第2章 見えないノイズ 5
タクシーポッドを降りると、ひんやりとした山の空気が肌を刺した。
福岡市内とは明らかに違う、澄んだ、しかしどこか重たい空気。
目の前には、古めかしい石造りの正門がそびえ立っている。
福岡桜花学院。
蔦の絡まる門柱には、金色の校章が鈍い光を放っていた。
創立は二世紀以上前と聞く。
その歴史の重みが、門構えからもひしひしと伝わってきた。
門をくぐり、広大なキャンパスへと足を踏み入れる。
手入れの行き届いた芝生、高く聳える楠の並木、そして、その奥に見える、赤煉瓦造りの重厚な校舎。
まるで、時代劇のセットに迷い込んだかのようだ。
2058年の今、これほどまでに「古き良き」時代の面影を残している場所も珍しいだろう。
だが、その整然とした美しさの裏に、どこか息苦しいような、閉鎖的な空気を感じずにはいられなかった。
(バンディズム、か…)
血族主義。
この学院が掲げる、時代錯誤な理念。
SIDが普及し、知識も経験も、なんなら人格すらデジタルデータとして共有・継承できるようになったこの時代に、いまだ血の繋がりを至上とする人々がいる。
彼らにとって、この学院は聖域であり、同時に、外界から自分たちの価値観を守るための要塞でもあるのだろう。
依頼主である岡崎ゆかりという教師との面会時間は、午後三時。
まだ少し時間がある。
俺は、約束の場所である職員室へ向かう前に、少しだけ学院内を歩いてみることにした。
どんな場所なのか、どんな空気が流れているのか、自分の目で確かめておきたかった。
キャンパスは、驚くほど静かだった。
平日の昼間だというのに、生徒の姿はまばらだ。
見かける生徒たちは皆、一様に整った服装をし、行儀が良い。
だが、その表情はどこか硬く、生気がないように見える。
彼らの多くは、おそらくSIDを通じて、俺には見えないネットワーク空間でコミュニケーションを取っているのだろう。
物理的な世界への関心が希薄になっているのかもしれない。
校舎の中も同様だった。
長い廊下、高い天井、磨き上げられた床。
だが、そこには生徒たちの笑い声も、教師の怒鳴り声も響いていない。
聞こえるのは、俺自身の足音と、遠くから微かに聞こえる、空調設備の低い唸りだけだ。
まるで、巨大な博物館か、あるいは、手入れの行き届いた墓地の中を歩いているような気分だった。
(こんな環境で、本当に健全な精神が育つのかね…?)
俺は、SIDという技術そのものに懐疑的だが、それ以上に、この学院が持つ閉鎖性、そしてバンディズムという偏った思想に、言いようのない嫌悪感を覚えていた。
ここで起きているという奇妙な出来事も、あるいは、この歪んだ環境が生み出した必然なのかもしれない。
ポケットの中の旧式スマートフォンが、微かに振動した。
取り出して画面を見ると、ディアムからの暗号化メッセージだ。
『首尾は?』
相変わらず、用件だけの短い文面。
俺は、立ち止まり、壁に寄りかかりながら返信する。
『まだ学院に着いたばかりだ。
これから依頼主と会う。
何か新しい情報は?』
すぐに返信が来る。
『例の「ガム」の動きが活発になっている。
桜花学院周辺のアンダーグラウンド市場で、新しいタイプのものが複数出回っているらしい。
効果は未知数だが、かなり強力で、危険な代物だという噂だ』
新しいタイプのガム。
ディアムは、以前にもいくつかの情報を送ってきていた。
電子ドラッグ、あるいは精神作用プログラム。
SIDに直接作用し、様々な効果をもたらす違法アプリ。
その通称は、なぜかアドビの古いクリエイティブソフトの名前が付けられていることが多い。
例えば、「フォトショップ」。
使用者の現実認識を「編集」し、世界を美しく見せたり、あるいは都合の良いように歪めたりする効果があるという。
多幸感をもたらすが、常用すると現実との区別がつかなくなり、精神が崩壊する危険がある。
「イラストレーター」。
これは、現実世界に幻覚を「描画」するタイプらしい。
存在しないはずの美しい風景や、空想上の生き物が見えるようになる。
芸術家タイプの人間が好んで使うというが、これもまた、現実逃避と依存性が問題視されている。
そして、「プレミア・プロ」。
これは、使用者の時間感覚を「編集」する。
時間の流れを遅く感じさせたり、逆に加速させたり、あるいは過去の記憶を鮮明な映像として再体験させたりする。
使い方によっては学習や作業効率を上げることもできるらしいが、副作用として深刻な記憶障害や、時間感覚の喪失を引き起こすことがあるという。
他にも、「ドリームウィーバー」は夢を自在にコントロールできるが、覚醒時の現実感が希薄になる。
「アフターエフェクツ」は感情の残響を増幅させ、喜怒哀楽を異常なまでに高める。
「インデザイン」は認知能力を一時的に高めるが、思考の暴走を招きやすい。
(まるで、デジタルな麻薬だな…)
これらのガムは、SIDの正規の機能ではありえない、脳への直接的な快楽刺激や、認識の強制的な改変を行う。
だからこそ、違法であり、危険なのだ。
そして、その新しいタイプが、この学院周辺で出回っている?
