第13話 Share a quarter -貴方のための唄-.3
稲妻のように、あるいは、突風のように。
私たちの時間は過ぎていった。
ややもすれば、遠くへ行ってしまいたくなる私が、どこにも行かぬよう支える奏のベース音と、霞のキーボードの響き。
繊細というにはあまりにラウドで、騒音というにはあまりに完成された鮮烈さを持つメロディに酔いしれた私は、最後の一音を天高く轟かせると、この時間を惜しむように固く、長く、目をつむった。
『なんで面倒に付き合うのか』。
その答えは、この余韻の中で肌を粟立たせるグルーヴィーな感覚にある。
和歌と同じで、独りでは得られなかったものだ。
演奏が終わると、聴衆は万雷の拍手をくれた。指笛を鳴らす者もいたが、私にとってはどれも耳障りなものでしかなく、少しずつ、少しずつ指先と喉の熱がひいていった。
(…っ、みじ、かい…!)
砂漠に落ちた水滴は、あっという間にどこかへと失われていく。演奏しているとき、歌っているときにしか満たされない渇きが、またも私を支配した。
でも、こういうときにワガママを言っても仕方がない。さっさと部室に戻って演奏するほうがよほど建設的なのだ。
だが、そのうち、私の脳みそが次に弾きたい楽曲を考え始めているのを、やたらとテンションの高いアナウンスが打ち消した。
『はい!とてもすごい演奏でしたね!会場のみなさん、もう一度大きな拍手をお願いします』
アナウンスにつられ、再び拍手と指笛が鳴る。私は思わず辟易して、眉をひそめて聴衆を睥睨していた。
そのときまで、私は実に失念していたことを認めざるを得ない。この新入生歓迎ライブが部活動紹介を兼ねていたことを。
しかしながら、志藤奏という身勝手で楽しいこと好きな人間の行動まで予測しろというのは、いささか酷というものだっただろう。
『それでは、最後に部長の御剣一葉さんから、新1年生へ何か一言お願いします』
アナウンスの後、しばしの静寂が流れる。それは私の言葉を待つ沈黙でもあったのだが、同時に、私自身が状況を理解するために必要な時間でもあった。
「…は?」
漏れ出た言葉はそれだけだった。そしてそれは、マイクに乗って体育館ホールに響き渡った。
少しずつ、少しずつだが生徒や先生たちがざわめき立つも、私の思考はそこには向けられていない。行く先はもちろん、“部長の御剣一葉”という文言に対してだ。
まず、アナウンスをしている生徒が何か間違えているのではないか、と思った。だが、次の数秒後には、私はちゃんとした真実に――実質幽霊部員だった三年生が引退した際、志藤奏が勝手に私を部長にして学校に届けていることに気づいた。
私が、部長?
私は顔をさらにしかめる。
よく分からないが、あれこれ面倒そうなのは分かったし、何よりも、私のことを私以外の誰かが勝手に決めてしまったことが許せなかった。
演奏の熱が急速に奪われていく不愉快さを隠すことなく表情と態度に出した私は、こちらの反応を楽しみだと言わんばかりの顔で待っている奏を最大火力で睨みつける。
「奏の馬鹿が、また勝手なこと言いやがって。部長なんて、やんないからな!」
マイクに乗って体育館中に響き渡る、荒い口調の宣言。それを聞いてもヘラヘラした顔で私を見る奏にさらなる文句を叩きつけようとしたとき、慌てた様子の霞に割って入られたことで、私は感情収まらぬ中、舞台から退場することになった。
…もちろん、すぐにやって来た教師にこっぴどく叱られたわけだが、私は怒り心頭で一切反省の言葉を口にしなかったし、奏は適当な謝罪を繰り返す始末だった。その結果、無関係な霞だけが酷く申し訳なさそうに何度も頭を下げることになっていた。
その日の夕方。毎週金曜日には顔を出してくれる和歌が今週もちゃんと来てくれるかどうか不安に思っていた私は、待ち人が玄関扉を開けて姿を現すや否や、猛烈な勢いで駆け寄った。
「ちょっと聞いてよ、和歌さん!」
「え?な、なに?」
いつも以上にびっくりした様子の和歌。その違和感に気づくこともなく、私は自分の話したいことを怒涛のように話し始める。
「今日さ、新歓ライブがあったんだけど。奏のやつ、マジで勝手しやがんの。もう、マジでありえない。先生たちもなんでか私を中心に説教するし。謝れば満足すんのかよって話。形だけの謝罪なんて意味ないでしょ…!霞も霞で奏には甘くてさぁ、『一葉も挑発に乗ったら駄目だよぉ』なんて。奏には適当な注意しかしないくせに」
私が文句言ってもヘラヘラしている奏、奏に頭を撫でられながら説得力のない叱責を行う霞。あぁ、あの場所に私の味方はいない。あいつらは甘やかし合うことに慣れ切っている。
「なぁに?まだ奏ちゃんにからかわれたの?」
和歌は靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れながら私にそう尋ねた。
