第4話:無限人の女将

 どこまでも廊下や部屋が続き、無限に階層が存在する、凄まじく巨大な温泉旅館『昼辺・瑠斗無限旅館』。

 その『虚数階』こと『√-1ルートマイナス1階』に存在する、女将や仲居といった従業員たちが寝泊まりする部屋や休憩用に使う大広間。

 それらの要素だけでも、ごく普通の人間である良太にとっては異様過ぎるものだった。

 だが、その大広間に入った彼の目の前に広がっていていたのは、更に想像を絶する光景だった。


「「「「ようこそ、『無限旅館』の『√-1階』へ♪」」」」


 天井が見えず、壁と言う境界も遠すぎてわからず、ただただ延々と畳敷きの空間が続く超巨大な大広間。

 そこをすき間なく埋め尽くしていたのは、この『無限旅館』を司る美人女将、仙台千代の大群。

 緑色の上品な着物、艶やかな黒髪、穏やかで優しげな微笑み、背筋を伸ばした丁寧な姿勢、瞬きのタイミング、襟の合わせ方、草履のすり足の角度――彼女たちを構成するありとあらゆる要素が、寸分違わぬ様相を見せ続けていた。

 着物に自然に現れる胸元のしわの位置すら、全く違いが見つからないほどだった。

 それは文字通り、数と同一性の暴力。一切の『個性』も『違い』もなく、統一された存在が果てしなく続いていたのである。


「な、な、な……なんで……なんで女将さんがいっぱいいるんですか!?!?」


 目の前の状況に戦慄した良太は、叫ぶように問いかけを発した。すると、それに対しての返答は即座に返ってきた――。


「「「「「「「「この『無限旅館』に勤めているのは、みんなこのわたくし、『仙台せんだい千代ちよ』ですのよ♪」」」」」」」」

「「「「「「「「「「「「わたくしは『無限』に存在する事が出来るのですわ♪」」」」」」」」」」」」」


 ――地平線の彼方までぎっしり埋め尽くす、同一の存在による大合唱で。

 百、千、万、億、いや、そう言った単位での計測が不可能とも思われる数の女将=千代が、全く同じ声で一斉に答えたのである。

 その結果、良太の耳を無数の柔らかく暖かい声による轟きが覆い尽くしたのだった。


「「「「うふふふふふふ♪」」」」

「ひっ……!」

 

 どこまでも続く笑い声、果てしなく広がる笑み、そして無限に広がる空間。それらに取り囲まれた、良太の感情は限界に達していた。

 やがて彼は、必死に現実逃避を行い始めた。

 今までの光景は全部夢だ、こんな事態やあんな光景、無茶苦茶な空間、どれも現実に存在するはずはない。一刻も早く目覚めないと。

 そう考えた彼は、無意識のうちに自分の頬をつねっていた。


 だがその直後、良太は否応なしに事実を知らされる事となった。


「っ……痛っ……!!」


 無我夢中に本気でつねってしまった頬に、痛みが走った。

 それは、目の前で起きている光景が、夢でも幻でもなく、れっきとした『現実』である、という証であった。


「……じゃ、じゃあ、これは……あ……あ……」


 やがて、にこやかな表情を見せながら無限に並び続けている女将を眺めながら、良太は観念したかのように肩を落とした。


「……わ、分かりましたよ……この場所で、職場体験をすればいいんでしょ……」

「「「「分かればよろしいですわ」」」」


 そして、今からこの無茶苦茶な旅館の中で何をすれば良いのか、そもそもやる事はあるのか、と尋ねた良太の前へ、無数の女将を代表するように数十人が整然と並び、声を揃えて説明を始めた。


