十八
結局、一週間はまったく医務室から出られなかった。
しかもただ医務室というわけではなく、医務室の奥に扉があり、そこに備え付けられたベッドの上で、一刀は過ごすことになった。おそらく弾丸を摘出する手術もそこで行われたのだろうが、一刀は意識もなかったので、実際にどういう形の手術だったのかはまったく分からない。あの医務室の惚けた雰囲気の老人が手術してくれた、とは、どうしても思えないから、別の医者がいるのかもしれない。
正直、もう肩の痛みはない。
さらに足を怪我しているわけではないのだから、部屋から出ても構わない、と思うのだが、まだ出ないほうがいいんじゃないか、と医務室の主に言われたのを真面目に守っていた。今回の件は誰にも言うなよ、となんとなくその言葉の裏に理事長の存在、学校側の圧力もすこし感じたが、細井はいないので思い過ごしかもしれない。
部屋には仕切りがあって、ベッドはふたつある。おそらくもうひとつのベッドに細井が寝かされていたのだろうが、もうその姿はどこにもない。肩を負傷した一刀よりも、足を怪我した細井のほうが、どう考えても部屋から出ずに安静にしていたほうが良い状態のはずだ。
「細井くんは目が覚めたら、すぐに足を引きずりながら出ていったよ。医務室の先生が引き止めていたけど、聞く耳を持たない、って感じだった。というより本当に聞こえてなかったのかもしれない。なんだか上の空で」
陽がそう話してくれた。
この一件はやはり細井に強いショックを与えたのかもしれない。
想像するなら、父親への畏怖というべきの。越えられない壁を見上げた時の絶望に近い。
「陽は、どうしてここに」
医務室で目を覚まして以来、毎日のように陽が来てくれる。
「あの日、夜、いきなりすごい勢いで一刀くんと細井くんが運ばれてきて。何人かに。心配になって付いていったら医務室で、先生にお願いしたら、付き添いを許してくれたんだ。先生からは、詳しいことは聞くんじゃないぞ、って釘を刺された」
「他に誰か、このこと、って」
「すくなくとも私は誰にも話してないよ。そもそも話すような関係の子がいないし。話せるとしたら一刀くんだけなのに、そのあなたが怪我をしたんだから」
当然、何があったの、とは陽は聞いてこない。一刀も具体的な話は避ける。
あまり話したいことではないし、それに盗聴器だって仕掛けてあるだろう。確証はなかったが、確信はあった。
「死ぬかと思った」
と一刀は呟く。
「私も同じこと、思ったよ。自分がどのくらい血を出してたか、覚えてる?」
「いや、まったく」と一刀は笑う。「怪我をした後から目を覚ますまでの記憶はまったくないよ。夢さえも見ていなかったような、真っ暗闇がずっと続く感覚だった」
「そっか……。ねぇ、一刀くん」
彼女の唇がちいさく震えている。ためらい、から来るものだろうか。
「私は詳しいことは聞かない。一刀くんが知っていることについて。ただひとつだけ伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと……」
困惑する一刀の顔に陽が自分の顔を近付ける。至近距離だ。ほんのすこしでも顔を動かせば、キスしてしまいそうなほどに。
「一刀くんが私を助けたい、と思ってくれたように、私も絶対に一刀くんを助けたい、って思ってる。この世界を敵に回しても」
Hello world.
