第7話「恋とアルゴリズム」

「……なに、急に真面目な顔して」


芽衣が笑う。

放課後の図書室。窓の外には、夕方のオレンジ色が静かに差し込んでいた。


「いや……なんとなく聞きたくなってさ」


「“恋愛とプログラムは似てると思う?”って質問?」

「そう、それ。……変かな」


芽衣はしばらく考えたあと、笑顔を少し和らげて答えた。


「うーん……“好き”って感情、あれって“データ”じゃないよね。順序も正解もないし、予測もできない。だからAIには……難しそう」


レンはうなずきながら、心の中でShadowのインターフェースを思い出していた。


冷静、正確、計算的。

数式と論理で導き出される“正しい答え”。


芽衣の前にいる自分は、今その“正しさ”から一歩外れた場所に立っている。


(好きって、何だ?)


芽衣と一緒にいる時間が、最近になって急に「気になる」ようになった。

勉強を教えたり、彼女のメモ帳を見たりするたび、ふと胸が熱くなる。


でも、これは“恋”なのか?


それとも、今までの孤独から救われた“依存”なのか?


「瀬川くんってさ」


芽衣の声が唐突に戻ってくる。


「本当に勉強、楽しくなったんだね。最近のノート、すごく丁寧になってる。字も……ちょっと丸くなった?」


「え、字の形?」


「うん、前より“人間味”がある感じ」


その言葉に、レンは不意に喉の奥がつまったような感覚を覚えた。


“人間味”。


AIとばかり向き合ってきた数ヶ月の中で、そんな言葉をかけられたのは初めてだった。


その日の夜、レンはShadowを起動しなかった。

代わりに、彼は自分の手で問題を解きながら、ふとスマホのメモアプリを開いてこう書いた。


「もし“好き”という気持ちをAIに説明するなら、何て言う?」


自分でもよくわからない衝動だった。

でも、それはレンなりの“問い”だった。


翌朝、ふとしたきっかけで《ALIS》の試験的チャット機能にその質問を打ち込んでみた。

天野咲の開発した試験監視AIには、生徒の理解度支援用に限定された会話機能が搭載されていた。


【ALIS】:「“好き”という感情は、脳内ホルモンの複雑な相互作用に基づく現象です。一般的には、共感・信頼・保護欲求・外見的魅力の複合体と定義されます」


「……そっか。やっぱり、そうなるよな」


AIは、正しかった。

でも、その答えは“冷たかった”。


芽衣の目、声、笑い方――そういうのは、数式にできない。


(だから、俺はもう、Shadowを“使わない理由”が欲しいんだ)


それは、咲の言葉にあった「進むためにAIを使う」という姿勢とも違う。


レンは今、「誰かのために自分の力で応えたい」という欲求を持ち始めていた。


そしてそれは、芽衣の存在によって芽吹いたものだった。


その日の放課後。

廊下で芽衣に呼び止められた。


「ねえ、ちょっと寄り道しない?」


「……どこへ?」


「屋上。夕日、きれいそうだから」


階段を上がり、二人でフェンス越しに空を見た。

雲が朱色に染まり、校舎が長く影を引いていた。


「私さ、実は、前からちょっと思ってたの」


「なにを?」


「瀬川くん、誰かに似てるなって。……前に読んだ本の主人公。

最初はずっと無表情で、でも心の奥にはたくさんの迷いや優しさがあって……

誰にも頼れないけど、ちゃんと誰かを守りたいって思ってる子」


レンは、黙って空を見上げた。


(俺は、誰かを“守れる”だろうか)


その夜。


久しぶりにShadowを手に取った。

だが、電源を入れずに、ただ見つめた。


過去の自分の象徴。

でも、今は少しだけ距離を置いて見られるようになった。


それが、進歩なのかはわからない。


でも、確かにひとつの感情が彼の中に生まれていた。


「AIじゃ測れないものを、信じてみたい」


レンはそう呟いて、グラスを机の引き出しへと戻した。


カチリ。鍵をかける音が、静かに部屋に響いた。


▶次回:第8話「スマートグラスの閃光」

模試当日。かつての“影”が、再び誘惑を囁く。だがその瞬間、咲の監視AI《ALIS》が重大な異常を感知する――

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