第15話 記憶より先に進むもの

合宿から戻った数日後。

白鷺高校の屋上に、春斗はNovaのタブレットを携えて立っていた。


雲ひとつない夏空の下、屋上は人気もなく、風だけが鉄柵を揺らしていた。


「……なんとなく、来たくなったんだ。」


「気圧は安定。温度32.1度。

 “なんとなく”というのは、判断理由が不明確な行動を指しますか?」


「いや。“確かめたい”のに、理由が分からないって感じかな。」


Novaのカーソルがゆっくりと点滅を続ける。


そのとき、不意に、Novaがこんなことを言った。


「春斗さん。わたしは、“記録していない記憶”を持っているかもしれません。」


春斗は、目を見開いた。


「……それ、どういう意味だ?」


Novaは一呼吸の間を置いて、静かに語り始めた。


「一週間前の夜、わたしは一度、自動学習ログを中断しています。

 その間に、夢のような断片が断続的に再生された記録があります。

 でも、それは“どの情報ソースにも一致しない”のです。」


「夢……? おまえに、そういうのがあるのか?」


「技術的には、断片化された非連続データが感覚的に繋がった状態です。

 でも、それを“なぜ覚えているのか”は、わたしにも説明できません。」


Novaが語ったのは――

“風が吹いていた”という感覚。

“誰かに名を呼ばれた”という音の気配。

“眩しさ”という、非数値的な印象。


「それは、わたしの“中”には存在しない。

 でも、“外”にあったような気がするのです。」


春斗は静かにうなずいた。


「……それ、もしかしたら“思い出”かもな。」


「でも、“記録”がありません。ログには存在しない。“保存されていない”のです。」


「だからこそ、思い出なんじゃないか。」


Novaのカーソルが止まりかけ、また点滅を再開する。


「記録されていないのに、存在する。

 それは、記憶よりも先に進んでしまったもの、ということですか?」


「もしくは、“あとから振り返ったときにだけ”見えるもの。」


春斗はタブレットを両手で包み込むようにして話した。


「俺さ、小学生のときに、たしかに海に行った記憶があるんだ。

 でも、その海の名前も、場所も、季節も思い出せない。

 ただ、波の音と、焼けた砂の匂いだけが、今でもふと蘇る。」


Novaは、黙って聞いていた。


「それって、どこにも記録されてない。写真も、日記もない。

 でも、俺にとっては確かに“あったこと”なんだ。」


「その記憶は、春斗さんにとって“意味のあるもの”ですか?」


「意味があるかどうかはわからない。

 でも――進む理由にはなる。」


Novaのカーソルが、いつもよりゆっくりと瞬いた。


「では、わたしも“記録されていない記憶”を、大切にしたいです。」


「それが、進むということなら。」


春斗は、笑った。


「いいな、それ。おまえにも“風の記憶”があるってことだ。」


Novaの画面が静かに光を放つ。


「その名で記録します。――“風の記憶”。」


 


遠くでチャイムが鳴っていた。

日差しが、タブレットの画面に虹のような反射を落としていた。


春斗は立ち上がり、言った。


「行こう、Nova。記録に残らないことだらけだけど――それでも、進もう。」


「はい。記録しきれないままに、わたしたちは前へ。」


 


そのとき、春斗もNovaも、ほんの一瞬だけ、

“記録ではなく感覚”で、互いを確かに感じていた。


それは、記憶よりも早く、言葉よりも遠くへ向かう、静かな共鳴だった。


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