ふいに初日に理事長の使った言葉がよみがえる。それがどんなに不幸な事実であっても、この島で新たに築かれた世界で、僕はきみと出会った。それだけは確かだ。いつか終わりの時が来るとしても。
「それは男のほうが言うセリフだ、と思ってた」
「こんな言葉に、男も、女もないでしょ。それにそう思うなら、先手を取って言わないほうが悪い」
「ありがとう」
そして長く続いた隔離生活を終えて、一刀は医務室を出る。これが病院なら退院日だな、と思いながら、窓越しの外の景色を見る。雨が降っていた。移り変わりやすい秋の季節に似合いの駆けるような雨だ。
「最近、全然会わなかったけど、何やってたの」
と久し振りに授業に顔を出すと、上谷にそう聞かれた。授業を長期間休んでも、特におかしい、と思われないことが、この学校の授業スタイルの良いところだ。誰かがいなくても、別に誰も気にしない。飽きたのかな、と思われるくらいだ。
「ちょっと怪我をしちゃって。ずっと医務室に」理由は変えたほうがいいだろう。「階段で足を滑らせて、思いっきり肩を」
上谷の隣にいた夕張が心配そうな表情を浮かべて、メモに書き込んだ文字を見せてくる。『大丈夫なの』
「うん。もう全然」
「でも、怪我ばっかりだね」と上谷が言う。
「ばっかり?」
「直接はさすがに聞けなかったけど、細井も足を引きずっていたから。正直、藤原と細井の怪我、なんか関係があるんじゃないの」
「そんなわけないだろ……」
鋭い。冗談めかしてはいるが、多少は鎌をかけている側面もあるのかもしれない。上谷は勘が良い。何かを察しているのかもしれない。とりあえず否定したあと、どう反応するべきか、と悩んでいると、教室に枕木先生が入ってきた。それを見て、上谷と夕張が自分の席に戻る。話が流れたことにほっとする。
授業がはじまる。
改めて、思う。
授業のワンシーンだけを切り取ってみれば、どこにでもある学校の日常だ。教卓があり、黒板があり、教える先生がいる。生徒数はちょっとすくないが、授業を受ける生徒がいる。
頬杖をついてぼんやりと外を眺めている生徒がいたり――石島だ。最近、夕張と親密な関係になったみたいで授業に顔を出すようになった。
真面目にノートにペンを走らせている生徒がいたり――夕張だ。石島の存在のおかげか、心なしか笑顔が多くなったようにも思う。
つまらなさそうに授業を受けながら、成績は優秀な生徒がいたり――上谷だ。『神風ルナ』の仮面を剥ぎ取れば、すこしクールだが、どこにでもいる女子高生の顔も持ち合わせていることを知った。
影山の死。事前に聞かされた『殺し合う』未来。船上で起こったこと。非日常の中にも、確かに平凡な日常はあるのだ。平凡な日常という表現にポジティブなイメージはない。だけど足場が揺らいではじめて、一刀は気付いてしまった。それは愛おしく、かけがえないものだった、と。
でもこれはもうすぐ崩れてしまう。この崩壊を止めることはできない。確信にも似た予感があった。
せめて、と一刀は思った。
自分もその崩壊の中に身を委ねよう。彼らを見捨てて、ひとりで逃げるのはやめよう。
一刀は泣いていた。涙が流れたあとにその事実に気付いて、一刀は慌ててほおをつたうしずくを拭う。周囲を見るが、特に誰も気付いている様子はなく、一刀は安堵した。こんな姿を見られたら、情所不安定と思われそうだ。別に思われてもいいのだが。
授業が終わって、教室を出てすぐに、呼び止められた。
「一刀くん、ちょっといいかな」
車椅子に座った彼が、一刀を見上げる。周りには誰もいない。彼と一刀、ふたりきりだ。
最初の頃は授業によく来ていたが、最近はいないほうが多かった。だから教室に入って彼の姿を見た時、意外だな、とも思ったのだ。
「うん。大丈夫だけど……」
「聞いたよ、怪我したんだって」
口調にもどこか険が混じる感じがあり、困惑する。
「あぁ、実は階段で転んで」
「もしかして周りの興味を惹こうとしてる?」
思いがけない言葉に、一刀はびっくりして、慌てて言葉を返す。「そんなことあるわけないだろ」