「違うよ」
「じゃあ、演奏合わせてくれなかったとか?」
「そんなんじゃない。奏の合わせはいつも完璧」
「あ、そう、なんだ…」
和歌の顔がほんの少しだけ歪むも、私はやはりそれに一ミリも気づくことなく自分の話を続ける。
「あいつ、勝手に私を部長にして学校に出してたの。ありえなくない?」
「部長?」
ここで初めて和歌は話題に興味を示したようだった。広い場所に腰を下ろし、くりくりとした丸い瞳が、きちんと私を捉えたのである。
「そう。部長」
「一葉ちゃんが?軽音楽部の?」
「そうだよ」
「へぇ…いいんじゃない?何事も経験だし」
てっきり、私の性格を知っている和歌なら、一緒になって猛反対してくれると考えていたものだから、その返答はかえって私を不服にさせる。
「よくない!こんな経験したくないし。何の役に立つの?」
「んー…集団行動?」
「なんで疑問形」
人差し指を顎に添えて小首を傾げる姿は可愛いの一言に尽きるが、やはり面白くない。
「集団行動なんてものもしたくないし」
「あはは…一葉ちゃんならそう言うと思った。でもね、社会に出たら――」
「ストップ」片手を和歌の前に突き出して、言葉を遮る。「続く言葉は分かってる。先生たちも腐るほど言ってくるから。…でもさ、だから私もサボらず学校に行ってるわけじゃん。これ以上を求められても困るって」
「…でも、一葉ちゃんも色々学ぶべきことがあるというか…」
「ないよ。ない。私は私のままで生きられる場所でしか生きない」
学校なんてもの自体が集団行動を学ぶ場だ。否が応でもそこに属し、多感な青春時代を過ごさざるを得ないことを受け入れているだけマシな人間だと思ってほしい。本気で集団行動を拒絶する人間は、まず学校にすら来ない。
ひとしきり私の言い分を聞いた和歌だったが、だからといって納得してくれることはなく、むしろ、聞き分けの悪い子どもに接するかの如く、曖昧な微笑みを向けてくる。
「一葉ちゃん…あのね、一葉ちゃんは分かってるようで分かってないと私は思うよ」
「む…」
正式に付き合うようになってから、和歌はこんなふうに私を否定することが増えた。
別に全否定してきたりとか、言い分も聞かずに一方的に否定したりするということはないのだが、私の考え方について、昔のような受け止めをしてくれなくなったのである。
それはきっと、私のためを思っての変化だったのだろう。しかしながら、それが分かっているからといって大人しく聞き入れられないのが御剣一葉という人間なのだ。
私は和歌の顔を少し上から睨むと、唇を尖らせて可愛くない問いを投げる。
「なんでそう思うの?根拠は」
「根拠?」
どうせたいした根拠なんてないに決まっている。あっても、こんなにすぐには言語化できないだろう。
和歌は素早い切り返しが得意なタイプではない。だいたいぼーっとしている印象が強いし、日和見主義的なところもある。和歌が正面切って言い返してくるときなんて…。
そこまで考えてから私はハッとした。数日前の一幕を思い出したのである。
(そ、そういえば私、和歌さんに怒られたんだった…!)
謝らなくては、と青ざめたのも束の間、和歌はすうっと瞳を細めると、温度のない声音で言葉を発する。
「んー……学ぶべきことがない、って言ったよね、今」
「あ…え、う、うん…」
まずい。
嫌な風が吹いていた。
「それって、この間のこと、反省していないってことだよね」
「ちょ、いや、その」
逃げようとしても、すでに帆を張るタイミングを逃している。
「正直、私の顔を見るなり謝罪してくれるかなぁ、って期待してたけど…」
その和歌の期待とは裏腹に、私がとった行動は『自分の愚痴を聞かせること』だ。
心底、がっかりしたことだろう…。今さらだが、それでもきちんと話を聞いてくれていた和歌には本当に頭が下がる思いがした。
「……まだ反省が足りないどころか、してないみたいだから、私帰るね。本当は授業参観の話をしなきゃいけなかったんだけど」
「ま、待って、和歌さん」
すっ、と立ち上がる和歌に、私は手を伸ばす。
「なに?」
彼女は私の声を聞き、一応振り向いてくれたのだが、その瞳が酷く冷えていることに怖気づいた私が口をパクパクさせているうちに、数分前と同じように玄関を通って外に出て行ってしまった。
「…っ…あぁー…!」
情けない。
何も言葉が出なかった自分自身が、和歌を怒らせたことすら忘れかけていた自分が、そして、そんな状況で自分の愚痴ばかりを吐き散らかしていた自分が…。
私は後悔の濁流に押し流されると、そのままフローリングの上に突っ伏し、しばらくの間うめき声を上げ続けるのだった。
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