5日目④


(20:00〜24:00)


父の運転する車の助手席に座り、私は後部座席の母とゆっくり話をしながら、駅へ向かっていた。


窓の外には、夏の夜が少しずつ色濃く沈んでいく。

街灯がぽつぽつと灯り、オレンジ色の光がアスファルトに細く揺れている。


「今日はゆっくりできたか?」


運転席の父が、信号で止まりながらふと私の方を見た。


「うん。……なんか、いろいろ思い出したっていうか……思い出せたっていうか……」


「ふふ、それだけ家の居心地がよかったってことね」


母の笑い声が、車内にやわらかく響いた。


私はそっとスカートの裾を撫でた。

黒いレースの感触が、指先に繊細に絡みついてくる。


理史だった頃なら、こんな布の感触に気を留めることなんて、きっとなかった。


——でも、今はちゃんと、ここに触れてる。


「理彩、また時間できたらいつでも帰っておいでね。夏はまだこれからなんだから」


「……うん、ありがとう」


駅のロータリーに車が滑り込み、私はシートベルトを外した。

トートバッグを肩にかけ、両親に手を振る。


「じゃあね、気をつけて帰るのよ!」


「夜は涼しくなるから、冷やさないようにな」


ふたりの声を背に、私は改札へ向かって歩き出した。



電車のシートに腰を下ろすと、ふうっと小さく息を吐いた。


車窓の向こうに流れていく夜景は、ぼんやりとにじんで見える。

駅のホームの照明が、車内のガラスに反射して、まるで私の顔がそこに二重写しで浮かんでいるようだった。


(……私は、誰だったんだろう?)


自然に、そんな問いが胸の奥から湧いてきた。


理史としての記憶は、まだ私の中にある。


だけど、それはまるで、ひと夏の夢を見た後のような……

ぼやけた光景になりつつある。


でも、それが「消えた」わけじゃない。


(ちゃんと……残ってる)


たとえば、駅のホームの匂いとか、車両の揺れ方とか、あの頃の「体」が感じていたものが、今の私の中にも残ってる。

風の肌ざわりや、夏の湿気の質感、昔よく歩いた道のアスファルトの照り返し——


全部、理史としての「感覚」として、ちゃんと私の中にある。


名前も、見た目も、記録さえ変わってしまったけれど。


それでも、記憶が教えてくれるのは、「どちらかを捨てる必要はない」ということだった。


(私は、理史でも、理彩でもある。どっちかじゃなくて……どっちも、私だ)


電車が揺れた拍子に、スマホがスカートの上でカタリと鳴った。


ロックを解除して、写真フォルダを開く。


そこには、理彩として撮られた写真がいくつもあった。

制服姿で真由と並んでピースしている写真。

桜の下で交番の仲間たちと撮った集合写真。

こっそり自撮りしたであろう、ポニーテールの後ろ姿。


どれも、他人事みたいに感じていたはずなのに——

今は、なぜだか懐かしくて、胸の奥があたたかくなった。


(これが、私の「現実」なんだ)


ホームに降り立つと、夜風がふわりと髪を揺らした。


一人暮らしのアパートまでの道は、少しひんやりとしていて、日中の暑さが嘘みたいだった。

歩くたび、スカートの裾がふわりふわりと揺れて、サンダルの足音が静かに響く。



「ただいま……」


鍵を回してドアを開けると、ひとりの空間が迎えてくれる。


部屋は少し蒸していて、エアコンのスイッチを入れた。

いつものルーティンのように、バッグをソファの横に置いて、服を畳み、シャワーの準備をする。


湯気が立ち込めるバスルーム。


鏡の前に立つと、オフホワイトのカットソーを脱ぎ、レースのスカートをすべるように落とした。


肌に汗が張りつく感覚。

柔らかくふくらんだ胸元、丸みを帯びた腰まわり、鏡に映る「女性」の身体。


——見慣れてきた身体が今日はなぜか、やさしく見えた。


湯を浴びながら、私は静かに目を閉じる。


水音の中に、両親の声や、実家の匂いがよみがえる。

あの夕食の時間の、ささやかな幸福感。

それは理彩としての時間だけど、どこか理史の記憶にも重なっていた。


(どっちも、私の一部なんだ……)


スキンケアを終え、タオル地のパジャマに身を包み、髪をドライヤーで乾かしながら窓を開ける。

風がカーテンをそっと揺らし、夜の匂いが部屋に流れ込んできた。



ベッドに横たわり、柔らかな布団に身体を沈めると、少しずつ意識が遠のいていく。


けれど——


目を閉じるその直前、私は自分に問いかけた。


(「真実の自分」って、どこにあるんだろう)


理史としての記憶が薄れていっても、心の奥にはまだ、確かに何かが残っている。


それは、誰かを守りたかった気持ちかもしれないし、正義を信じて立ち続けたあの日々かもしれない。


それこそが、自分の「核」なのだと、どこかで感じていた。


(……明日も、頑張ろう)


そう心の中でつぶやいて、私は静かにまぶたを閉じた。


闇の向こうに、小さな光が見えた気がした。

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