿はない。
「きっと戻ってくるわ」
澪が買い物から戻り、千早に言った。
「あの方の目を見れば分かる...あなたを愛していることが」
「でも...今夜が満月です」
千早は心配そうに空を見上げた。
「白羽様が言っていた...評議会が動き出す日」
澪は娘の肩に手を置いた。
「信じて待ちましょう。そして...自分自身も強くあって」
千早は母の言葉に頷いた。雪がいなくても、自分は前に進まなければならない。彼女はもはや、単なる橘家の娘ではない。妖の紋を持つ式神使い—自分の力で立つべき時だ。
***
昼過ぎ、千早は町の広場に向かった。今日の夜には出発するつもりだが、その前に一人の友人に会っておきたかった。
「千早さん!」
声をかけられ振り向くと、そこには藤堂瑞希が立っていた。大会以来、初めての再会だった。
「瑞希さん...」
千早は微笑んだ。
「来ると思ったわ」
瑞希は嬉しそうに言った。
「あなたのことだから、さよならを言いに来るって」
「知っていたの?」
千早は驚いた。
「噂は広まっているわ...橘家の千早が町を去るって」
瑞希は少し悲しげに言った。
「妖の紋のことも...」
千早は自分の手を見つめた。淡く光る紋様は、もはや隠せるものではなかった。
「どうして...?」
瑞希が静かに尋ねた。
「せっかく認められ始めたのに」
「雪を...守るためです」
千早は正直に答えた。
「そして、私自身の未来のために」
瑞希はしばらく黙っていたが、やがて決意に満ちた表情で言った。
「私も...父の家を出ることにしたの」
「え?」
「あなたの姿を見て、勇気をもらったの」
瑞希は微笑んだ。
「自分の道を、自分で選ぶことの大切さを」
千早は感動して瑞希の手を握った。
「どこへ行くの?」
「東の国...式神使いの学びを深めるために」
瑞希の目には決意の色が宿っていた。
「いつか...女性式神使いの新しい時代を作りたいの」
「素晴らしいわ...」
千早は心から言った。
「あなたこそ...」
瑞希は千早の変化した姿を見つめた。
「新しい道を切り開いたのね」
二人の女性式神使いは、互いに敬意と友情を感じながら別れを告げた。それは悲しい別れではなく、それぞれの道を進む者同士の、勇気ある旅立ちだった。
***
午後、千早は橘家の神社で静かに祈りを捧げていた。雪の無事と、家族の幸せ、そして自分の旅の安全を。
「千早様...」
突然、小さな声が聞こえた。振り向くと、そこには一人の少女が立っていた—小さな式神の鈴蘭だった。
「鈴蘭さん?」
千早は驚いた。
「お会いできて...嬉しいです」
鈴蘭は恥ずかしそうに言った。
「あなたが町を去ると聞いて...」
彼女の手には小さな包みがあった。
「これを...持っていってください」
鈴蘭が差し出したのは、美しい水晶の護符だった。
「旅の守りに」
「ありがとう...」
千早は感動して受け取った。
「千早様...」
鈴蘭は真剣な表情で言った。
「あなたのように...強く生きたいです。自分の心に正直に」
千早は微笑み、鈴蘭の頭を優しく撫でた。
「あなたは既に強いわ。自分の道を信じて進めば...」
「はい!」
鈴蘭の目が輝いた。
「いつか...あなたと雪様のような式神になります」
千早は小さな後継者に心を打たれた。自分の姿が、誰かの希望になっていること—それは大きな責任であり、同時に喜びでもあった。
***
夕方、橘家に一人の訪問者が現れた。藤堂景光だった。
「失礼する」
彼は玄関先で深々と頭を下げた。
千早は驚いたが、静かに彼を座敷へと招き入れた。
「何のご用件でしょうか」
彼女は冷静に尋ねた。
景光はしばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
「謝りに来た」
「え?」
「橘家に対して...そして、お前に対して」
景光の声には、これまでにない誠意が込められていた。
「私は...誤っていた」
千早は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「女性式神使いの力、特に契りの力を恐れていた」
景光は続けた。
「だが...お前とあの九尾の絆を見て、理解した。それは恐れるべきものではなく...尊ぶべきものだと」
「藤堂殿...」
「娘・瑞希も家を出ると言い出した」
景光は苦笑いした。
「お前の影響だな...」
「瑞希さんは...自分の道を選んだだけです」
千早は静かに言った。
「そうだな...」
景光は深いため息をついた。
「私も...変わらねばならないのかもしれん」
彼は千早をじっと見つめた。
「お前は...町を去るのか?」
「はい」
千早は頷いた。
「雪と共に...新しい道を探すために」
「どこへ行くつもりだ?」
「まだ...決めていません」
千早は正直に答えた。
「ただ、妖狐評議会から離れられる場所へ」
景光はしばらく考え込んでいたが、やがて決意したように言った。
「私の持つ別荘がある。北の山中...妖狐の気配の届かない場所だ」
「え?」
「使うがいい。誰にも邪魔されることはない」
景光は懐から地図を取り出した。
「ささやかな...贖罪だ」
千早は驚きながらも、その申し出に感謝した。敵だと思っていた人から、思いがけない助けが得られるとは。
景光が去った後、千早は地図を見つめながら考えた。北の山中...雪と二人で静かに暮らせる場所。しかし...雪はどこにいるのだろうか?