『新しいタイプ、か。
具体的には?』俺は返信した。
『まだ詳細は不明だ。
だが、通称は「ペインター」と呼ばれているらしい。
効果は…「魂に直接、色を塗る」ようなものだとか』
魂に色を塗る? まるで詩人のような表現だが、意味が分からない。
『どういう意味だ?』
『さあな。
使った奴らの話では、感情そのものが、まるで絵の具のように塗り替えられる感覚らしい。
喜びが突然、深い悲しみに変わったり、憎しみが、燃えるような愛情になったり。
感情のコントロールを完全に失う、危険な代物だ』
感情の塗り替え。
それは、もはやドラッグというより、精神操作、洗脳に近いのではないか。
『誰が、何のためにそんなものを?』
『目的は不明だ。
だが、製造元はメキシコのカルテル、「エル・シルクロ・ケツァルコアトル」だという線が濃厚だ。
連中は、SID技術を悪用した新しいビジネスを模索している。
電子ドラッグは、その一つだろう』
エル・シルクロ・ケツァルコアトル。
ケツァルコアトルの円環。
メキシコ最大の麻薬組織。
かつてはコカインやヘロインを扱っていたが、SIDの普及と共に、そのビジネスモデルを電子ドラッグへとシフトさせているという。
連中が、この桜花学院と繋がっている?
『桜花学院との関連は?』
『まだ確証はない。
だが、学院のいくつかの不審な資金の流れが、ケツァルコアトルのフロント企業を経由している可能性がある。
そして、失踪したジェンキンス。
彼は、何かを掴んでいたのかもしれない』
ジェンキンス。
アンプラグドの老教師。
彼が、メキシコの巨大麻薬カルテルの陰謀に? にわかには信じがたい話だ。
だが、ディアムがそう言うからには、何らかの根拠があるのだろう。
『分かった。
その線も探ってみる。
他に何か?』
『例のターゲット、エリック・マルティネス・サントス。
彼に関する追加情報だ。
彼は、幼少期にケツァルコアトルによって非合法なSID施術を受けている可能性が高い。
おそらく、何らかの実験体だったのだろう。
そして、数年前の「大いなる粛清(THE GREAT ERASURE)」の混乱に乗じて、組織から逃亡したらしい』
エリック・マルティネス・サントス。
それが、俺が最初にディアムから依頼された、もう一つのターゲットの名前だ。
行方不明の少年を探してほしい、と。
その少年が、メキシコの麻薬カルテルの実験体? そして、桜花学院の事件と、どう繋がるというのか。
『エリックと桜花学院の関係は?』
『不明だ。
だが、偶然とは思えない。
何かがあるはずだ。
君の「地上」の目で、それを見つけ出してほしい』
『…了解した』
メッセージのやり取りを終え、俺はスマートフォンをポケットにしまった。
頭の中が混乱している。
バンディズム、SIDの不調、教師の失踪、電子ドラッグ、メキシコの麻薬カルテル、そして謎の少年エリック。
これらが、すべてこの桜花学院という場所で繋がっている? まるで、悪夢のようなパズルのピースだ。
俺は、再び歩き出した。
目指すは職員室。
依頼主である岡崎ゆかりに会わなければならない。
彼女は、このパズルのピースをいくつか持っているはずだ。
だが、彼女自身も、この巨大な陰謀の一部に組み込まれている可能性も否定できない。
信用できるのか? いや、この世界で、誰かを完全に信用することなど、そもそも不可能なのかもしれない。
廊下の角を曲がると、前方に職員室のプレートが見えた。
深呼吸を一つ。
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