第三章:3 赦される条件
「昨日はホントごめん!」
「…………………」
生徒玄関に向かう途中、八真の歩く後ろ姿を見つけ、急いで駆け寄り、手を合わせました。
八真はすっかりヘソを曲げ、昨日の晩からLINEで謝っても返信はなく、日が明けても相変わらず、話なぞ聞かないと外方を向いて、まともに取り合ってくれません。
俺はぐっと苛立ちを飲み込んで、ゆっくり切り出しました。
「……それで今日の放課後なんだけど、俺奢るからカフェ行こうよ。カップルがよく行ってるところなんだけど……だめ? 今日じゃないと意味ないんだよ」
「…………………………」
うんともすんとも言わず、暫くかかってこれでも無駄かと断念しかけた時、ふと彼女は俺の瞳を見ました。半目の瞳は、俺に本当に謝意があるのかを量っているようです、そんなの無理です、俺の五年間で積み上げた名道化っぷりの前では素手で熊に挑むようなもの……――。
……だからこそ、七命は特別に感じられるのです。
「なんで今日なんですか」
量る過程の質問のようです、想定通りの質問です、俺に抜かりはありません。俺は自信満々に答えました。
「今日で丁度、出会って三週間だよ」
その瞬間、八真は目を丸くすると、パッと顔を逸らして横髪で顔を隠しました。身長差も相まって彼女の顔色はよく窺えませんでしたが、一瞬吹いた夏風で靡いた髪の間隙から、彼女の頬に朱い花が咲いているのが見えました。
「……そう言えばそうでしたね。なるほど、そうやって好感度稼ぎですか、打算的ですね」
「まさか、本当に行きたいの。俺こう見えてもそう言うの大事にするタイプだから」
「ふふ、本当かなー……まぁ、構いませんよ」
八真は満更でもなく、クスクス歯を見せて揶揄いつつ首肯しました。俺はホッと胸を撫で下ろし、肩の荷が降りました。よかった、これで一安心です。破局は祈り冷めやらぬ尭孝なのですが、俺の不手際でそうなるのは批評に繋がってしまうのでそれだけは避けたかったのです。
「じゃあ放課後、玄関集合ね」
「分かりました」
そう約束を取り付け、俺たちはそれぞれの教室に向かいました。
×××
お互い自転車通いなので、学校から駅まで一緒にペダルを回し地下駐輪場に停め、暫し歩き、カップルが訪れるカフェにやってきました。
「『赤い文庫』……本屋じゃないんですかここ」
八真は看板を見上げて呟きました。
「わかる、最初間違えるよね、でもよくよく見たらカフェって書いてあるんだよねー」
「あホントだ」
「モチーフは図書館なんじゃないかな、本とか沢山あるし、自由に呼んでいいらしいし」
戸を開けて、俺たちは玄関を潜りました。入った瞬間芳醇な珈琲が鼻腔をくすぐりました。
見渡した店内は落ち着いていました。木製のレトロな机やかわいい小物、本棚には表紙が色褪せた本たちが並んでいて不思議の国に踏み入った感覚でした。
他のお客さんもみんな穏やかに見え(不安は拭えませんが)、この神聖な空間作りに一役買っていました。
……とても好きです。実は初めて来店しましたが、とても好ましい侘しさと雑多感に感銘を受けました。修羅の現世に見えた聖域のようでした。
「なんか緊張しますね、分不相応な感じします」
八真が自分の肘を摩って言うと、俺の背後に立ちました。今ではこの煩わしさも緩和されたように感じられ、俺の動揺と困惑と迷惑は俺の心を惑わしませんでした。
俺たちは窓際のカウンター席に隣り合って腰掛け、一息つきました。それから身を捻って店内を再び見回しました。ああ、なんともまぁ心地よい空気。俺は一生ここで眠りたいと思いました。
一体この安心感はなんなのかと思い耽ってみた時、ああなるほどと一つ思い至りました。
……ここは、文学同好会のあの部屋と、そっくりなのです。
×××
「あ、美味しい」
ケーキを一口食べて八真は声を漏らしました。俺も食べて、とりあえず「うん」と同意しました。それから反省した顔と声でまた何回目かも分からない謝罪をします。
