第28話 春日クルーズ(2)

「ありがとうございました!」


 ずらっと店の前に並んだ店員に送り出されたときには、アリスは海の選んだ淡いピンク色のドレスに、ダイヤのイヤリングとネックレスまで完璧にコーディネートされた状態であった。


(ドレスなんて初めて着る……。夜会仕様ですよねこれ。現代日本で着る機会なんかない)


 コスプレかな? とアリスはドキドキしているのだが、スーツを着こなした海が横にいるだけでまだまだ地味に思えてくるのが、さすがはプリンスといったところであった。


「すごく似合うよ。忙しくて申し訳ないけど、この後はレストランに予約があって、ダンスホールのイベントも視察する必要がある。それから先はアリスの行きたい場所で」


「行きたい場所はたくさんあるんですよね。ナイトプールも気になっていたんですけど」


 と、船内地図を思い浮かべているアリスの横で、海が頭を抱えていた。


「海さん?」


「ごめん。ナイトプールは俺も気になるけど、アリスの水着を人目に晒したくなくて挙動不審になりそう。いや、行きたいなら行く。でも……」


 すでに挙動不審な上に、苦悩が深すぎて痛々しい。

 アリスは「大丈夫ですから! そこまでじゃないですから!」と慌てて言い募った。


「本当にただの興味関心なんです、一生行く機会なさそうと思っていたので! 他にも、カジノやバーラウンジも同じくらい別世界として興味があります! 個人的な趣味からするとライブラリーもいいなって思いますし! せっかく最高級のお部屋なので、海が見えるお風呂には絶対に入りたいんですが、大浴場にも行ってみたい!」


「全部行こうよ」


 デッキに向かいながら、人とすれ違うときにさりげなくアリスを抱き寄せつつ、海が耳元で囁いてくる。

 そうなんですけど……とアリスも思わず小声になって囁き返した。


「せっかくのドレスなので、できるだけ長く着ていたいんです」


 海が、アリスを抱き寄せる腕に力をこめる。結い上げた髪に軽く口付けながら、吐息をもらして呟いた。


「俺が脱がしたい」


「……は、はい! 今日は、大浴場には行きません……」


「うん。夜は部屋でゆっくりしよう。起きていられるなら、一緒に誕生日を迎えたいな。眠いなら寝ていいよ、体を大切に。焦らなくても、明日もあるから」


 ぞくぞくするほど、海の声が甘い。


(耳から溶けてしまいそうなんですが……!)


 塩をかけられたナメクジになる~と、およそロマンスと程遠いことを思い浮かべて、アリスはなんとか溶け崩れずに済んだ。

 新型の「白鳳」の就航を控えているとはいえ、「春日」も現役で日本を代表する豪華客船であり、船内はどこもかしこもきらびやかで洗練されている。まさに社交場であり、背筋を伸ばして歩きたかった。


「こうして、思い切って旅に出てみるのも、いいですね。最近出張続きで体は辛かったんですけど、会社の経費で日本中めぐって香空のいろんな店舗に泊まれるのは本当に楽しかったんです。今度は海さんと行きたいな」


 自然に手をつなぎながら、海が肩を寄せて微笑みかけてくる。


「俺が副社長になればいいのかな」

「下剋上……!」

「副社長じゃ足りないな。まだその上があるんだから」


 野心をのぞかせる海に、思わずアリスは苦言を呈してしまった。


「能力主義は大切だと思いますが、年功序列も大切ですし、長期に渡って尽力してくれる社員の皆さんの存在があっての会社だと私は思いますよ。上に立つひとには、下を納得させる職歴が必要ではないでしょうか。この業界では、経験がなくては乗り切れないこともたくさんあります。各店で接客を受けて実感しました」


 海自身が、ラクジュアリーが何かをわかっている人材がいて初めて成り立つと言っているように、現場には圧倒的な積み重ねと経験値のあるホテリエがいる。

 そういった社員が仕事を続けるためには、会社への信頼がなくてはならないとアリスなりに感じているのだ。


「暁子副社長は、それはもう人外のバイタリティで私もついていくのがやっとですが、あの仕事ぶりがあって会社がまわっているんだとよくわかりました。現場の社員を大切にしているからこそ、案件が上がってくるわけですし。たとえ海さんでも簡単に蹴落とせる相手ではないです。蹴落としてもいけないと思います。あれ、私はまた仕事の話をしていますね」


 しかもプリンスに対して、香空のなんたるかを説くという恐れ知らずの言動をしてしまった。アリスはそんな自分にびっくりしたが、海はまったく機嫌を損ねた様子もなく、笑っていた。


「副社長の仕事を、アリスが理解しようとしてくれているのが頼もしくて嬉しい。べつに心配はしていなかったけど、うちは母も姉も同じようなタイプだから。叔母さんと仲良くやれているなら大丈夫かな」


「待ってください、仕事の話からアクロバティックな話題転換しすぎでは」


「そんなことないよ。うちは全部つながってるからさ。体力的には大変だと思うけど、将来的にはアリスが副社長を狙ってくれて全然良いからねっ」


 何が「全然良い」のでしょうか? と思わないでもなかったが、アリスはこの場での追求はしないでおくことにした。


(せっかく、物理的に仕事が追いかけてくることがなく、どこかに呼び出されることもない海の上なんだから)


 楽しもう、と思いながらアリスがつないだ手に力を込めると、海が目を見開いた。

 そして、とろけるような笑みを浮かべて、手を強く握り返してきた。


 * * *


「引っ掻き回したい」


 船内の主だったレストランでは、そろそろラストオーダーも終えるような時間帯。

 ダンスホールにて、向かい合って踊る海とアリスを遠巻きに眺めながら、芦屋が物騒なことを口走った。

 横にいた城戸が、白けたような目を向ける。


「オススメしませんね。あそこ結構微妙な時期なので、何かあったら一生恨まれますよ」


「それつまりめちゃくちゃ面白いってことだよな。よし行こう」


 なおさら興味を引かれた様子で、芦屋は意気揚々と二人の元へと向かう。

 城戸は肩をすくめて、その後姿を見送った

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