***
日が暮れ始め、千早の心配は増していった。雪はまだ戻らない。今夜は満月—白羽が警告した妖狐評議会の動く日だ。
「千早」
母・澪が庭に出てきた。
「まだ来ないの?」
「はい...」
千早は不安そうに空を見上げた。
「...何か感じないの?」
澪が静かに尋ねた。
千早は母の言葉に、はっとした。そうだ—彼女と雪は契りを結んでいる。魂は繋がっているはず。
「目を閉じて、心の中で呼びかけてごらん」
澪は優しく言った。
千早は言われるまま目を閉じ、深く呼吸した。胸元の紋が僅かに温かくなる。
「雪...どこにいるの...」
彼女の意識が広がり、町を超え、森を越え...そして、遠い山の中腹に届いた。そこに雪の気配があった—だが、弱々しく、何かに囚われているような。
「見つけた!」
千早は目を開けた。
「雪が危ない!妖狐評議会に捕まってる!」
「どこ?」
澪が緊張した面持ちで尋ねた。
「桜霞の森...妖狐の聖域だわ」
千早は立ち上がった。
「行かなきゃ」
「でも、あそこは...」
「わかってます」
千早の目に決意の色が浮かんだ。
「けれど、雪を見捨てるわけにはいきません」
「一人で行くの?」
澪は心配そうに言った。
千早はふと立ち止まり、我に返った。そうだ—雪がいなければ、彼女はどうすれば良いのか?これまで、雪の力に頼ってきたが...
「私は...自分の力で立つわ」
千早は決意を固めた。
「雪がいなくても、私は私の道を行く」
彼女は蔵に向かい、祖母から教わった秘伝の術符を取り出した。自分一人でも戦える術—それを今こそ使う時だ。
「行ってきます」
千早は母と祖母に別れを告げ、夕闇の中へと走り出した。
***
桜霞の森は、町の東側に広がる神秘的な場所。通常は人間が立ち入れない妖怪の領域だが、満月の夜には結界が薄まるという。
千早は森の入り口で立ち止まった。圧倒的な妖気を感じる—そして恐れも。しかし、彼女の心には雪を救いたいという気持ちしかなかった。
「私はもう、ただの人間じゃない」
千早は自分の胸元の紋に触れた。
「雪の力がなくても...私には私の力がある」
彼女は深呼吸し、一歩を踏み出した。森の中は想像以上に暗く、霧が立ち込めていた。方向感覚を失いそうになるが、千早は契りの絆を頼りに進んだ。
「雪...待っていて」
途中、様々な妖怪が彼女の行く手を阻んだ。小さな火の玉から始まり、次第により強大な妖怪たちが現れる。
千早は持参した術符を次々と使い、自らの力で妖怪たちを退けていった。祖母から学んだ術、そして自分の中に眠る力—それらが今、彼女を支えていた。
「私は千早...橘千早!」
彼女は妖怪たちに向かって宣言した。
「雪との契りを結んだ式神使い...私を通せ!」
彼女の紋が強く輝き、周囲の妖怪たちを押しやる。千早自身も驚いた—雪の力を借りずとも、自分の中にこれほどの力があったとは。
森の奥へ、さらに奥へと進む。
そして、ついに目的の場所に辿り着いた—巨大な「母なる桜」の下。妖狐評議会が開かれる聖域だ。
そこには七人の年長妖狐が円陣を組み、中央に雪が閉じ込められていた。白い結界に囲まれ、力を封じられている。
「雪!」
千早は思わず叫んだ。
妖狐たちが一斉に振り向き、人間の侵入に驚きの表情を見せた。白羽だけは予想していたかのように、静かに千早を見つめていた。
「よく来たな...人間の娘よ」
白羽が静かに言った。
「雪を...返してください」
千早は震える声でも毅然と言った。
「返す?」
別の年長妖狐が冷笑した。
「彼は我らの一族...人間にやる理由はない」
「それに...」
もう一人の妖狐が続けた。
「彼は既に弱っている。人間に心を奪われた九尾は力を失うという言い伝え...それは真実だったようだ」
千早は愕然とした。雪の姿は確かに弱々しく、九本の尻尾も色あせて見える。
「千早...行け...」
雪が弱々しく言った。
「ここは危険だ...」
「いいえ」
千早は強く首を振った。
「あなたと共に行くと決めたでしょう?」
「感動的だが...無駄だ」
