一刀と夕張は、石島に付き添うため医務室にいた。白衣を着た高齢の男性が室内にひとりでいて、彼はどこかぼんやりとした話し方をするひとだった。一応、本当に医師免許を持っているらしいのだが、正直、信用していいのか不安なところはある。机に置いてある日本酒が、一刀をより不安にさせた。


 ただ、石島の怪我は命に別条がない、との見立てくらいは信じたい。

 石島の受け答えもはっきりとしているので、これが明日になって容態が急変して……、というのはあまり想像したくない。


 石島の頭には包帯が巻かれている。

 なんでこんなことになったのか、と先ほどまでの状況を一刀は改めて思い出してみる。九段が投げた開かれたままのパイプ椅子は石島の側頭部に直撃し、石島はその場に倒れ込んでしまった。まず叫んだのは、上谷だった。普段の余裕のある表情は完全に崩れていた。


 九段はその場から走り去って、いなくなってしまった。本人もやり過ぎてしまった、という自覚はあったのかもしれない。とはいえ島から出ることはできないので、どこかにはいるはずだ。


 頭から血が出ていることに気付いた夕張が、

「運ぼう……!」

 ちいさいながらも、しっかりと通る声で一刀に伝えた。一刀だった理由は、ちょうど夕張の隣に彼がいたからだろう。一刀はその場にいた男子に協力を求めて、全員で彼を運ぶことにした。まだ学校内の設備を把握している生徒はいなかったので、すこし時間は掛かったが、医務室まで連れて行ったのが、つい先ほどのことだ。一刀と夕張以外の生徒は、もう食堂に戻ってしまった。


『藤原くん、色々ありがとう。瑠奈ちゃんは、ショックを受けてたから、部屋に戻ってもらった』

 遅れるように医務室に入ってきた夕張が、一刀にそう書かれたメモを見せてきた。


「瑠奈、ちゃん?」

 誰のことかすぐに分からず首を傾げると、夕張は続けて、

『上谷さんだよ。そう呼んで、ってお願いされたんだ』

 と書いたメモを見せてきた。


「そうか……」と相槌を打ちながら、一刀は別のことが気になっていた。夕張さん、しゃべれるんだよな……。どうして筆談をするのだろう、と。ただ気にはなっても、簡単には聞けない。なんとか聞くタイミングを伺っているうちに、石島が意識を取り戻して、いまにいたる、という感じだ。

「……あいつ、次にあったら殺してやる」

 と石島が怒りを吐き出すように、言った。


『やめて。もうみんなを心配させないで』

 石島の言葉に対して、夕張がメモを見せてきた。

「なんで、紙で?」

 石島は夕張が筆談をしていることを知らなかった。困惑もあって、九段への怒りが削がれたようだ。そしてこのタイミングは夕張に聞く一番のチャンスかもしれない、と一刀は思った。


「あの、夕張さん……」と一刀は夕張のほうを向き、彼女の持つメモ帳を指差した。「いきなりこんなこと聞いて、嫌な気持ちになったら申し訳ないんだけど。さっき、声、出してたよね。しゃべれないわけじゃ……」

 一刀の言葉に、夕張が顔を赤くする。そのあと、頬を指で掻き、落ち着かないのか足を動かす。どう答えるか悩んでいる素振りだった。まずい質問だったかな、と一刀はすこし後悔する。


 またメモ帳に、夕張がペンを走らせる。


『メモで答えてもいい?』

「えっ」

 とこれは、一刀と石島の声が重なったものだった。その相槌に、一刀が続ける。「もちろん、いいけど」

 すると夕張は何か長い文章をメモ帳に書き込みはじめた。結構長い時間で、その間、あまり何か話してはいけない気分になり、石島も同じ気持ちだったのだろう。ふたりは黙って、彼女の様子を眺めていた。


