第2章 見えないノイズ 2

岡崎先生が部屋を出て行ってから、数分が経過しただろうか。

学院長室には、私と、私のファミリアであるジジ、そして先ほど岡崎先生が連れてきた生徒、斎藤嘉樹の2 人(と一体)だけが残された。

重厚な調度品に囲まれた部屋は、しんと静まり返っている。

窓の外では、先ほどまでの雨が嘘のように上がり、傾きかけた西日が雲間から差し込み始めていた。

光の筋が、室内に漂う微細な埃を金色に照らし出している。


目の前のソファに座る斎藤嘉樹は、私が彼の意識へのアクセス許可を求めた後、わずかに身じろぎしたものの、今は落ち着きを取り戻したように見えた。

背筋を伸ばし、どこか挑戦的な光を宿した瞳で、私を真っ直ぐに見つめている。

十四歳。

SIDを装着してまだ数ヶ月。

しかし、その佇まいには、年齢以上の自信、あるいは過信のようなものが感じられた。

彼が訴えているという「周りのものが崩れ落ちる」幻覚。

それは、彼の急激な精神的変化、彼が言うところの「進化」と、何か関係があるのだろうか。


「さて、斎藤くん」私は、静かに口火を切った。

「まずは、少しリラックスしてください。

これは尋問ではありません。

ただ、あなたのSIDの調子について、いくつかお話を伺いたいだけです。

あなたの許可なしに、不快な領域に踏み込むことはありません」

私の言葉に、彼は小さく頷いた。

だが、その表情からは警戒心が消えていない。

彼の隣には、彼のファミリアである「ジュリア」が、控えめな和服姿で座っている。

彼女は、プログラムされたであろう穏やかな微笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、主である嘉樹を守ろうとする強い意志のようなものが感じられた。

ファミリアは、ユーザーの精神状態を反映する鏡でもある。

ジュリアのこの硬質な雰囲気は、嘉樹の内面の緊張を表しているのかもしれない。


「SIDを装着されて、数ヶ月が経ちましたね。

使い心地はいかがですか? 日常生活や、特に学習面で、何か変化は感じていますか?」

当たり障りのない質問から始める。

まずは、彼との間に最低限の信頼関係を築くことが重要だ。


(斎藤嘉樹 視点)

ICAのエージェント、常楽院雛子。

彼女の質問は、予想していたよりもずっと穏やかだった。

もっと詰問されるような、あるいは、俺の「異常」を決めつけるような態度で来るのかと思っていたが、そうではないらしい。

だが、油断はできない。

彼女はプロだ。

俺の意識の深層を探り、何かを探り出そうとしている。


「使い心地、ですか」俺は、少し考えるふりをして答えた。

「素晴らしい、の一言です。

世界が、まるで違って見えます。

知識が、思考が、無限に広がっていく感覚。

アンプラグドだった頃には、想像もできなかったことです」

それは、本心だった。

SIDは、俺に新しい力を与えてくれた。

あらゆる情報に瞬時にアクセスでき、複雑な問題も容易に理解できる。

学習効率は飛躍的に向上し、以前は苦手だった科目ですら、今では容易にトップクラスの成績を収めることができる。

これは、まさしく「進化」だ。

俺は、他の連中よりも一歩先に進んでいる。


「特に学習面での変化は大きいですね。

教科書を読む必要も、ノートを取る必要もほとんどない。

必要な情報は、思考するだけで頭の中に流れ込んでくる。

まるで、最初から知っていたかのように。

先生の役割も、変わりましたね。

知識を教わるというより、俺の学習プロセスをサポートしてくれる、チューターのような存在です」

俺の言葉に、彼女は静かに頷いている。

隣にいる彼女のファミリア、二本尻尾の黒猫が、興味深そうにこちらを見ている。

ジジ、とか言ったか。

猫のファミリアとは、珍しい。


「なるほど。

SIDが学習にもたらす恩恵は大きいようですね」彼女の声は平坦で、感情が読み取れない。

「ですが、その…世界が違って見える、という感覚について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか? 例えば、視覚的な変化、あるいは、以前とは違う音や気配を感じる、といったようなことは?」

