第10話 声なき願い、記されて
艦内時間で午前三時。第六駆逐艦・雷の艦内は、すでに静寂の底に沈んでいた。
焦げた金属の匂い、砕けた装甲板、半壊した区画をつなぐ通路。応急照明も落ち、ただユウトの携行灯だけが、かつて“誰かがいた”場所を照らしていた。
足音が、甲板に落ちる。
かつての仲間の声も、機械の足音も、この艦にはもう存在しない。
だがユウトの耳には、静寂のなかに微かに誰かの気配が残っているような錯覚があった。
瓦礫を踏み越えながら進んだ先に、それはあった。
破損した義体。その顔だけが、かろうじて原形をとどめている。
コアドール──雷。
彼女は戦いの末に沈黙した。
自律防衛モードに切り替わった後も、艦の最奥で最後まで抵抗を続けていた。
自分の意思で。
義体はほぼ全損。だが、頭部ユニットと中枢コアだけは、奇跡的に残っていた。
ユウトは静かに膝をつき、そっとその顔をのぞき込む。
「……守ろうとしてくれたんだな。最後まで」
囁くような声。返事はない。
その顔には、複数の微細なひびと衝撃跡が残っていた。それでも目元や輪郭は崩れておらず、まるで眠っているかのようだった。ユウトは唇をかみしめ、ポケットから薄い布を取り出して彼女の頬の煤をぬぐった。
あたたかさは、どこにもなかった。それでも、彼の指は止まらなかった。
「遅くなった。でも、迎えに来たよ」
彼の胸元には、前回のサルベージ時に拾った名札──焼けた金属片に刻まれた「雷」の文字が、揺れる灯に静かに輝いていた。
慎重にケースを開き、頭部ユニットを収納する。ケースの固定具がカチリと鳴る音が、無人の艦内に静かに響いた。
その音が合図だったかのように、遠くで艦の骨組みがきしむ音が響いた。艦の限界は近い。
彼は通信端末を開き、暁へ連絡を入れる。
「アカツキ、こちらユウト。雷の中枢ユニットを確保。状態は……頭部のみ。他は全損だ」
『了解しました、ユウト。あなたの安全を最優先に。艦内通路の気密再調整を完了しました。推奨経路を表示中です』
「収容は?」
『収容手段は……ありません。艦の気密通路を再調整し、あなた自身で搬送をお願いします。できる限り安全な経路を案内します』
「ありがとう。……すぐ戻る」
『気をつけて、ユウト』
ケースを抱え、彼は艦をあとにする。
* * *
暁の艦内、第七格納区画。仮設義体で艦内行動可能となったアカツキが、静かに待っていた。
扉が開き、わずかに遅れてユウトが入ってくる。
彼女の義体はいつも通り無表情だったが、目の奥に揺れるような光があった。
彼女の腕の中、雷の頭部ユニットが丁寧に受け取られる。
隔離保護区画には、低温と電磁遮蔽が施され、スキャン装置が起動を始めていた。
「……保存環境、最適化完了。中枢構造の損壊は重度ですが、データ断片の保存率は予想より高めです」
ユウトは傍らに立ち、返事をしないまま、ただ黙ってその顔を見つめた。
彼女はもう、何も語らない。
だが、そこに刻まれた傷と痕跡が、雄弁に語っていた。
たったひとつの躊躇もなく、最後までこの艦を、誰かを守るために動いていた記録。
「俺は……あいつのことを、置いていかない」
その言葉に、アカツキは応えない。
だが彼の中では、それだけで充分だった。
* * *
ユウトは名札を胸に、再び雷の艦へと向かった。
目的はただ一つ──“見届ける”こと。
限界を迎えた艦内は崩壊寸前だった。構造フレームは不安定で、各区画は気密を保っていない。天井の一部は落ち、露出した配線が火花を散らしている。
エネルギー残量はわずか。空調はすでに止まり、温度も湿度も不安定だ。
だが彼は迷いなく踏み込んだ。
かつて彼女が立っていた整備区画。その奥、かろうじて電源が生きている端末に、彼は手を伸ばす。
雷の義体ログ、出力記録、人格同期エラー──断片的な情報が、かろうじて残っていた。
復元されたデータの中に、何件かの映像ログが混じっていた。
表示されたのは、誰もいない通路で待機する雷の姿。手に整備工具を持ち、薄暗い通路でふと立ち止まり、振り返る。誰かに話しかけるように、わずかに唇が動く──だが、音声は記録されていなかった。
その目は、まっすぐだった。
誰かの命令ではない。彼女自身の意志がそこにあった。
「……ひとりだったんだな」
その傍に、小さな扉がある。
「雷 管理区画」。
中は崩れ、もはや原形をとどめていない。
だが壁に、ひとつだけ紙片が貼りついていた。
『また会えたら、ちゃんと話そう。ぜったい、だよ』
ユウトは、紙片の前に立ち尽くした。
誰かの“願い”が、確かにそこに残っている。
彼はポケットから名札を取り出す。煤でくすんだその文字を、親指で軽くなぞった。
雷の声はもう、どこにもない。
けれど、この艦のどこかに、彼女の“選択”が残っていた。
「……おまえのこと、忘れないよ」
彼は深く頭を下げ、そして振り返る。
帰るべき場所が、今の彼にはある。
この旅が、再び誰かの名を灯すものになると信じて──。
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