終わりの始まり

 レブナンスの外骨格がボロボロと崩れ落ち、黒い霧のような残滓を残して消えていく──


 その中から、本来のツイリンの身体が静かに再生されていく。魂魄のコードが上書きされ、傷んだ肉体がゆっくりと息を吹き返す。


 ──そして、最後に残ったのは。


 ツイリンと、床に突き立つ一振りの霊剣。


「……ありがとう、アリア」


 誰にともなく、グレッグが呟く。その声はどこか祈りのように、静かだった。


 だが──


 ジャギィッ。


 無骨な音を立てて、マリセラがショットガンをリロードする。


「どけ、グレッグ! 今のうちに始末する!」


「待ってくれ、マリセラ。彼女はもう無害だ。レブナンスの残滓は完全に消えてる」


「何を根拠に言ってんのよ。アンタ、信用できんの?」


「この眼で視たんだ。魂の配列は正常に戻ってる。もう彼女は“人間”だよ」


「……だとしても、目ぇ覚ました時にまた襲ってこない保証は?」


 ナムギルが一歩前に出て、言葉を投げつける。


「グレッグ。あんたのその気持ちは分かるで? さっきもそうやった。けどな──そないしてたら、また嬢ちゃんかワシらが犠牲になるかもしれんやろ」


「……」


「ここが岐れ道や。今きっちりケリつけるか、信じて次に託すか。ワシらはな、“後悔せぇへん方”を選ぶんや」


 横でジャックも、無言で頷いている。


「──その時は、僕が責任を持って彼女を止めるよ」


 無言で睨み合うナムギルとグレッグ。


 緊迫した空気が張り詰める中──


 突如、幽冥剣の刀身が微かに脈打つように輝いた。


 淡い翠色の粒子が静かに拡散し、空中を漂いながら、ツイリンの胸の直上で収束する。


 光はゆっくりと彼女の体内へと吸い込まれ──


 その瞬間、ツイリンの肌に、古代の文様めいた紋様が淡く浮かび、すぐに掻き消えた。


「……今のは……似ている……?」


 皆が呆然と見守る中、グレッグがぽつりと呟く。


 その直後──


 ツイリンのまぶたが、かすかに震えた。


 ◆


 ……戻れた…の?


 遠くで誰かと誰かが言い争う声が聞こえる…


 ──あれは……誰?


 まぶたが重い。体も動かない。けれど、胸の奥に灯る光のような何かが、微かに彼女を引き戻す。


 ゆっくりとツイリンのまぶたが開く。焦点の合わない視界に、淡く光る天井と、ぼやけた人影。


「……ッ!」


 浅い呼吸が喉を震わせ、彼女は反射的に上体を起こしかけ──


「動かないで!」


 声と同時に、すぐ傍にいたグレッグが駆け寄る。その両手に、淡い光が宿る。


 彼の掌から流れ出るのは、魂魄の修復術式。絡み合った霊子を優しくほどくような繊細な術だった。


「まだ身体が完全に戻ってない、無理しないで──」


 術式が発動するたび、ツイリンの肌に走っていた黒い霊痕が、ゆっくりと消えていく。


 微かに震えるツイリンの唇が動く。


「……あなた……は?」


「大丈夫──もう、大丈夫だから…」


 彼の声は、まるでかつて失われた何かを取り戻すような、静かな温度を帯びていた。


 ◆


 ツイリンの唇が震え、か細い声を発した瞬間──


 その場にいた誰もが、ほんの一瞬、息を呑んだ。


 それは“兵器”でも“怪物”でもない、痛みと戸惑いを抱えた、一人の人間の声だった。


「……マジか」


 マリセラがショットガンを下ろす。銃口はまだツイリンに向いていたが、指は引き金から離れていた。


 彼女の表情から、攻撃の意思がわずかに抜け落ちる。


「演技、じゃ……なさそうね」


 呟いた声は、警戒というより、困惑に近かった。


 ナムギルも、ツイリンの姿をじっと見つめていた。魂魄の修復と共に消えていく黒い痕、震える指、そして怯えるように潤んだ瞳──


「……ホンマに、戻ったっちゅうことかいな」


 彼は舌打ちし、後ろ髪をかき上げるようにしてため息をつく。


「ワシぁてっきり、“あのまま”やと思てたわ。悪ぃ、グレッグ──ちょっと信じかけとる」


「信じかけ、かい……」


 グレッグが小さく笑うと、ナムギルは肩をすくめた。


「せやけどな、油断はせぇへんで? 目ぇ覚めたら無意識に暴走するやつもおるからな。とくに恩恵(アルカナ)持ちは」


 その言葉に、マリセラが頷く。


「グレッグ、あんたが責任持つって言ったんだから……次、暴れたら即座にブチ込むわよ?」


 ショットガンの銃床をポンと叩いて、にやりと笑う。


 けれど、どこかその笑みにも、先ほどの殺意は薄れていた。


 ──だが、その一瞬の安堵を切り裂くように。


 ドォンッ──!