来たか。

核心に触れる質問だ。

例の「崩れ落ちる」幻覚について、探りを入れてきている。


「視覚的な変化、ですか…」俺は、慎重に言葉を選んだ。

「そうですね、時々、世界がより…鮮明に、立体的に感じられることがあります。

まるで、解像度が上がったような。

古い情報や、不要なノイズが消えて、物事の本質が見えるような感覚、とでも言いましょうか」

嘘ではない。

実際に、そういう感覚はある。

だが、それが「崩れ落ちる」というネガティブな表現に繋がるかどうかは、解釈次第だ。

俺にとっては、それは旧世界の崩壊であり、新世界の創造なのだから。


「本質が見える…それは、素晴らしい体験かもしれませんね」彼女は、俺の目を見て言った。

「ですが、その感覚が強すぎると、現実との境界が曖昧になったり、あるいは、存在しないはずのものが見えたり聞こえたり…といったことはありませんか?」

「幻覚、ということですか?」俺は、少し不快感を滲ませて聞き返した。

「いいえ、俺が見ているものは幻覚ではありません。

それは、より高次の現実です。

アンプラグドの人には理解できないかもしれませんが」

俺の言葉に、彼女の隣にいた黒猫が、ふん、と鼻を鳴らしたように見えた。


『高次の現実、ねぇ。

面白いことを言うじゃないか』

ジジの声が、俺のSIDに直接響いた。

ファミリア同士の思考通信(マインドリンク)だ。


『だが、その高次の現実とやらは、君の脳が作り出した幻影、あるいはSIDのバグである可能性はないのかい? 君のファミリア、ジュリアさんはどう考えているのかな?』

ジジの問いかけに、俺の隣に座るジュリアが、わずかに身じろぎした。


『斎藤様の認識は、現在、急速な拡張期にあります。

一部、過負荷によるノイズが発生している可能性は否定できませんが、それが直ちに異常であるとは断定できません。

継続的な観察と調整が必要です』

ジュリアの答えは、いつも通り、客観的で、そしてどこか歯切れが悪い。

彼女は、俺の「進化」を肯定も否定もしない。

ただ、データに基づいて、可能性を列挙するだけだ。

それが、少しもどかしかった。


(常楽院雛子 視点)

斎藤嘉樹の反応は、予想通り、あるいは予想以上に強固だった。

彼は自身の体験を「進化」と捉え、外部からの指摘を「理解不足」として退けようとしている。

プライドが高く、自信に満ちている。

だが、その自信は、どこか脆く、不安定な基盤の上に成り立っているようにも見えた。

彼のファミリア、ジュリアの応答も興味深い。

「過負荷によるノイズの可能性は否定できない」。

彼女自身も、主人の状態に何らかの異常を感じ取ってはいるようだ。

だが、それを明確に指摘することは躊躇している。

あるいは、できないのかもしれない。

ファミリアは、基本的にユーザーの精神状態に寄り添うように設計されている。

ユーザーが強く信じていることを、真っ向から否定するのは難しい。


(彼の万能感…SIDによって増幅された自己肯定感。

それが、現実認識を歪ませている可能性が高いわね)

私は、次の質問を投げかけた。

今度は、少し視点を変えてみる。


「斎藤くん、あなたのその素晴らしい『進化』は、他の生徒さんたちも経験しているのでしょうか? あなたの周りで、最近、何か変わった様子を見せる友人はいませんか? 例えば、以前よりも攻撃的になったり、逆に、塞ぎ込んだり…あるいは、あなたと同じように、奇妙な『現実』を体験しているような子は?」

この質問には、いくつかの意図があった。

一つは、彼の孤立感を和らげること。

自分だけではない、と感じさせることで、心を開かせやすくする。

もう一つは、他の生徒たちの情報、特にシャオ・ツーやエリカ・ロドリゲスといった、より深刻な症状を示している可能性のある生徒たちについての情報を、彼から引き出すこと。

そして、最も重要なのは、彼が「他者」をどのように認識しているかを探ることだ。

SIDによって接続された社会では、自己と他者の境界線が曖昧になりやすい。

彼は、他の生徒たちの変化を、自分自身の「進化」の反映として捉えているのか、それとも、全く別の事象として認識しているのか。



他の生徒たちの変化? 常楽院雛子の質問は、少し意表を突くものだった。

俺は、自分の進化に夢中で、周りのことなどあまり気にしていなかった。

だが、言われてみれば、確かに、最近、クラスの雰囲気が少しおかしいような気もする。


「他の生徒、ですか…」俺は、記憶を探った。

「そうですね…シャオ・ツーは、少し変わったかもしれません。

以前はもっと子供っぽかったのに、最近はやけに大人びたというか、妙に冷めたような態度を取ることがあります。

それに、時々、すごく攻撃的になることも…」

シャオ・ツー。

彼もSIDを装着したばかりのはずだ。

彼もまた、俺と同じように「進化」の過程にいるのだろうか? だが、彼の変化は、俺の経験とは少し違う気がする。

俺のような万能感ではなく、むしろ、世界に対する憎しみや、破壊的な衝動のようなものを感じる。


「それから、坂本…彼は、まあ、元々少し変わっていましたが、最近はさらに…その、女装がエスカレートしているというか。

以前は隠していたのに、今は堂々としていますね。

あれも、SIDの影響なのでしょうか?」

坂本直行。

彼もまた、俺とは違うタイプの人間だ。

自己認識とか、ジェンダーとか、そういう曖昧なものに悩んでいるらしい。

SIDが、彼のそういう部分を刺激したのかもしれない。


「長岡さんは…あまり話さないのでよく分かりません。

いつも一人で本を読んでいますし。

エリカは…彼女は元々、不思議な子でしたから。

いつも霧の中にいるみたいで、何を考えているのか分からない」

俺は、思いつくままにクラスメイトたちの様子を語った。

話しながら、俺は奇妙な感覚に襲われていた。

彼らの変化は、俺自身の変化とは違う。

それぞれが、SIDという新しい環境の中で、別々の道を歩み始めているようだ。

接続されているはずなのに、むしろ、以前よりも個々の違いが際立ってきているような…。


(これが、SIDネットワークの本質なのか? 繋がることで、逆に個が際立つ?)

