10日目③


(12:00〜13:30)


現場に到着した瞬間、焼けたアスファルトの匂いと、張り詰めた空気が肺を満たした。


路地の奥。

乾いたセミの声を突き破って、泣き叫ぶ子どもの声がこだましている。


「いた……!」


真由の声と同時に、私の視線もその一点に釘付けになる。


男がいた。

白いTシャツは汗で背中に張りつき、右手には包丁。


その刃先が陽にきらりと光った。

向かいには、小さな子ども。

五歳くらいだろうか、しゃがみこんで震えている。


その間、わずか三メートル。


「包丁を捨ててください!」


真由の声が、緊張に揺れながらも鋭く響く。


けれど——


男はまるで聞いていなかった。

いや、聞こえていないのかもしれない。

目は血走り、荒い呼吸に肩を上下させながら、ただ子どもを睨みつけている。


「やめて……やめろって言ってんだよぉぉ!!」


喉が裂けるような怒声。

子どもがびくりと肩を跳ねさせ、泣き声が一層大きくなる。


(このままじゃ——)


息を飲む。

その瞬間だった。


男が、動いた。


包丁を握りしめたまま、子どもに向かって、わずかに体重を乗せた。


——次の瞬間、私は真由の腕を振りほどいていた。


「理彩ちゃんっ!?」


声が聞こえた。

けれど、それに返す暇なんてなかった。


頭で考えるよりも早く、身体が勝手に動いていた。


革靴の底がアスファルトを蹴る音。

風を裂くように、全身を前へ。


目の前で、子どもがすくんでいた。

もう一歩で、届く距離。


——間に合って。


私は叫びながら、腕を広げてその小さな身体を抱きかかえた。


「だいじょうぶ、こっち来て!」


その瞬間。


ズン、と左腕に衝撃が走った。


視界の端で、男の包丁が振り下ろされたのが見えた。

避けきれなかった。

いや、最初から避けるつもりなんてなかった。


「っ……!!」


肉が裂けるような、焼けつくような痛み。

全身が痺れる。


だけど私は、子どもを抱いたまま、倒れ込むように地面に転がった。


——この子だけは、絶対に。


震える腕に力を込めて、背中で包み込むように庇う。

幼い体温が、胸の奥にじんわりと広がる。


背中越しに、男の怒鳴り声が聞こえた。

けれど、その声に戸惑いが混じっていた。まさか女に包丁を向けたなんて、自分でも理解が追いついていないのだろう。


その隙を、見逃す真由じゃない。


「やめなさいっ!」


怒声とともに、真由が突っ込んだ。

男が一瞬よろめき、がっちりと組み伏せられる。


「動かないで! 包丁を捨てて!!」


制服の上に、どっと汗がにじむ音が聞こえるほどの緊迫。


周囲の通行人がざわめき出す。


「今、警察の人……」


「えっ、血……?」


「女の人が……!」


誰かが叫んだ声が、遠くで反響する。


私はまだ、子どもを抱きしめたまま、地面にうずくまっていた。

腕が、熱い。


まるで火でもつけられたように、じわじわと痛みが広がっていく。


制服の左袖が、ずるりと濡れていた。

真っ青だった布地が、じわじわと赤に染まっていく。


(——ああ、そっか)


目の前に、子どもの泣き顔があった。

腕の中にいる、小さな命。

鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死に私にしがみついている。


「こわかったね……でも、もう……大丈夫だよ……」


声が震える。

けれど、不思議と、怖くはなかった。


むしろ、あたたかい。


鼓動のひとつひとつが、胸の内側から「生きている」と告げている。


(私は……ちゃんと、守れた)


あのとき、頭で考えるよりも先に身体が動いた。

それはたぶん、「意志」よりももっと深いところにあるなにか——


私の中の、本能のような衝動だった。


「大丈夫……もう、あなたは……大丈夫だから……」


ほっとしたのか、涙がつうっとこぼれた。


傷の痛みが増してくる。

意識が、霞んでいく。


でも、怖くない。


(ああ、よかった)


誰かを守るために、私はこの身体で立っている。


この腕で、命を抱きしめている。


(これが、私の——)


「理彩ちゃんっ!! 救急呼んだから、しっかりして!!」


真由の声が、かすかに届く。


視界の隅で、夕空が見えた。

茜に染まり始めた空が、私の血の色と重なって、まるで——


命の証みたいだった。


私は、笑った気がする。


「……ねえ、真由……」


「なに!? 聞こえる!? 理彩ちゃん!!」


「……守れたよ……私……ちゃんと、守れたんだ……」


その言葉を最後に、世界がふっと暗くなる。


音が消え、風が止まり、時間がゆっくりと遠のいていく。


それでも、私の中には、確かなものが残っていた。


この命が、この身体が、この“私”が——


“誰かを守るためにある”と、そう、心の底から感じていた。


——私は、私で、在り続ける。


たとえ、この先すべてを失っても。


この「想い」だけは、決して、消えない。

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