 書き終えた彼女がメモを二枚ほど破り、一刀に手渡す。紙にはびっしりと文章が書き込まれていて、石島もそのメモを覗き込む。


『こんなこと会ったばかりのひとに話すことではないのかもしれませんが、聞かれたので、答えます。実は私、昔、天才少女って言われてたんです。IQがすごい高かったり、同じ年頃の子ができないことをすぐにできるようになったり、〈神童〉とか〈ギフテッド〉とか、そういう呼ばれ方をすることもありました。その呼称が、私を当てはめるものとして正しいのかどうか分からないのですが、とにかく事実として、そうだったのです。この時の私は、母の誇りだったんです。母は私をたいして愛してはいませんでしたが、私の才能はとても愛していました。でも私は嫌で嫌で仕方ありませんでした。母はそんな私に英才教育を施そうとしましたが、私はつねにできない振りをし続けました。本当はできることもあったのに。できない振りをすると、どんどん本当にできなくなっていきます。わけが分からなくなってくるんです。だから途中からは、振り、ではなかったのかもしれません。すると母はいままでの態度が逆転したかのように、私に辛辣な言葉を投げかけてくるようになりました。私が何かしゃべるたびに舌打ちをして、「気持ち悪いしゃべりかただ」と嘲笑ったり、「気持ち悪い」と怒るようになりました。じゃあいっそ何も発しなければいい、と私は沈黙を選び、殻に閉じこもるようになりました。私は不器用なので、母親だけにそんな態度を取ることができず、誰に対してもそういう態度を取るようになりました。嫌われる、って分かっているのに。気付いたら、私は本当に話し方を忘れていました。だからさっき声が出たことに、自分でもびっくりしてるんです。嫌ですよね。こんなこと聞かされて。ごめんなさい。でも、私とは無理に話さなくても』


 夕張は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。本当に申し訳ない、と思うべきは自分だ、と一刀は思った。好奇心で軽く聞くことではなかった、と。


「ごめん。軽く聞いちゃって」

 夕張が首を横に振る。

『大丈夫』

 とメモを見せる夕張に、そんなの気にすんなよ、と言ったのは、石島だった。


「口で何かを言えるだけで偉いっていうなら、お前よりも、あの九段の奴のほうが偉いってなるからな。そんな世の中、あってたまるか、って話だ。たかだかそんなことでひとの上下は決まらない。横一線だよ。全員。人間なんて」

 まだ一刀は石島がどんな人間か知っているわけではなかったが、夕張のほうが上だ、という表現を使わず、横一線と言ったことに、彼らしさ、のようなものを感じてしまった。


『ありがとう』

 夕張がにこやかにほほ笑んで、そうメモを見せてきた。自分で言って照れてしまったのか、石島の耳は赤い。


『でも』

「でも?」

 一刀が聞く。

『お前呼びは嫌です』

「あぁ、いや。それは、だな」と石島は若干、慌てている。

 このふたりは、なんだかうまくいきそうだな。ふたりを残して、一刀は医務室を出る。すると出てすぐの廊下に瀬尾がいた。船で話して以来、彼としゃべる機会はほとんどなかった。彼にはひとり、何かあった時に付き添ってくれる学校のスタッフがいたはずだ。部屋決めの際にもそのひとの姿があり、三十代くらいの男性だった。そのひと自身が、瀬尾に付き添うために雇われた、と言っていた。とはいえ、瀬尾自身が必要とする時以外は、離れて過ごしているのだろう。


 瀬尾だけは生徒同士ではなく、この男性と一緒の部屋で、その関係で、細井という生徒はひとり部屋が用意されていた。確かこれにもすこし九段が文句を言っていた記憶がある。『嫌なら代わるけど』と細井が涼しげな顔をして言っていた。その態度にプライドが刺激されたのか、『じゃあ代われ』と九段が続けることはなかった。