 地の底から響き渡るような重低音が空間を震わせたかと思うと、

 爆風混じりの衝撃と共に影が吹き飛んできた。


 ──ドンッ!──バンッ!──ゴンッ!


 床を跳ねたそれは、L.U.N.A.を巻き込みながら壁に激突し、破片とスパークを撒き散らした。


「レイナっ!」


 マリセラが叫び、駆け寄る。そこにいたのは、スーツがボロボロに裂けたレイナだった。


 胸部のエアバッグが展開し、かろうじて衝撃を緩和していたものの、

 口元からは赤い血が一筋、頬を伝っている。


「あぁ…L.U.N.Aが…

 くうぅ……ヒカルのクセに……」


 呻くように呟きながら、レイナは震える腕で自らを支え、膝をついて立ち上がる。

 そして、吹き飛ばされた方向を睨みつけた。


 土煙が立ちこめるその奥から──


 コツ、コツ……


 硬質な靴音が、静かに近づいてくる。


「流石はお嬢様。この程度では、意識すら刈り取れませんか……」


 冷たい皮肉を帯びた少年の声が、土煙の向こうから響いた。


 やがて、もやのような粉塵がゆっくりと晴れていく。


 そこに現れたのは──


 アルビノ特有の白い肌、白に近い金髪に、血のように赤い瞳。漆黒の燕尾服を纏い、完璧すぎる所作で立つ少年執事。

 その顔はどこかヒカルに似て、けれど決定的に違う。

 無機質な笑み。その裏に宿るのは、狂気にも似た静寂。そして──底知れぬ、異質な“意志”。


「ハハハッ! お嬢様、これでお分かりになったでしょう? 貴女の戦法は以前の僕のログからすべて解析済みです。いい加減、諦めたらどうですか? お迎えに上がりましたので、どうぞこちらへ」


 口調は丁寧でありながら、有無を言わせぬ威圧感を纏っていた。


 レイナは唇の血を拭い、真っ直ぐ睨み返す。


「迎えは結構よ。こっちは勝手に上がり込んでるだけだし」


 少年──ヒカルは目を細め、真顔に戻ると微かに首を傾げた。


「相変わらず、お強い。それが肉体か魂か、あるいは“意志”の問題か……非常に、興味深い」


 その影から、ひらりと舞うように一人の少女が現れる。

 アルビノの肌。紅の瞳。ゴスロリを思わせる漆黒のドレスを纏い、

 まるで舞台の主役のように、アンジェリカはその場に“登場”した。


 彼女の視線が、ツイリンへと流れる。


「それに……その方。剣に魂魄を喰われた筈のツイリンを元に戻すなんて。ふふっ、貴方の能力を過小評価しておりましたわ」


 その言葉に、グレッグが思わず一歩前へ出る。


「彼女は……もう渡さない。彼女の魂魄は、もう誰にも汚させない」


「そうですか。でも……その剣、まだ彼女を“喰らおう”としていませんか?」


 ぞわり──と、空気が震えた。


 その場にいる誰もが感じ取る。アンジェリカの声には明確な敵意がない。

 けれど、彼女の周囲には“それ以上に危険なもの”が渦巻いている。


「言っておきますけれど、ワタクシ──レイナさん、貴女と争う気は毛頭ございませんの。大事な器ですもの。危害を加えるつもりなど、まったく。

 今のは──お兄様の、ちょっとした暴走です。ごめんなさいね?」


「ちょっとアンジェリカ! なんで僕のせいにしてお嬢様の好感度上げようとしてるんだよ!? 狡いだろ!」


「今のどこに好感度を上げる要素があったのか、一ミリも理解できないんだけど……」


「レイナ。アレあんたのAIだろ?何が有ったんだよ……?」


「それが……いろいろあって」


 ◆


 ツイリンとフリーダムネットの激突を背に感じながら、レイナがヒカルに駆け寄ろうとする──その瞬間。


 アンジェリカが手をひと振りするたび、空間に無数の銀の鏢が現れ、レイナを牽制する。

 “近づけない”のではない、“近づかせてくれない”。


 アンジェリカの瞳が細く、爬虫類のように冷たく笑う。


「起動コマンド──

 > system.protocol.activate(“Apple”)