「僕は知ってるんだ。目立つために、自分の肉体を犠牲にできるひとがいる、ってことを」まるで、自分がそうだ、と言いたげに。「僕の怪我。どうしてこうなった、と思う。中学校の時、学校の三階の窓から身を投げたんだ。もちろん怪我をするって分かってたけど、死なないって分かってたから。僕たちみたいなタイプは、よく知ってるんだ。死なない程度に、注目を惹く怪我の方法を」
僕たち。一刀の怪我がわざと、と信じて疑わない態度だ。
「だから違う、って」
本気なのだろうか、瀬尾は。なんだか初めて会った頃と別人みたいだ。
「口ではなんとでも言えるんだよ、僕たちみたいなタイプは。さっきので、確信をしたよ」
「さっき?」
「さっき泣いた振りをしただろ。僕もああいうことをたまにやるんだ」
瀬尾の目はどこか虚ろだ。その目を見て、一刀は以前、石島から聞いたことを思い出した。一度、石島が彼の部屋の前を通った時、瀬尾の喚き声とともに何かを投げつけるような音が聞こえてきた、と言っていたことがある。『なんか喧嘩でもしてたのかな』とその時の石島は付き添いのスタッフのほうが何か横暴な態度を取った結果として、そうなったのではないか、と想像していた。それくらい瀬尾の暴れ狂う姿というのが、イメージできなかったのかもしれない。
「みんな演じているんだ。本来の自分を隠して、他人から認められるために。どういうふうに評価されたいのかの違いがあるだけで、ね」
「演じている?」
「そう、上谷さんも夕張さんも、九段くんも、ね。悲劇のヒロインを演じたり、偽悪者を演じたり」
瀬尾のまばたきが多くなった。早口になった。なんだか危うい雰囲気がある。その場から離れたいが、タイミングが掴めない。
「考えすぎ、だよ」
ただある程度、自分の本心を隠して、周囲と接することは誰でもあることだろう。瀬尾の言い方に棘があるだけだ。
「みんな、嘘つきだ。僕はそういう奴らが嫌いなんだ。こんな場所に来るんじゃなかった。もう帰りたい……!」
悲痛な叫びだった。
ただその悲鳴は他者に対してだけでなく、瀬尾自身に対しても向けられているような感じがした。
精神的に不安定になっているのかもしれない。
「ちょっと疲れてるんだよ。すこし休んだらいいよ」
それが瀬尾に掛ける最適な返答とは思わなかったが、一刀にはそれしか言えなかった。だけど瀬尾は憑き物が落ちたように、表情を穏やかなものに戻した。
「そうだ。そうだね。ごめん。ひどいことを言っちゃった。こんなことを言いたかったわけじゃなかったんだ。お願いだから、僕を嫌いにならないで」
顔を真っ赤にして、泣きそうな表情を浮かべている。
「瀬尾?」
「一刀くん。僕は嘘をついているんだ。その嘘の正体を、僕の心だけは知っているから、いつも苦しくなる。なんて自分は醜いんだろう、って。この醜さは自分だけのものじゃない、ってどうしても思いたくて、僕はよくおかしくなる。自覚はあるんだ」
嘘。その言葉にどきりとする。
嘘というのなら、一刀もついている。重要なことを全員に伏せている。ただそれを伝えて、僕たちは一緒だよ、と言ってあげることはできない。
そもそも瀬尾の嘘が何かも分からないので、一緒だ、と判断してしまうのも傲慢な感情だろう。
「……ごめん。部屋に戻る」
肩を落とした瀬尾の背中が視界から消えるのを確認して、一刀はため息をつく。
唐突に怒りを向けられて、理不尽だ、という気持ちもあったが、恨んでも仕方ない。みんな不安なんだ、と一刀は思うことにした。
その夜、一刀は理事長に会いに行った。部屋に備え付けられてある内線で、理事長に呼ばれたからだ。今回の船上での一件だろう、と内心びくびくしていたが、理事長はなぜか、その話を一切してこず、「最近の生徒たちの近況を教えて欲しい」といつもと同じことを聞いてきた。『いつもと同じこと』ではあるが、内線での呼び出しは、『いつもと同じこと』ではないので、他意はあるはずだ。
今回のことは不問にするが、もうこんなことはするなよ、と暗に添えているような気がした。
そして秋が終わり、島にも小雪が舞いはじめた。
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