トレーニングルームの幽霊

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

酒に溺れると思考は鈍る。

 仕事でとても嫌な事があった。

 どれくらいかと言われたら、どうだろうか、きっと同じくらい嫌な事があったなら酒飲んで紛らわせるくらいだろう。

 茹だるような夏の夜、居酒屋から千鳥足とまではいかないが、危なっかしい足取りをして通い慣れた道を歩いていた。


『幽霊画の世界を堪能しませんか?』


 いつもなら気にした事もない小さな画廊、その店先にそんな案内が見える。


「くっそ暑いし、涼んでみっか」


 酔っ払いの思考なんてこの程度、気がつけば店先の扉を開けて中へと入り込んでいた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターに腰掛けた若い案内係はそこまで口にしてから、引き攣った笑顔で綺麗なアイラインの引かれた目が焦点を定めぬように右往左往する。

 きっとこの容姿が問題なんだろう、ヤニクロの白無印のシャツと黒のスラックス、足元はサンダル履き、現役のボディービルダーで頭は剃って丸めてる。

 こう例えてはなんだが、堅気には見えにくい。


「無料?」

「ど、どうぞ」

「あんがと」


 長方形の見渡せる展示室には客は一人もいない。

 薄暗く照明が落とされた店内にスポットライトを浴びるかのような幽霊画が三十作品ほど吊り下げられている。

 洋画、日本画、前衛アート調、などなど。背筋が冷える作品から思考する作品まで様々でとても見応えはあった。


「売ってんのか、まぁ、画廊だもんな」


 題名脇の金額も一見してから部屋の真ん中に置かれたソファーに腰を下ろして、ゆっくりと見入る事にする。

 美術は嫌いじゃない。

 寧ろ、語りかける絵は大好きだ。

 ゆっくりと時間をかけて一枚、一枚、と眺めていく、ふと、ある掛け軸に目が止まった。

 おどろおどろしいがピタリと合う、古風な着物姿の足のない幽霊画がそこに居た。

 居たって表現もおかしいかもしれないが、それは描かれたより存在していると感じたのだから仕方がない。

 真っ青で頬が痩けた悲壮な表情を浮かべ、両手を前に伸ばし、着物の裾が破れ風に揺れている。


 そう、正統派の幽霊だ。


「涼しげでいい感じだ。トレーニングルームに飾るか……。お姉さん、これ買うよ」


 けれど、まさかその後の人生に多大な影響を及ぼすなんて考えても見なかった。 

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