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ビエントスの大きな手に引かれ、私は埃っぽいメキシコシティの裏通りを抜け出した。
彼の運転する古びたピックアップトラックの助手席に揺られながら、私たちは夜の闇の中をひたすら北へと向かった。
15号線と呼ばれる、荒れたアスファルトと未舗装路が入り混じる道。
後部座席には、屋敷から持ち出せるだけの、わずかな水と食料、そしてビエントスが常に手放さない、旧式のショットガンが転がっていた。
セラフィムたちは、その道中、いつになく饒舌だった。
特にパブロおじさんは、まるで観光案内でもするように、通り過ぎる街や村の歴史、名産品、そしてそこに潜む危険について、途切れることなく私に語り聞かせた。
「ほら、エリック、あれがトルーカの街だ。大きな工業都市でね、昔はマヤの民が暮らしていた聖なる土地だったそうだよ。
今は…まあ、メキシコの他の大都市と同じで、あまり長居はしない方がいい場所だけどね。特に、日が暮れてからは」
「見てごらん、モレリアの美しい教会を! あれはユネスコの世界遺産にもなっているんだ。植民地時代の面影が、そのまま残っている。治安も比較的いいから、本当ならゆっくり見て回りたいところだけど…」
ソフィアが、うっとりとした声で言う。
「グアダラハラ! メキシコ第二の都市だ! マリアッチの発祥の地、テキーラの故郷! ああ、美味しい料理と音楽! もし時間があれば、オスピシオ・カバーニャスの壁画を君に見せてあげたかった!」
パブロおじさんが、残念そうに声を上げる。
ビエントスは、そんなセラフィムたちの声など聞こえないかのように、黙々とハンドルを握り、時折、バックミラーで後方を確認するだけだった。
彼の横顔は硬く、強張っていて、ドンの屋敷で見ていた、あの冷徹な組織の幹部の顔に戻っているように見えた。
それでも、彼が私に向けてくれる視線には、どこか不器用な優しさが宿っていることも、私は感じ取っていた。
三日三晩、走り続けた。
トルーカを抜け、モレリアを過ぎ、グアダラハラをかすめ、ナヤリット州の州都テピックで一泊。
そこは、海沿いの、比較的小さな大学都市だった。
古い石造りの建物と、学生たちの活気が混じり合う、どこか安心できる空気が流れていた。
私は、ここで暮らしてもいいな、とぼんやりと思った。
けれど、ビエントスは翌朝早く、再び私たちを北へと向かわせた。
シナロア州のクリアカンでもう一泊。
そこは、パブロおじさんの解説によれば、「あまり長居はしない方がいい、危険な街」らしかった。
そして、五日目の夕暮れ時、私たちはついにソノラ州のエル・モシージョという、名も知らぬ街に到着した。
そこからさらに車を走らせ、カリフォルニア湾に面した、小さな、本当に小さな漁村へと辿り着いた。
プラヤ・サウイマロ。
打ち寄せる波の音と、潮の香りだけが支配する、世界の果てのような場所。
「…何もない所だろう」車を降り、海に向かって大きく伸びをしながら、ビエントスが言った。
その表情には、数日間の逃避行の疲れと、そして、ようやく辿り着いた安堵感が入り混じっていた。
その夜から、私の周りから、セラフィムたちの声が消えた。
最初は、気づかなかった。
ビエントスが、村の長老らしき人物と話し込み、私たちの一時的な滞在許可と、小さな漁師小屋を借り受ける手続きをしている間、私はただ、小屋の隅で膝を抱え、押し寄せる眠気と戦っていたからだ。
異変に気づいたのは、翌朝、ビエントスに手を引かれ、初めてその村の、どこまでも青く広がる海を見に行った時だった。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く水面、白い砂浜、遠くでカモメの鳴き声。
それは、私が今まで見たどんな景色よりも美しく、そして穏やかだった。
こんな時、いつもならソフィアが「まあ、なんて素敵なの!」と甲高い声を上げ、パブロおじさんが「この海の向こうには、もっと素晴らしい世界が広がっているんだよ、エリック!」と冒険心をくすぐるような話をしてくれるはずだった。
なのに、何も聞こえない。
ミゲルの、いつも私を戒めてくれる低い声も。
エミリオの、人を食ったような冗談も。
アントニオの、不機嫌そうな唸り声も。
ジュリアの、博識ぶりをひけらかす解説も。
そして、ルイーザの、私を包み込むような優しい囁きも。
「…みんな、どこへ行ったの?」
私は、不安になってビエントスに尋ねた。