俺は、常楽院雛子の顔を見た。

彼女は、静かに俺の話を聞いていた。

その表情からは、何を考えているのか、まったく読み取れない。


『君は、他者の変化を、客観的に捉えようとしているようだね』ジジの声が、再び思考に割り込んできた。

『だが、それは本当に客観的なのか? 君自身のフィルターを通して見た、偏った解釈ではないのか? 君が「進化」と呼ぶものも、他者から見れば「異常」と映るかもしれないのだよ』

『黙っていろ』俺は、思考でジジに言い返した。

『お前には、俺の感覚は分からない』

『分からない、か。

それこそが、SIDがもたらした、新しい孤独の形なのかもしれないな』

ジジの言葉は、妙に心に引っかかった。

孤独? 俺は、SIDによって、かつてないほど多くの知識と、そして力と繋がったはずだ。

孤独であるはずがない。


斎藤嘉樹は、他の生徒たちの変化について、比較的冷静に語った。

それは、彼がまだ、自己と他者を明確に区別できている証拠かもしれない。

だが、彼の語る内容は、やはり懸念すべきものだった。

シャオ・ツーの攻撃性、坂本直行の境界線の曖昧さ、長岡静子の孤立、エリカ・ロドリゲスの現実感の喪失。

これらはすべて、SIDの不調、あるいは外部からの干渉によって引き起こされている可能性が高い。

そして、彼自身が体験している「進化」という名の認識異常も、同じ根源から来ているのかもしれない。


彼のSIDログへのアクセスは、まだ表層的なレベルに留めている。

だが、彼の許可は得ている。

もう少し深く潜れば、ノイズの正体が見えてくるかもしれない。


「斎藤くん、ありがとう。

参考になりました」私は言った。

「最後に一つだけ、聞かせてください。

あなたは、SIDや、このネットワーク化された社会について、不安を感じることはありませんか? 例えば、プライバシーの問題や、情報が操作される可能性、あるいは…自分自身が、自分でなくなってしまうような感覚、とか」

これは、核心に迫る質問だ。

彼の自己認識の根幹を揺さぶる問いかけ。

彼がもし、この問いに対して強い拒否反応を示したり、あるいは、全く意に介さないような態度を取るならば、彼の精神状態は、かなり危険な領域に踏み込んでいる可能性がある。


斎藤嘉樹は、私の質問を聞くと、一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。

そして、ゆっくりと、しかし確信に満ちた声で答えた。


「不安、ですか? いいえ、全く。

むしろ、逆です。

SIDは、人類を次のステージへと導くための、必然的なツールです。

プライバシー? 情報操作? そんなものは、旧世界の価値観に過ぎません。

接続された意識の中で、個人の秘密など、もはや意味を持たない。

すべてが共有され、最適化される。

それこそが、理想的な社会の姿だと、俺は信じています」

彼の言葉には、迷いがなかった。

それは、若さゆえの純粋さなのか、それとも、既に何かに深く「汚染」されてしまった結果なのか。


「自分自身が自分でなくなる、という感覚もありません。

むしろ、SIDを通じて、俺は本当の自分自身に近づいている。

より強く、より賢く、より完全な存在へと。

選ばれた人間だけが到達できる領域があるんです。

俺は、その一人なのだと確信しています」

彼の瞳が、狂信的とも言える強い光を放った。


(これは…まずいわね)

私は、内心で警鐘を鳴らした。

彼の状態は、単なるSIDの不調や、思春期の万能感といったレベルを超えている。

何らかの外部要因――おそらくは、例の「ガム」のような違法アプリか、あるいはもっと巧妙な精神干渉プログラム――によって、彼の価値観そのものが書き換えられようとしている。

そして、その影響は、他の生徒たちにも及んでいる可能性が高い。


「そうですか。

あなたの考え、よく分かりました」私は、平静を装って言った。

「今日は、貴重なお話をありがとうございました。

少し、疲れましたね。

今日はここまでにしましょう」

これ以上、彼と直接対話しても、有益な情報は得られないだろう。

むしろ、彼の警戒心を強めるだけだ。

必要なのは、彼の意識の深層への、より慎重な、そして隠密なダイブだ。


「岡崎先生を呼んできます。

少し、ここでお待ちください」

私がそう言うと、斎藤嘉樹は、満足げに頷いた。

彼は、自分の「進化」を、私に理解させることができたと、そう思っているのかもしれない。

その傲慢さが、彼の最大の弱点になるだろう。


私は立ち上がり、学院長室を出た。

扉が閉まる直前、ソファに座る彼の姿と、その隣で穏やかに微笑むジュリアの姿が、一瞬だけ見えた。

あのファミリアもまた、主人の歪んだ認識を、静かに肯定しているのだろうか。


廊下に出ると、先ほどまでの西日は既に陰り、空は再び鉛色の雲に覆われ始めていた。

見えないノイズは、この学院の、そしてこの時代の、深い場所にまで浸透している。

私は、重い足取りで、岡崎先生を探しに向かった。

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