第10話 クリスマス

 その日は、二学期の終業式の日だった。

 午前中に学校が終わり、創真は誰とも名残を惜しむことなく学校をあとにする。

 もうひとりで登下校することにはだいぶ慣れた。その道すがら翼を見かけても、意識しない素振りはできるようになったつもりだ。もともと表情が乏しいほうなのでそう難しいことではない。

 あっ——。

 校門を出て信号待ちをしていると、チラチラと雪が舞っていることに気がついた。

 折りたたみ傘は持っているが差すほどでもない。ポケットに手をつっこんだまま鈍色の空を見上げ、舞い落ちてくる雪をぼんやりと眺める。ホワイトクリスマスという言葉がふと頭に浮かんだ。

 そう、今日はクリスマスなのだ。

 いつもイヴまではケーキだのサンタだので日本中が浮かれた空気になるが、当日になるとすこし落ち着く。今日も気のせいか静かで、どことなくあたたかな余韻のようなものも感じていた。

 もっとも創真の心は寒々としたままである。翼とクリスマスケーキを食べるという恒例行事さえ叶わない。自分から離れたのだが、なりゆきでこうなっただけで心から望んだわけではないのだ。

 ふう、と白い溜息が口からこぼれ、同時に信号が青に変わった。

 いつのまにか隣にいた赤い傘を差した女性がすっと歩き出し、つられるように創真も足を踏み出す。そのときふと思い立ち、横断歩道を渡ってすぐのところにある中型書店に寄っていくことにした。

 ダッフルコートの雪をはらってマフラーを外し、暖かい店内に入る。

 学習参考書のコーナーには誰もいなかった。冬休みのあいだに苦手な英語を勉強したくてここに来たのだが、意外と種類がある。すこし立ち読みしただけではどれがいいかわかりそうにない。

 いつも翼に勧められたものを買ってたし——。

 翼が何を基準に判断しているのかはわからないが、何箇所か目にしただけで、これがわかりやすいとか創真に合っているとか勧めてくれたのだ。それが間違っていると感じたことは一度もない。

 軽く溜息をつき、手にしていた参考書を閉じて平台に戻す。

 そのとき隣の平台に並べられた見覚えのある表紙が目にとまった。東條の家に行ったあのときに翼が借りたファンタジー小説だ。苦い記憶がよみがえり、動きを止めたまま思わず眉をひそめたが——。


「ありがとうございましたー」

 財布をスクールバッグにしまうと、女性店員から差し出された萌葱色の手提げポリ袋を受け取ってレジをあとにする。

 買ってしまった——。

 ずっしりとした重みを手に感じながら、何をやってるんだろうとあきれたような気持ちになる。有名な作品なのでもともとタイトルは知っていたが、読もうと思ったことなんて一度もなかったのに。まして原書など自分の英語力では読むことさえ難しいのに。

 深く溜息をつき、無意識に視線を落としながら二つの自動ドアをくぐって外に出る。しかしそのとき、うつむいていたせいで向かいからひとが来ていたことに気付かず、肩がぶつかってよろけてしまった。

「す、すみません」

「……創真?」

 ハッとして顔を上げると、そこには驚いた表情でこちらを見ている翼がいた。

 鼓動がドクンと強く打つ。名前を呼ばれることも、見つめられることも、ずいぶんと久しぶりのように感じた。頭の中がまっしろになり、時間が止まったかのようにただじっと目を見合わせる。

 先に我にかえったのは翼だった。何とも言えない気まずげな面持ちになりながら、斜め下に視線を落とす。そのときほんのわずかに目を見開いたかと思うと、ふっとやわらかく笑う。

「それ、興味があったのか」

「えっ?」

 最初は何のことだかわからなくてきょとんとしたが、翼の視線をたどってギョッとする。そこにあったのは萌葱色の手提げポリ袋で、あろうことか件の表紙がうっすらと透けていたのだ。

「あ、いや、これは……違っ……」

 しどろもどろになりながら、あわてて後ろに隠す。

 そのときすぐ横をすり抜けるようにして男性客が出て行った。邪魔だと言わんばかりに横目で睨みながら。出入り口を半分ふさぐ形で立ち止まっていたのだから致し方ない。

「出よう」

 そう促され、断ることもできず一緒に歩道へ出た。

 外はあいかわらずふわふわとした雪がちらついていた。吐く息もほんのりと白い。むきだしの首筋がひどく寒いが、のんきにマフラーを取り出せるような雰囲気ではない。

「こっちだ」

 なぜか帰路とは反対のほうへ誘導される。

 黙って従うものの、翼がどういうつもりなのかさっぱりわからない。フェンシング対決以降、普通に話をすることさえなくなっていたのに、いまになって何をしようというのだろうか——。

 ほどなくして翼は足を止めた。出入り口から二十メートルほど離れた街路樹の陰になるところだ。同じ高校の生徒に見られたくないのかもしれない。もっともあまり隠れられてはいないけれど。

「すまない。申し訳なかった」

「えっ?」

「告白してくれたときも、フェンシング対決のときも、そのあともずっとひどい態度をとってしまった。意固地になっていたというのもあるが、きちんと向き合うだけの勇気がなかったんだと思う」

 創真は驚き、あわててふるふると首を振った。

「悪いのはオレのほうだ。そもそも全部オレが言い出したことだし……」

 幼なじみからいきなり告白されたら戸惑うのも当然だし、フェンシング対決も翼が望んだことではないし、そのあとも創真が先にひどい態度で拒絶してしまった。どう考えてもこちらに非がある。