彼は、私の問いの意味が分からないというように、怪訝な顔で私を見つめ返した。
「みんな、とは誰のことだ、エリカ?」
その時、私は悟ったのだ。
この村には、「それ」がないのだと。
ドン・ソンブラの屋敷や、私たちが通り過ぎてきた街々に、当たり前のように張り巡らされていた、あの見えない情報の網。
SID-COMネットワーク。
このプラヤ・サウイマロという漁村は、そのネットワークから完全に隔絶された、アンプラグドの世界だったのだ。
セラフィムたちは、そのネットワークを通じて私の意識に接続していた。
だから、その接続が断たれた今、彼らの声は、もう私には届かない。
それは、想像を絶するほどの孤独感だった。
物心ついた時から、常に私の周りにいた七人の声が、突然、完全に消え失せてしまった。
まるで、自分自身の半分をもぎ取られたかのような、激しい喪失感。
私は、その場で泣き崩れそうになった。
ビエントスは、何も言わずに、ただ黙って私のそばにいてくれた。
彼もまた、この村の静けさと、情報の途絶に、戸惑っているのかもしれない。
彼もまた、長い間、ドンの組織という、歪んだネットワークの中で生きてきた人間なのだから。
その日から、私の新しい生活が始まった。
セラフィムたちのいない、静かで、そして途方もなく長い時間。
最初は、寂しくて、不安で、夜も眠れないほどだった。
けれど、ビエントスは、不器用ながらも、私を気遣ってくれた。
彼は、漁師たちに混じって働き始め、わずかな食料と引き換えに、私に読み書きを教えてくれた。
彼のスペイン語は、セラフィムたちのそれとは違い、少し荒っぽく、訛りも強かったけれど、その言葉の一つ一つには、温かみがあった。
村の人々も、私たち親子(ビエントスは、私の父親だと説明していた)を、詮索することなく受け入れてくれた。
彼らの生活は、質素で、原始的とも言えるほどだった。
SIDも、SIMも、もちろん持っていない。
情報のやり取りは、もっぱら顔を合わせての会話か、あるいは、遠くの村へ行く者がいれば、手紙を託ける程度。
けれど、彼らの顔には、私がドンの屋敷で見てきたような、疑心暗鬼や、恐怖の色はなかった。
彼らは、自分たちの手で魚を獲り、畑を耕し、助け合い、そして笑い合って生きていた。
そこには、かつて誰かが語っていた、「DISCONNECTORS(ディスコネクターズ)」と呼ばれる人々の理想郷のような光景が、広がっていたのかもしれない。
彼らは、SIDネットワークによる支配を拒み、人間本来の繋がりを求めて、文明から離れた場所で独自のコミュニティを形成しているという。
この村の人々が、彼らの一員なのかどうかは分からない。
けれど、彼らの生き方は、私に、SIDやセラフィムたちのいない世界でも、人間は生きていけるのだということを、静かに教えてくれているような気がした。
それでも、私は時折、セラフィムたちのことを思い出さずにはいられなかった。
彼らの声、彼らの言葉、彼らの存在そのものが、私の一部になってしまっていたからだ。
特に、夜、一人で漁師小屋の固いベッドに横たわっていると、彼らの不在が、まるで胸にぽっかりと穴が空いたかのように、寂しく感じられた。
そんな生活が、一年ほど続いただろうか。
私は、五歳になっていた。
ビエントスに教わったスペイン語も、少しは上達し、村の子供たちとも、片言ながら遊べるようになっていた。
セラフィムたちのいない生活にも、少しずつ慣れてきていた。
もう、彼らの声がなくても、生きていけるかもしれない。
そう思い始めていた、矢先だった。
その日、村に、見慣れない数人の男たちがやってきた。
彼らは、高価そうなスーツを着こなし、最新型のSIDデバイスをこめかみに装着していた。
村の質素な風景には、あまりにも不釣り合いな姿。
彼らは、ビエントスの前に立つと、冷たい目で彼を見下ろし、低い声で何かを告げた。
ビエントスの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
彼は、私をきつく抱きしめ、震える声で言った。
「…エリカ、逃げるんだ。早く…!」
男たちが、私たちに近づいてくる。
その手には、黒光りする、見たこともない形状の武器が握られていた。
絶望的な状況。
もう駄目だ、と思った、その瞬間。
私の頭の中に、懐かしい声が、まるで雷鳴のように響き渡った。
『エリック! 今だ、私たちの声に意識を集中しろ!』
ミゲルの声だった。
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