第5章 覚醒する悪夢
第11話 悪夢へようこそ
『アソボウ……』
『ミツケタ……』
『アソボウ……』
『ミツケタ……』
耳障りなノイズ混じりの声が、暗闇の中で反響する。いや、反響というより、脳内に直接響いてくるような不快感だ。視界が闇に閉ざされた中、唯一、その中で存在を主張するのは、無数に浮かび上がる赤い光点だけ。
ジリ、ジリと、赤い光点が距離を詰めてくる。
「ひっ……!」
息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。自分の喉から漏れた、情けない悲鳴だ。
MOCAの警告通り、いや、それ以上の何かが起ころうとしている。カレンのヤラセ演出が引き金になったのか、それとも、この廃病院そのものが持つ怨念がついに牙を剥いたのか。どちらにせよ、これは本物の、ガチの怪異だ。
その思考が脳裏をよぎった瞬間。
すぐ傍の壁――いろはの肩が触れそうな距離の壁が、まるで粘土のようにぐにゃりと歪んだ。そして、歪んだ闇の中から、ぬるりと。黒い影でできた『手』が、何本も、何本も、物理的な実体を持って這い出てきたのだ。
「きゃあああああっ!」
今度こそ、本気の絶叫が口をついて出た。同時に、足元の床が不自然に盛り上がり、立っていることすら困難になる。まるで、建物全体が生き物のように蠢いているかのようだった。
空間がバグった――そう感じた。視界の端々に、テレビの砂嵐のような、あるいは映像データが破損した時のような、不快なグリッチノイズが走り始める。赤い光点が明滅し、黒い影が伸びてくる。耳元では『アソボウ』『ミツケタ』というデジタル音声のような声が、音量も定位もバラバラに重なり合って響き続ける。
ダメだ、これ、逃げ場がない。
腰が抜けて、その場にへたり込みそうになる。恐怖で全身が石になったみたいに動かない。
「な、何なのよ……これ……」
黒月カレンは、暗闇の中に立ち尽くしていた。
完全な停電。空間の歪み。耳障りなノイズ。壁や床から染み出すように現れる黒い影と、無数の赤い光点。
これは、彼女が仕込んだ演出ではない。断じて違う。
カレンの配信は、高度なAR技術と、計算され尽くした物理的な仕掛け、そして優秀なスタッフたちによって完璧にコントロールされているはずだった。だが、今、目の前で起きている現象は、そのどれとも似て非なる、もっと根源的で、理解不能な『何か』だ。
「嘘……これ、いろはとかいう奴の仕業……?いや、違う。このノイズ、この歪みは何……?」
混乱と恐怖。そして、それ以上に彼女の心を占めたのは、自身の完璧なショーが台無しにされたことへの屈辱と、プライドが根底から揺さぶられるような激しい動揺だった。
インカムに呼びかけても、返ってくるのはノイズと、かすかに聞こえるスタッフの悲鳴だけ。彼らも、この異常事態に巻き込まれているのだ。
カレンは震える手で、護身用に隠し持っていた小型のスタンガンを構えた。しかし、こんなものが、物理的な実体すら曖昧な怪異に通用するのだろうか。その疑念が、恐怖をさらに増幅させる。
「ふざけないで……!私のステージをめちゃくちゃにするなんて、許さないんだから……!」
配信はすでに停止している。虚勢だとわかっていても、そう叫ばずにはいられなかった。そして、その叫びを嘲笑うかのように、怪異の脅威は激しさを増した。
ガシャン!
バリン!
古い手術室から飛び出した錆びたメスや注射器が、意志を持ったように宙を舞い、壁に突き刺さる。ベッドや車椅子が、誰かに押されたように滑走し、激突し、破片を撒き散らす。
物理的な脅威だけではない。
『ニセモノ……』
『オマエハ……ハリボテ……』
カレンの耳元で、あるいは脳内で、囁くような声が響く。それは、彼女が最も触れられたくない部分を的確に抉ってくる、悪意に満ちた幻聴だった。
「うるさいっ!」
目を
この空間に満ちた負の情報が、まるで彼女の弱さに反応して形を成しているようだった。
その脅威は、いろはの元へも確実に迫っていた。
黒い影の手が、目前まで伸びてくる。不快なデジタルノイズと、苦痛に歪んだ人間の顔が視界を侵食してくる。
「いや……!来ないで……!」
もうダメだ、と思ったその瞬間――。
「バリア展開」
凛とした、冷静で鋭いMOCAの声が響いた。
目の前に、ブラウンメタリックの相棒が立ちはだかる。機体から放たれる淡い青白い光が、盾のように怪異の侵攻を押し留める。
「システム再構成、制御領域を再構築中。マスター、下がって」
MOCAの展開した防御処理に呼応するように、配信画面がノイズの中から復旧し始めた。同時に、コメント欄が爆発するように流れ出す。
『繋がった!?』
『うおおおおおおおお』
『はよ逃げて!!!!』
『ぎゃあああああ』
『カレン様チャンネルから避難してきた!』
『MOCAちゃん頑張れーー!』
カレンのチャンネルが停止したことで、行き場を失った視聴者が流れ込んできているようだった。コメント欄は目の前の異常事態に対する混乱と悲鳴で埋め尽くされている。まさに、祭り状態だ。
だが、そんな熱狂とは裏腹に、いろはたちの状況は絶望的だった。MOCAの緊急措置は、怪異の侵攻をわずかに遅らせているにすぎない。青白い光の向こうで、無数の赤い光点が、より禍々しく輝きを増していた。
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