「本当にごめんね昨日」
すると、八真はすっかり怒りなんて無くしたのに、俺を揶揄う為にフォークを口に咥えて、ニヤニヤ言いました。
「うーん、どうしましょうかねー。私の心を嬲っておいて一回のカフェ奢りくらいじゃ釣り合いがないと思いませんかー?」
全然。
「許してよー……」
「ふん、冗談ですよ、もう怒ってません」
俺が肩を落とすと、八真の子供が大人を揶揄うような悪戯心は満たされたのか、俺の腕に触れて慰めるように上下に摩りました。
俺は顔を少し上げて上目遣いで八真を覗き見てから、はぁと安堵のため息をついてから吐息混じりに言いました。
「よかった……ありがとう――」
「ただし条件があります」
「はは」
八真は楽しそうに言うので俺は最初冗談かと思いました。しかしその愛想笑いの後、それこそ女の紆余曲折の精神の限りを尽くしてくると思い、若干の慎重さを孕みつつ問いかけました。
「…………え、許してくれるんだよね?」
「この条件次第ですね。……なんですかその顔は、不満があるなら聞きますよ、許してあげませんけど」
怒ってないよと一秒前に言ったのに……、俺の反省を窺い知ってから安全圏からの上から条件を提示して、従わなければ先の和解は破約される……こんなこと、定石です。
「ないよ、それで条件ってなに?」
俺は寛容な精神で言うと、八真はまた楽しそうな顔に戻って、継ぎました。
「えっとね、まず私たちの交際って今噂程度に広まってるじゃん? 私的にそれ嫌なんだよね、なんて言うかさぁ、やっぱり恥ずかしいのかなーって思っちゃうの」
「そんなわけないよ。けど実際付き合ってるってみんなに言うとなると……うーん、結構揶揄いと茶々とか入れられるし、俺はこっそり付き合ってるくらいが良いけどなぁ」
「でもなんかヤなの」
八真はグッと俺ににじり寄ってきて、その童顔を近づけてきました。
彼女の気持ちも理解できますが……。ところで俺は今まで付き合ってきた女の中で、大々的に公表せず破局した人はいましたっけと思い出すと、どうやら一人前の六花、つまり八真の姉一人だけと気が付きました。
さんざ女との交際を否定してましたが、彼女との交際だけは、マシなものだった気がします。
…………まぁそれでも、二度と顔も見たくありませんが。
姉があれなのに、妹ときたら、これほど我儘とは、血というのは迷信なのでしょうか。少しは姉のような謙虚さを受け継いで欲しかったです。
「分かったよ、じゃあみんなに言おっか」
「けどね、私、桜久の言ってることも分かるんだよ。だからこの条件をクリア出来なかったら、みんなには言わなくて良いよ」
「……!」
驚きました、八真が俺のことを慮ってくれるなんて。そうなるとさらにその条件とやらが気になります。
「その条件って?」
俺は同じ質問を繰り返しました。八真を人差し指を立てて言いました。
「来週の運動会で、徒競走で一位になったらみんなに言いましょう。もしそれ以下なら、付き合ってることはこのまま噂程度にしておきましょう。だから桜久にら頑張って一位になってほしいんです」
「――――」
……な、なんともまぁ……利己的な……。
絶句しかけた俺はすぐに取り繕い、笑いました。
「分かった、一位になれば良いんだね」
「うん」
「分かった、
嘘です、やるわけがありません。
結局彼女は、公表するにあたって恥らしい彼氏は嫌なのです。だから唯一の弱点である運動神経を、徒競走で一位という完璧になった状態で、その男の彼女であると、確定させたいのです。見え透いた卑しさに、俺は辟易しました。
「私も協力します! 一緒に頑張りましょう!」
息巻く八真はグッと両の拳を握りしめて言いました。俺も倣って拳を握って、彼女とグータッチしました、とても軽いグータッチでした。
クーラーで冷えた店内、アスファルトを焼く日照り、からりと珈琲の氷が崩れました。
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