8.糸


 程なくしてノックもなしにハルニエが戻ってきた。

 手には盆を持っていて、暖かそうな湯気がたちのぼっている。くぅ、と硯のお腹が小さく嘶く。手際よく準備を始めるハルニエを見ながら、硯は口を開いた。


「ねぇハルニエ。わたくし、目が覚めましたわ」


「ハルニエがいない間に人格が入れ替わったんですか! 誰ですか! 何ですか! フィフリーネお嬢様はどこですか! おーい!」


「お待ちなさいお待ちなさい」


 動揺してガサガサと部屋探しを始めたハルニエのせいで埃が舞い散り始めたので制する。ゴミ箱には絶対に居ないよ。真っ先に探しやがって。


「えっ……じゃあなんなんですか……?」


 怯えた様子のハルニエに硯は答えた。


「わたくし、目が覚めましたの。これからは不遜に生きますわ」


「確かにそう言ったのはハルニエですけど。正直そんな感じに不遜だとは」


「死にかけた人間というのはこういうものですわ」


「そうなんですか? え、そうなんです?」


 死に瀕した人間のサンプルが他にないので比較もできず、ハルニエは困惑したままで食事の配膳を再開した。温かい湯気の燻る野菜のスープにパン。白色の飲み物は牛乳だろうか? 色味や匂いは硯の知ってるそれと相違ない。


「美味しいですわね」


 口に含むとやはり、スープはスープ味で、牛乳色のそれは牛乳と称して遜色ない代物だった。


「ふふん。今日はうまいこといきました」


 一緒に食事をするハルニエが誇らしげに言った。ハルニエが作ったものなのだろう。確かに誇らしくもなるのを頷ける出来栄えだ。

 いつの間にか急に口調の変わった硯にも順応していることを見ると、よく出来た侍女じゃないか。


 スープの中身の具材はどれも見たことがあり、味付けはコンソメに似ている。若干の差異はあれど、それは例えば家庭の味と呼ばれるように、作り手が違えば味が違うのと同じで硯にとって馴染みのないものではなかった。


 異世界と言えども、人間が同じような形を保っているのだから植物や動物も似たような形になって生息するのは最早当然のことなので驚いたりはしない。人参は人参らしく、ジャガイモはジャガイモらしい。硯はとりあえず衣食住に不安がないと得心した。


 食事は無言で続いた。聞きたいことや知りたいことはまだ沢山あったが、本日はもうキャパオーバーである。後は明日にしようと、硯は今日という目まぐるしい一日を締めくくる気持ちで居た。


 食べ終えるとハルニエが食器を下げる。そして部屋を出て行こうとしたところで振り返り、硯に声をかけた。


「ところでフィフリーネお嬢様、明日入学式ですけど行かれます?」


「え?」


「ですから、お嬢様が通うシークルイン学園の入学式です。行かないですよね?」


「入学式?」


「入学式です。行きませんよね?」


「入学式って、あの?」


「あの入学式です。行かないってことでいいですよね?」


「え。行く」


「え、行くんですか!?」


 まさか行くと言い出すと思わなかったのかハルニエが狼狽ている。硯としてもこれ以上の情報はお腹いっぱいだった。が、しかし、学園ともなれば話は別。異世界、魔法、学園。その3単語が揃えば、硯の胸が躍り出さない訳がないのだ。


「制服、どこやったっけ」


 そんな不穏なことを呟きながらハルニエは部屋を出ていった。明日が入学式だと言うのに制服の所在すら不明ということは全くなんの準備も為されていないということ。つまり行くなんて思われてなかったということである。……フィフリーネ、あなたって子は。


 ハルニエは急遽入った仕事に慌てている様子で、部屋の外からは家探しの大きな音が聞こえる。手伝う気のない硯は、ハルニエの消えた扉の方に向かって合掌する。軋む扉の先は、硯にとって未知の世界だ。否応にも明日にはそこに悠然と飛び込むことになる。


 ハルニエのいなくなった部屋で、硯はベッドに倒れ込んだ。


 ここまで状況の読み込めない異世界転生も中々ないのではないだろうか? 神による神託もなければ、精霊や妖精による導きもない。説明らしい説明はハルニエが一息で捲し立てたアレだけだ。


 どれをとっても身に覚えのない異世界である。かろうじて魔法が存在する世界線ではあるようだが、魔力がないと言われてしまってはなす術がないように思えた。しかし、それでも学園というものには心が弾む。特別なことが起こりそうな予感が胸中を占めた。


 妄想の先で妄想をするなど、夢の中で夢を見るようなものだ。魔法は使えず、せっかく開眼した【魔眼】も無意味。そもそも【魔眼】かどうかも怪しい。それでも、異世界に転生したらやりたいことはまだまだ沢山あった。


 (大丈夫、きっと大丈夫だ)


 それは全く根拠のない自信だった。それでも、やりたいことはやってから死んだ方がいいと言う持論が硯を奮い立たせている。


 自らの力を過信することを人は誇大妄想と言う。しかし、それがもし本当に現実を引き寄せてしまったらそれは引力と言っても過言ではない。

 運命を手繰り寄せるアリアドネの糸。

 絶望に落ち縋る一筋の蜘蛛の糸。

 例えその糸の先に何が結ばれていようとも硯は糸を引き寄せることを止めはしない。中二病とは好奇心の代わりに死んでも構わない生き物なのだ。


 繰り返しになるが【琴野辺硯】は中二病であった。

 ならば【フィフリーネ・スーズリ】は中二病だろうか?


 それでは二度目の【開眼】まで、もうしばらくお付き合い頂こう。

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