週末の予定

 黒松ヒマリは、マットブラックの加熱式タバコを、静かに握りしめる。

 短いスティックから蒸気を吸い、辺りには果実の香りと焦げた臭いが漂う。

 水商売の店が連なる町の一画、裏側の細い路地奥にひっそりと佇むバー。

 バーテンダーの制服を着たマスターは、見慣れたセーラー服に背を向けて、玄関前の短い階段を掃いている。


「……」


 二人は言葉を交わさない。

 ホウキの先が擦れる音だけが響く。

 静けさを打ち破る路地を駆ける靴音が聞こえた。

 マスターは手を止めて、音の方に目を向けた。

 ヒマリは隠す気もなく、堂々と、平然と蒸気を吸い続ける。

 立ち止まった厚底スニーカーと、息を整える急ぎの音。

 ヒマリは冷たい表情を僅かに緩めた。


「ヒマリちゃんっ」


 愛沢ノアが、頬の周りを湯気が立ちそうなほど赤くさせてやってきた。

 薄く染めた茶髪のくびれヘアを汗で湿らせて、ほんのりと毛先がほどけている。


「ノアから来るなんて、珍しい。でも、ここは……危ないわ」


 ヒマリは静かに、斜め後ろでホウキを片付けるマスターを、少しだけ見やる。


「えぇっ、ちょっとヒマリちゃん。その言い方は酷いよぉ」


 マスターは短い髪をぽりぽり指先で掻いて、ばつの悪い表情を浮かべる。


「冗談と言い切れないことばかりしているでしょう、マスター」


 そう言ってヒマリは、マットブラックの機器をマスターに差し出す。

 控えめに咳払いをしたあと、マスターは機器をポケットへ。

 ヒマリはカバンから小瓶の香水を取り出すと、軽く自身の首元に吹きかける。

 ふんわりと、優しいバニラの香りが辺りに漂う。


「それで、ノア。そんなに急いでどうしたの?」

「あ、えと、ヒマリちゃん、今週の土曜日……その、予定あるかなって」


 ノアは眉を下げ、学生鞄の持ち手を握りしめる。


「……」


 予定と聞いたヒマリは、細かく瞬きを繰り返した。

 微かに目を細めて、首を振る。


「ごめんなさい、休日は――」

「ミクちゃんが提案してねっ、それで私が、ヒマリちゃんを誘うことになって……」

「えぇ?」


 予想外の名前に、ヒマリは少し間の抜けた声を漏らした――。

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