年長の妖狐の一人が言った。
「彼は我々と共に妖狐界へ戻る。そこで力を取り戻すのだ」
「それが...彼の望みですか?」
千早は毅然と尋ねた。
場が静まり返った。
「彼の望み?」
白羽が意味深な表情で言った。
「それが...大切なことなのか?」
「もちろんです」
千早は迷いなく答えた。
「契りとは...互いの望みを尊重するもの。そうでなければ...真の絆ではありません」
その言葉に、白羽の目に何かが浮かんだ。古い記憶のようなもの。
「お前は...面白い人間だ」
彼女はついに笑みを浮かべた。
「椿に似ている...いや、それ以上だ」
「白羽殿!」
他の妖狐たちが驚いた声を上げた。
「雪」
白羽は結界の中の雪に向かって言った。
「お前の望みは何だ?」
雪は苦しそうに顔を上げ、千早を見つめた。その目には迷いはなかった。
「彼女と...共にありたい」
「たとえ...力を失おうとも?」
白羽が静かに尋ねた。
「ああ...」
雪は迷いなく答えた。
白羽は深いため息をつき、他の年長妖狐たちを見回した。
「我々は...間違っていたのかもしれない」
「何を言う!」
年長妖狐の一人が怒った。
「人間と妖狐の絆など...」
「それを否定し続けたからこそ」
白羽が静かに言った。
「我々は孤独に生きてきたのではないか?」
場に沈黙が流れた。
「この人間の娘を見よ」
白羽は千早を指した。
「妖の紋を持ちながらも、なお自分の力で立つ。恐れず、迷わず...愛する者のために戦う」
千早は白羽の言葉に驚きながらも、雪を見つめ続けた。
「私は...決めた」
白羽は結界に近づいた。
「評議会の掟を変える時が来たのだ」
「白羽殿!」
他の妖狐たちが動揺した。
「私も...かつては人間を愛した」
白羽は静かに告白した。
「だが、掟に縛られ...その絆を断った。それがどれほど愚かなことか...今なら分かる」
彼女は結界に手を置き、少しずつそれを溶かし始めた。
「白羽...」
雪が驚いた表情で見上げた。
「行くがいい...お前たちの道を」
白羽は微笑んだ。
「ただし...二度とこの森には戻れない。それが代償だ」
「構わない」
雪は力を振り絞って立ち上がった。
「私の居場所は...彼女の側だ」
結界が完全に消え、雪が自由になった瞬間、千早は駆け寄って彼を抱きしめた。
「雪...心配したわ...」
「すまない...」
雪は千早を抱きしめ返した。
「お前に...心配をかけて」
二人の再会に、白羽は温かい目で見守っていた。しかし、他の年長妖狐たちは不満げな表情を浮かべていた。
「これで良いのか?」
一人が言った。
「彼らに幸せになってほしい...それだけだ」
白羽は静かに答えた。
千早と雪は手を取り合い、桜の木の下から立ち去ろうとした。その時、千早は振り返り、白羽に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます...白羽様」
白羽は微笑み、手を振った。
「行け...そして幸せに」
森を出る途中、雪は弱々しく千早に寄りかかっていた。力を失いつつある彼の姿に、千早は心配を隠せなかった。
「大丈夫?」
「ああ...ただ...力が...」
「わかってる」
千早は雪の腕を強く抱き寄せた。
「でも、心配しないで。これからは...私が支えるから」
雪は驚いたように千早を見た。
「私はもう...誰かに頼るだけの千早じゃない」
彼女は自信を持って言った。
「あなたがいなくても、自分の力で立てる...だから、二人で支え合って進みましょう」
雪の目に感動の色が浮かんだ。彼は千早の成長を、誇らしく感じていた。
「行こう...新しい場所へ」
雪は微笑んだ。
二人は桜霞の森を後にし、月明かりの下、新たな道を歩き始めた。千早の心には、もはや迷いはなかった。自分の力で立ち、そして愛する人と共に歩む—それが彼女の選んだ道だった。
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