 それなのに翼に先に謝らせてしまうなんてあまりに申し訳ない。もう愛想を尽かされたものとばかり思っていたので、ただただ後悔するばかりで、謝罪ということにまで思考が及ばなかったのだ。

「僕は……」

 ひそやかに切り出されたその声で、顔を上げる。

 翼はこころなしか緊張した面持ちで目を伏せていた。それきりなかなか言葉を継ぐことができずにいたが、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと呼吸をして、あらためて仕切り直す。

「僕は、小さいころからずっと綾音ちゃんが好きだったんだ」

「ぁ……ああ……」

 まさか翼から話してくれるとは思いもしなかった。突然のことにどう反応すればいいかわからず、無表情のまま固まる。それを目にして翼は怪訝そうに眉をひそめた。

「もっと驚くかと思っていたんだが」

「なんとなくそんな気がしてたし」

「そんなにわかりやすかったか?」

「いや、オレはいつも一緒にいたから」

「そうか……」

 本当は創真だけでなく綾音本人もとっくに気付いているのだが、勝手に教えるわけにはいかない。若干の後ろめたさを感じて曖昧に目を泳がせていると——。

「僕は、戸籍も体も女だ」

 ふいに公然の秘密が紡がれた。

 ドクリと鼓動が跳ねる。翼自身の口からそれを聞いたのは幼稚園のとき以来である。表情からは少なくない緊張が見てとれるが、それを感じさせないくらい冷静な口ぶりで語っていく。

「だから綾音ちゃんとの将来を望むわけにはいかない。それなら最初から想いは告げないでおこう。幼なじみのままでいよう。そう決めている。綾音ちゃんのためにも自分のためにも」

 やはり、と創真はひそかに納得した。

 翼は一呼吸おいて続ける。

「僕自身の結婚についてはなるべく考えないようにしていた。両親にもどういうつもりなのか聞けなかった。怖かったんだ。後継者に求められる役割のひとつにうすうす気付いていたし」

「役割?」

 そう聞き返すと、翼はうっすらと困ったような笑みを浮かべた。どこか言いづらそうにしながらもごまかさずに答える。

「次の後継者だ」

「あっ」

 言われてみればあたりまえのことだった。

 でも子供がいないなら一族から選ぶとかすればいいのでは、とも思ったが、翼をわざわざ男にしてまで後継者に据えようとしているのだから、西園寺は直系にこだわっているのかもしれない。

 だとすれば確かに翼も結婚して子供をもうける必要がある。しかし、後継者となるために男として生きることを強いられたはずなのに、その役割を果たすときだけ女に戻れというのだろうか。

 それではあまりにも勝手すぎる。翼のことを西園寺のための道具としか見ていないのではないか。そもそも男として生きることを強要した時点でそうなのだが、さらに女としての役割までだなんて——。

「それなのにいきなりおまえに結婚したいとか言われてさ。冷静ではいられなかったよ」

「それは……悪かった……」

 翼はあくまで冗談めかした口調だったが、それでもどう詫びればいいかわからず消え入るように口ごもる。知らなかったとはいえ、心の繊細なところに土足で踏み込んでしまったのだから。

「でも、あれからよく考えてみたんだ」

 うつむいていると、翼がこころなしか緊張したような声でそう切り出した。

「どうせどこかの誰かと結婚しなければならないのなら、創真でいい……創真がいいんじゃないかって。気心も知れているし。両親もそのつもりで勉強に同席させていたような気がする」

「…………」

 結婚? オレと——?

 突然、信じがたいことを言われて理解が追いつかない。現実とは思えない。夢でも見ているのではないかという気持ちだ。呆然としていると、翼はわずかに目を伏せてふっと笑みを浮かべた。

「父も母も創真のことは気に入ってるからな。創真が勉強に来なくなって母はずいぶん残念がっていたし、父にはきちんと話し合ってみろと諭された。本当に創真を失ってもいいのかと何度も言われたよ」

 そう言うと、すっと表情を引きしめて真剣な瞳を創真に向ける。

「僕は、やっぱり創真に隣にいてほしいんだ」

 創真は息をのむ。

 それは創真が何よりも望んでいた言葉だ。結婚の話には今ひとつ現実味を感じられずにいたが、この言葉はすんなりと受け入れられた。じわじわと奥底から熱いものがこみ上げてくる。

「オレ、なんかで……いいのか……?」

「ほかに何人か信頼できる補佐役がほしいとはいまも思っている。だけどいちばん近くにいてほしいのは創真だ。恋愛感情は正直ないが、すべてをさらしてもいいと思える相手はおまえだけなんだ。だから……」

 ガラガラガラ——。

 いつのまにか歩道に横付けされていた黒いバンの扉が、派手な音を立てて開いた。翼は何だろうという顔をして振り向きかけたが、それより早く、バンから目出し帽の男が飛び出してきて何かを首筋に押し当てる。

「うっ……!」

 バチッと音がして翼が膝から崩れ落ちた。

 一瞬の出来事で、創真は何が起こったのかにわかに理解できなかった。けれども翼がぐったりとしたまま横抱きにされたのを見て、ハッと我にかえる。

「翼!!!」

 スクールバッグを放り出し、翼をバンに連れ込む大柄の男を引き戻そうとする。

 しかし、逆に創真のほうが引きずり込まれてしまった。薄汚れたマットに倒れ込むなり首筋に硬いものが押し当てられる。

「うぁっ!」

 バチッと音がして激痛が全身を駆けめぐり、創真の意識は途切れた。

 彼らは何者なのか、目的は何なのか、翼をどうするつもりなのか、何ひとつとしてわからないまま——。

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