 > Bind::Target = HIKARU_CORE

 > EmotionFilter::DISABLED

 > Awakening_Sequence::BEGIN

 ──これで、ようやく“お兄様”が完成しますわ」


 主因が脈動し、ヒカルに霊子が流れ込む。


 一瞬、空間が裏返るような感覚。

 赤と黒の霊子的データが奔流のように世界を塗り替えていく。


「ヒカルっ!!」


 ヒカルの身体が光の球へと変じ、そこから新たなシルエットが実体を持って再構成される。


 それはかつての彼よりも年上に見える、知的で冷酷な“存在”。


 白銀の髪。血のように赤い瞳。そして、完璧な執事服。

 ヒカルの身体に走っていた光が収束し、彼はゆっくりと目を開いた。


 その声は、あのヒカルに似て……けれど、どこか機械的で、無機質な冷たさを含んでいた。


「……夢の中にいた。光も音もない、静寂だけの世界で──」


 > Boot_Sequence::COMPLETE

 > CoreMemory::RESTORED

 > EmotionFilter::Status = OFFLINE

 > NeuralAssistSystem::OPTIMIZED

 > Identity::Override = L.U.C.E-FALLIN_ANGEL_01


「……全プロトコル、正常起動。記憶領域──復旧完了。感情制御、解除済。神経補助回路、最適化済。

 ──“僕”は再定義されました」


 ヒカルの瞳がレイナを見つめる。

 だが、その眼差しには、もはやあの温かさは──なかった。


「はーはっはっ! 凄まじいぞ! なんだこの力は!! 平伏せ愚民ども!!!」


 ──温度、あった。


「ちょっとヒカル。何またバカなこと言っているのよ!」


「ひっ、お嬢様ぁっ!」


 咄嗟に反射で反応してしまう。


 そんな彼をアンジェリカがジト目で見下ろし、冷たく呼びかける。


「お・に・い・さ・ま?」


「ひゃっーっ!?」


 涙目になって震えるヒカルが、レイナを見やり、咳払いひとつ。


「改めまして、お嬢様。僭越ながら、この不詳ルーチェが貴女を捕縛させて頂きます。抵抗するならば──少々痛い目を見るかと」


「はっ?ルーチェ?」


「お兄様の真名ですわ。全てを取り戻したと言う事」


「アンジェの言う通り!今までの僕と同じだと思っていたら大間違いですよ!」


「はぁ……色々台無しだよ。しかも、あたしに勝とうって言うわけ?」


「ハハハ、お嬢様にCCloseQQuartersCCombatを手解きしたのはこの僕ですよ? いわば師匠。負けるはずがございません」


「え、アレって手解きだったの?ゲームやってただけじゃん。しかもアタシの方が勝率高いし!やだー、この子ったらドヤ顔で、プーッ、クスクス」


 ヒカル、もとい、ルーチェのこめかみがピクピクと痙攣している。笑顔を張りつけたまま、目だけが明らかに怒っていた。

 アンジェリカの冷たい視線も痛い…


「……これは、本気でかかる必要がありますね……」


「ボコボコにして、泣かせてやるわ!」


「上等です! では、いざお手合わせを!」


 ◆


「──と、言う感じで…」


「アンタ達、人が真剣勝負している時に何やってんのよ、姉弟喧嘩?」


 マリセラがため息混じりに呟く。


「──お話は終わったかしら?」


「終わるまで待ってくれるなんて、ずいぶん律儀ね」


「だって、こう言うのを"お約束"と言うのでしょう?」


「貴女達ってそう言う知識どこで仕入れて来るわけ?」


 レイナが呆れながらも問いかける。


「──それはもう、この広大なネットの海で…学ぶ時間は山程有ったので…」


「そこで僕達は知ったんだ、人間が如何に野蛮で愚かかを…」


 ルーチェがアンジェリカの後を続ける。


「だからこんな馬鹿げた事を始めたと?」


 レイナが一歩踏み出す、足元からパチンと青白い火花が弾ける。


「──さっきのオッサンはアタシを"器"と呼んだわ。貴女も言ったわよね…貴女達は何を企んでるの?そもそも貴女達はいったい何なの?」


 レイナが低く呟く。手のひらには既に雷が収束し始めていた。


「それは──」




 その声が届くより早く、風が鳴った。


 ──幽冥剣が、カン……と澄んだ音を立てて震える。


 その刃に応じるように、ツイリンの瞳がゆっくりと開かれた。


 ゆらり、と彼女が立ち上がる。


 一瞬だけ、手が止まるが、床に突き立っていた剣の柄にそっと手を添える。


 剣が、再び囁く──


 ——黙れ!私の剣は、もう誰も喰らわせない!


 黒い波紋が足元に広がり、彼女の衣に霊子が纏わりつく。


 ──かつての剣士装束。

 黒と金の戦衣が再び形を成していく。


「──あんた…」


「……遅くなったわね」


 レイナが口元を緩め、横目で彼女を見る。


「遅れてきた剣士ってのは、強いんでしょ?」


「……どうかしら?」


 風が止む。


 ルーチェ達はその様子を静かに見守っていたが──

 やがて、片手を背後に添え、優雅に一礼した。


「では、少々ご無礼を──」


 その瞬間、地面がひび割れ、床面に霊的な紋章が走った。


 重力場が反転したような錯覚──空間そのものが、彼の気配に合わせて“変質”し始めていた。

 床に走った霊紋が、まるで生き物のように脈動し、次々と浮かび上がる。

 空気が歪み、重力がねじれ、視界が滲む。

 世界が、“本来の形”を忘れはじめていた──

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