「一刀くん、聞いたよ。食堂で喧嘩があったって。大丈夫だったの」

 あの場に、瀬尾はいなかった。後で聞いて、心配になって来てくれたのだろうか。


「あぁ、九段と石島が。だから僕は全然、大丈夫だよ」

「石島くんが大怪我をしたってのは、一応聞いたけど」

「うん、まぁ、とりあえずは大丈夫そうな感じだよ」

「そっか。良かった……」本当に心から安堵している様子だ。根が善良なのだろう。「命に関わるトラブルがここで起きたって、すぐに大きな病院に行けるわけでもないから。そういう意味でも怖いな、って」


 確かにそうだ。

 特別な意図はなかったとは思うが、瀬尾の言葉はやけに暗示的に感じられた。実際、車椅子を利用する瀬尾の不安は、一刀たちの比ではないだろう。


「そうだな……。とりあえずトラブルには気を付けるようにしないと」と一刀は頭に九段の姿を浮かべる。今回は石島だったが、矛先が他の人間に向く可能性だって、じゅうぶんにある。実際に話してみれば分かり合えるのかもしれないが、まだその度胸は出ない。「瀬尾も気を付けなよ。たぶん九段は相手が誰でも容赦はしなさそうだから」


「九段くんか……。まぁうん、喧嘩になったら絶対負けちゃうね。身体が不自由な人間なんて」

「それって、やっぱり怪我……」

「うん。一年くらい前に、転落事故、っていうのかな。まぁあんまり詳しく話すようなことじゃないけど。いつかまた普通に動けるようになるのかなぁ、これ。いまだに全然慣れないよ」

 のんびりした口調は、まるで見ず知らずの他人のことを語るようだった。こちらから踏み込んで聞くことでもないので、一刀はそれ以上、聞かないことにする。わざわざこんな離島での学校生活を選ぶのだ。色々な事情を抱えているのは間違いない。


「あぁ、ごめんごめん」と急に何かを思い出したように、瀬尾が手に握り拳をつくって、もう片方の手のひらをぽんと叩いた。「一刀くんに話があって、ここに来たんだった。きみが医務室にいる、って食堂にいた子に教えてもらって」

「話?」

「うん。影山くん、いるだろ。さっきちょうど彼に会ったんだけど、彼がきみと会いたがっていたことを伝えよう、と思って。本人は、『まぁいいか』って言ってたから、僕がきみを呼びに来る筋合いはないんだけど」

「影山が? なんだろう」

 同室にはなったが、まだ『仲が良い』と言えるような関係ではない。


「実は部屋の入り口に差し込まれるように、彼あての手紙があったらしい。理事長室に来てくれ、って」

「理事長室……? 最上階の」

「そこまでは僕も分からないんだけど、『ひとりで来てくれ』って書かれてあったらしくて。ただ不安だったんだ、と思う。『一緒に付いてきてもらえないかな、って思って』なんて言ってたよ。良かったら、僕が付き添おうか、って言ったら、影山くん、すこし悩んで、『いや、ひとりで来てくれ、ってことだから。まぁいいか。俺、ひとりで行くさ』って」

 影山に、そんなあっけらかんとした口調で話す印象はあまりなかったが、もしかしたらすこし緊張が解けたのかもしれない。


「そうか……。それでひとりで」

「ちょっと心配になって」

 別に根拠はない。ただ嫌な胸騒ぎはあった。もしかしたら何か大変なことが起こるかもしれない。


 とはいえ実際に誘われたわけでもないので、一刀は自分の部屋に戻ることにした。

 当然、影山の姿はない。なんだか落ち着かず、支給されたタブレットで電子コミックを眺めてみるが、全然頭に入ってこない。三十分ほど経って、一刀は結局、理事長室に向かうことにした。


 一刀はいまでも考えてしまうことがある。

 もしもあの時、部屋にずっといる、という選択をしていたら、自分の未来はどういう風に変わっていたのだろうか、と。これは最良の選択だったのか、それとも最悪の選択だったのか。


 どれだけ考えたところで、いまさらどうすることもできないのだけれど……。

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