「「「「改めて解説いたしましょう。関本良太さん、あなたにはこれから3泊4日、泊まり込みでこの旅館で『職場体験』をして頂きます」」」」

「「「「そして、やる事でしたらたくさんありますわ。ご来館されるお客様への挨拶、ラウンジで寛がれているお客様への接客、様々なご要望に応じた物品の配達……」」」」

「「「「それにお掃除も欠かせませんわ。廊下やお部屋、お風呂のお掃除まで……」」」」

「「「「あと、布団の上げ下ろしも忘れてはいけませんわね」」」」

「は、はぁ……」


 ずっと危惧していた通り、旅館で行う仕事は大小様々なものが目白押しだった。

 こんな仕事、自分にこなせるのか、という感情を示すかのようについ後ずさりしてしまった良太に、無数の女将は笑顔を向けた。


「「「「うふふ、ご心配なく。わたくしがしっかり作法を教えてあげますわ」」」」

「「「「それに、困った時はいつでも呼んでください」」」」

「「「「「「「「「わたくしは『無限』にいますからね♪」」」」」」」」」」」」」


 女将の大合唱に圧倒されながらも、良太は何とか返事をする事が出来た。


「が……頑張ります……」


 なんでこんな事になってしまったのだろうか――そんな後悔めいた思いは、何とか胸の奥に隠し通す事が出来た。


「「「「「それでは早速、お仕事へ向かいましょう……と言いたいのですが、その前に……うふふ」」」」」」」

「へ……な、何ですか……?」


 そう尋ねた良太の傍に、複数人の新たな女将=千代が現れた。

 そして、仕事をする上で欠かせない『無限旅館』の制服への着替えのため、彼女たちは良太を更衣室へと案内した。


「「「「わたくしが用意しました着物を着用すれば、『無限旅館』を自由に往来する事が可能ですわ」」」」

「「「「旅館内の無限の空間を一瞬で移動できるようになりますのよ」」」」」

「そ、そうなんですか……」


 訳が分からないが、女将の言う事なのだからそうなのだろう、と理解する事を放棄しながら、良太は更衣室へ足を踏み入れた。


 中に広がっていたのは、これまた畳敷きの静かな和室。ほのかにヒノキの香りが漂う、譲渡溢れる部屋だった。

 壁際に整然と並ぶ衣装棚の中に、『関本良太』と書かれた名札と、男性用の青色の作務衣さむえが丁寧に折り畳まれていた。

 そして、良太が鏡台の前に立ち、何気なく姿見を除いたその時だった。


「……?」

 

 細長くふわりとした見知らぬ物体が、駆け足で部屋の中を通り過ぎたような気がしたのは。

 慌てて振り返っても、そこには何も存在しなかった。気のせいかと思い、鏡を見た彼は、心臓が飛び出そうになるほどに驚いた。

 そこには、幾人もの女将が彼の背後をびっしり埋め尽くしながら、見守るように微笑んでいたのだ。


「ひっ!?」


 悲鳴を上げて再度振り向いた彼であったが、やはりそこには何もいなかった。そして、鏡の中に映っていた無数の女将もまた、一瞬で姿を消していた。


「……な、なんなんだよ、これ……」


 震える手で青い着物に袖を通しながら、良太は不安を隠せない表情を鏡に映していた。


(……俺、こんな場所で4日間も過ごすのかよ……)


 とはいえ、今は急いで着替え、最初の仕事に備える必要がある。

 何とか青色の着物を身に着けた彼は、扉の向こうで待っていた夥しい数の女将の大群に出迎えられ、和風のエレベーターに乗って表玄関へ向かった。

 エレベーターの中はぎっしりと無数の笑顔の女将で埋め尽くされ、その艶やかで柔らかな肉体が良太を包み込んでいた。

 だが、その時の彼には着物越しに感じる無数の女将の感触を味わう余裕は無かった。


 そして、『1階』――旅館のエントランスやラウンジが存在する、『無限旅館』の入り口となる階層へ辿り着いた良太は、無数の女将の流れに巻き込まれるかのように玄関へと向かった。

 そして、中央を挟んでずらりと並ぶ無数の女将に合わせるように、良太もそれに混ざって立った。

 やがて、巨大な自動扉が開くとともに、無限に広がる空間に、女将の優しく温かな声の大合唱が響き渡った。


「「「「「「「いらっしゃいませ。ようこそ、無限旅館へ」」」」」」」」

 

 一斉に挨拶をする女将の大群に、嬉しそうに礼を返すのは、この『無限旅館』に訪れた観光客だった。

 良太や女将と同じ、ごく普通の人間のような風貌のような存在から、足元が僅かばかり浮いている客、頭に角を生やした客、頭部が骸骨のようになっている客、その肩に乗っているネズミのような姿の客、果ては透明な肌を持つアンドロイドのような外見の客まで、その外見は多種多様だった。

 それは、この『無限旅館』を利用する客が人間だけではないという事を、ごく普通の地球人である関本良太へ無言で教えているような光景だった。


 そして、彼もまた、無数の女将の挨拶に混ざり、声を発した。


「い、いらっしゃいませ……」


 ワンテンポ遅れた彼の声は小さく、頭を下げる角度も控えめ。

 無理やりやらされている、という雰囲気を醸し出しているようだった。


(……俺、生きて帰れるのかな……)


 不安が拭えないまま、関本良太が『無限旅館』で行う職場体験の1日目は、こうして幕を開けたのだった……。

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