5、楽しいお散歩のはじまり

「う……?」

「殿下! あ! 殿下!」


 目を開くと、ヴァイオレットがいた。

 頭の下がやわらかい。体の上にもふわふわしたものが乗っている。

 ここはベットの上ね。


「ヴァイオレット……?」

「申し訳ございません! 私があの時にお止めしていればこんなことには……! すぐにお医者様を呼んでまいりますので……!」


 急ぐヴァイオレットの袖をつかむ。

 ヴァイオレットの目の下にはくっきりと黒いクマがあった。いつもはきっちりと結わえてある三つ編みも、今は少々髪の毛がほつれている。

 本当にいい人。


「あ、あのね」

「はい!」

「やだ……」

「な、なにがでしょう!」

「お医者さま……。その……」


 あまり人には会いたくない。いい人なんて、そんなにいないもの。

 あと、それよりも、わたしは。


「スレイキル様は……」


 わたしには、会いたい人がいる。わたしを助けてくれた王子様。


「その、あの……。お呼びになることは、できない……の?」


 ヴァイオレットは目を大きく見開いてから、わたしのことしばらく見つめる。

 そして、スカートのすそをつかんでお辞儀し、臣下の礼をとった。


「お任せください。デルル殿下」


 そこから、そう時間はかからなかった。

 いつの間にか、新品の赤いドレスに着替えていて。

 いつの間にか、髪がきれいに結わえられていて。

 いつの間にか、中庭のテーブル席についていて。

 もう、目の前にスレイキル様がいた。


「……」


 何を話したらいいのかわからないのだわ! 話したいことはいっぱいあるのに。

 彫刻みたいに変わらないお顔。すてき。

 狼よりも大きなお身体。すてき。

 なだらかな全ての仕草。すてき。

 落ち着けなくて、紅茶を飲んだ。


「同じ味だ」


 スレイキル様も飲んでいたみたい。いっしょに。

 ティーカップを落としてしまいそうなのだわ。手に力が入らないの。


「そ、そうね。この間のものと茶葉は同じね」

「……そうですね」

「あの、その」


 視界の端にヴァイオレットがいた。

 そわそわとした様子でわたしを見ている。

 わたしたちを見ているのかも。ちょっとこまるのだわ。


「ヴァイオレット」

「なんでしょう」

「席を外してくれないかしら」

「それはできません」


 ヴァイオレットは胸を張った。


「『我々は王宮の目、王宮の耳。すべからくを明らかに』ですので!」

「侍女の掟ね……そう……」


 王宮で働く侍女には、見聞きしたものをすべて侍女頭――、正確には雇い主である王族に伝える義務がある。ジュリア様に伝えるという義務が。


「お散歩に行きたいのだけれど、スレイキル様と、ふ、ふたりで……」

「そういうことでしたら、お止めする理由はございません! お留守をお守りします」


 ヴァイオレットはとてもいいこなのだわ。真面目なのだわ。

 スレイキル様の方をちらりとうかがう。


「いいかしら……?」

「はい」


 スレイキル様は静かに立ち上がった。

 わたしもイスからおりて、二、三歩。スレイキル様に近づいた。


「歩幅、小さいですね」

「そう、ね?」


 一瞬の間に、はるか上にあった、スレイキル様のお顔が隣にきていた。

 足が地面についていなかった。

 いつもは見えない生垣の頂点が見えた。

 ヴァイオレットがわたしを見上げていた。


「だっこ……?」

「はい」


 ――だっこ! だっこ! だっこ! だっこ! だっこ!

 すごいのだわ! はじめて! はじめてなのだわ!


「降ろしますか? こちらの方が散歩しやすいと思うのですが」

「このまま! このまま! ずっと!」


 足とかとてもゆらしてしまったけれど、はしたなくなかったかしら!


「そうですか」


 ぎゅっと目をつむって、ちょっとだけスレイキル様を見たけれど、いつも通りのお顔だった。よかったのだわ。

 そのまま、笑顔のヴァイオレットに見送られながら、わたしたちは離宮を出た。

 

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