第2話:こちら側へ

目を開けた瞬間、息が詰まった。

 あまりに静かだったから。

 あまりに、生々しい匂いがなかったから。


 薄暗い天井。白ではなく、灰色に近い。

 古びた木の梁が剥き出しになった天井の意匠が、何か現実味を奪っていた。

 起き上がろうとしたが、身体はひどく重かった。


 喉が渇いていた。

 それでも、かすれた声でようやく一言だけ漏れた。


 「……ここは……?」


 返事はなかった。

 代わりに、聞こえてきたのは、カーテンの揺れる音。


 風のない部屋で、カーテンだけが揺れている。

 その先に、誰かが立っていた。


 あの女だった。


 窓際で、外を見ていた、あの黒髪の女性。

 現実の中で、ありえないほどに美しかった。

 ここでも、その美しさは少しも色褪せていなかった。


 彼女が、こちらに振り返った。

 そして、また——微笑んだ。


 「ようこそ、こちら側へ」


 声が、音として届くより前に、心に染み入っていた。


 「……あなたは……」

 「あなた、飛び降りたでしょう?」


 彼女は問いではなく、確認として言った。


 「その瞬間、私の顔を見てくれた。

  あんなに綺麗な目で、誰かに見られたのは久しぶり」


 「……ここは、死後の世界……?」


 彼女は首を傾けて笑った。

 それは、答えとも、拒否とも取れない曖昧な所作。


 「ねえ。あなた、“後悔”したでしょう?」

 「……ああ」


 「落ちていく途中で、死にたくないと思った。

  誰かに会いたいと。

  そして、誰かを愛したいと。

  その想いが、あなたをここに運んだの」


 「ここって……」


 「“堕ち損ねた者”の場所。

  死にきれなかった魂が流れ着く、隙間の部屋。

  でも安心して。みんなここで、もう一度始められる」


 彼女は、ふわりとした足取りで近づいてくる。

 その目には、慈愛のような、飢えのような光が宿っていた。


 「私はね、こうして、あなたを待っていたの。

  ずっと前から。

  あなたのように、誰かを見て後悔する人を。」

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