天使とお尋ねもの
空峯千代
1話
親父は、もうすぐ地獄に落ちる。
その証拠に、俺の目にはおむかえの天使が見えた。
総合病院の最上階。
フロアの一番奥にある病室に、半年前から親父は入院している。
診断名は肺がん。
大抵の場合なら、病気を宣告された本人も家族も困惑するだろう。
けれど、俺も親父も腫瘍の存在に驚きはしなかった。
むしろ、どこか納得した。
そういう形で決着がついたのだとすら思った。
高校を中退してから、夜勤のバイトを繰り返すようになって今。
俺は日々の睡眠不足と親父を取り巻く問題とで、板挟みになっている。
「誠二。ちょっと、こっち来い」
親父が俺の名前を呼ぶ。
俺は、あと何回親父に名前を呼ばれるんだろう。
夜勤明けの頭で考えながら、親父の寝ているベッドに近づいた。
「一階でな、どれでも好きなパン買ってやれ」
親父はそう言って、俺に千円札を一枚渡してきた。
昔よりも瘦せ、肉づきの薄れた手は骨が目立つ。
「紗良ちゃん。こいつが息子の誠二だ」
親父は、天使に話しかけた。
そこで、俺ははじめて天使が人だったことに気づく。
見た目からして、小学生くらいだろうか。
紗良、と呼ばれた少女はこちらを見た。
「こんにちは」
さらです、と。
そう自己紹介する彼女のイントネーションは、明らかにこの辺りのものではない。
血色のない肌に折れそうな細い身体、そして標準語。
きっと、彼女はどこかを悪くして、田舎に療養へ来たんだろう。
俺はパズルのピースを組み立てるように推測した。
「おまえも好きなの買って食べてこい」
人のよさそうな顔で親父は言う。
そんな顔しても、今更だろ。
半ば呆れながら、言われたとおり紗良を連れて一階へ降りた。
西棟から移動して、中央棟へと歩く。
廊下は看護師が行き来するくらいで、他の患者は特に見当たらない。
エレベーターはすんなり八階までやって来て、俺と紗良だけを乗せ、扉が閉まる。
狭い空間に二人。特に何を話すでもない。
ただお互いに大人しく下へ運ばれていく。
最初は、紗良が俺を怖がっているのかと考えた。
コンビニや警備の夜勤バイトで寝不足になり、俺の目元には濃いクマが刻まれている。
お世辞にも愛嬌のある顔とは言えない。
けれど、紗良に緊張した様子はなく、特に怯えているふうにも見えない。
そもそも、初対面の男とお喋りする方が難しいよな。
そう納得しかけたが、彼女はこちらに顔を向けてこう言った。
「メロンパン」
「ん?」
思わず、聞き返してしまった。
紗良は小さい口を微かに動かして、もう一度話しはじめる。
「メロンパンが、おいしいの。ここの購買」
「……そっか」
思い返せば、今まで子どもと接することがあまりなかった。
いざ話すとなると、どうしていいかわからなくなる。
俺はなるべく、素っ気なく思われないように努めて話した。
「じゃあ、俺も買う」
「ううん。はんぶんこしたらいいよ」
はんぶんこ。平和な響きだ。
「わかった。はんぶんこ、な」
彼女を見下ろすと、紗良の口角がわずかに上がっている。
紗良は、初対面の大人に緊張していたらしかった。
購買でメロンパンを買ってからは、だんだんと口数が増えている。
それと同時に、本当に俺が怖がられていなかったことを意外に思った。
「メロンパン、今は限定の味なの」
「これ、ピンクだけど。何味?」
「あまおう味」
春っぽいよね、と嬉しそうに笑う紗良。
そういえば、もうそんな時期か。
カレンダーの数字が特に意味を持たなくなってから、どれくらい経つだろう。
久しぶりに食べる菓子パンを咀嚼しながら、思い返す。
「あ」
隣から小さく悲鳴が聞こえた。
「どうしたの?」
問いかけるが、紗良は答えない。
下を向いたままで、食べかけのメロンパンを握っている。
「どこか痛い?」
俺がまた問いかけると、ようやく紗良は顔を上げてくれた。
「お兄さんとまだ話したいけど、もう部屋に戻らなきゃ」
紗良はとてつもなく悲しいことのように言った。
「ずっと病院にいると退屈だから、今日お兄さんとお話できて楽しかったの」
彼女は、花が咲くように笑う。
その笑顔を見て、胸に柔らかなものが満ちていく気持ちがした。
久しぶりに、隣で誰かが笑うところを見た気がする。
「お兄さん、またおじさんのお見舞いに来る?」
「行くよ」
「じゃあ、その時に紗良とも会ってくれる?」
紗良がねだるように俺を見る。
俺は視線に負けて、つい首を縦に振ってしまった。
「やった! 約束ね」
紗良は、はにかみながら小指をこちらに向けてくる。
俺と指切りをして残りのメロンパンを食べ終えると、彼女は嬉しそうに病室へ戻っていった。
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