5日目②


(14:30〜16:30)


実家の門をくぐった瞬間、胸の奥がふっと揺れた。


懐かしい……でも、それだけじゃない。

ここは、間違いなく「私の家」なのに、どこか遠くの景色のようにも思える。


オフホワイトのカットソーにそっと汗を吸わせながら、私はインターホンのボタンに指をかけた。


——ピンポーン。


乾いたチャイムの音が、夏の空気を割って響いた。


数秒後、カチャッと玄関の鍵が回る音。

その音を聞いた瞬間、胸の鼓動がひときわ高鳴った。


そして、ドアが開く。


「……あら?」


現れたのは、母だった。

髪をゆるくまとめて、エプロン姿のまま、少しだけ目を見開く。


「理彩? びっくりした……今日って帰るって言ってたっけ?」


「ううん、言ってなかった。急に、帰りたくなっちゃって……」


私がそう答えると、母は一拍おいて、ふっと笑った。


「そっか。なら、なおさら嬉しいわ。……おかえり」


その言葉が、風鈴の音みたいに胸にしみた。


私は、ただ「うん、ただいま」とうなずいた。

それ以上、何も言えなかった。


だって、それはあまりにも自然で、まるで疑いようもない「母の言葉」だったから。


家の中へと続く廊下。

あの頃と、何一つ変わっていない。


ほんのりと漂う、洗剤と木の混ざった匂い。

スリッパの足裏から伝わる、廊下のわずかな軋み。

季節ごとの模様替えで変わっていたはずの玄関マットさえも、記憶の中と同じ柄だった。


「父さん、理彩が帰ってきたわよー」


母の声に応えるように、居間の奥から新聞をめくる音が聞こえた。


「おー、理彩か。おかえり」


新聞の向こうからのんびりとした声。

その調子も、私の知っている「父の声」そのままだ。


居間に入ると、父はソファにどっかりと腰を下ろし、麦茶を片手に私を見た。


「今日、非番か?」


「うん、夜勤明けで……お昼まで寝てたんだけど、なんか、こっち来たくなっちゃって」


そう言うと、父は目を細めて笑った。


「そうかそうか、たまには顔見せてくれないとな。母さんも喜ぶからな」


「もー、いつも私だけが喜んでるみたいに言わないでよ」


母が苦笑しながらキッチンの方へ戻っていく音が、何だか心地よかった。


その空気が、あまりにも穏やかで、あまりにも自然で——

逆に、私の方が「異物」になってしまったような気がして、息が詰まりそうになる。


私は、本当に「ここにいた」のだろうか。

この二人の「娘」として、当たり前にこの家で暮らしていたのだろうか。


だけど、会話の端々からにじむ空気には、どこにも違和感がない。

むしろ、私の中に残る「理史」としての記憶の方が、この空間にそぐわない気がしてきた。


(……私、ずっとここで「娘」だったんだ……)


居間の窓から差し込む午後の日差しが、レースのカーテン越しにゆらゆらと踊っている。


その揺らぎを見ていたら、なぜだか急に、涙が出そうになった。



「部屋、変わってないから。荷物そのままだし、ゆっくりしてきなさい」


母がそう言ってくれたのを受けて、私は二階の自室へ向かった。


階段の手すり、二段目のちょっとギシギシ鳴るところ、廊下の窓から見える近所の庭——

すべてが知っている景色なのに、初めて訪れるような緊張感が指先にまとわりつく。


そっとドアを開けた。


空気が、ふわりと動いた。


淡いベージュのカーテン。

ホワイトの木製ベッド。

壁にかかった小さな時計が、カチ、カチと規則的に音を刻んでいる。


本棚には少女小説や文房具が整然と並び、机の上にはリボン付きの小物入れ。

クローゼットを開けると、ハンガーには夏用のワンピースやブラウスが並び、その奥に——


紺色のセーラー服が、静かにかかっていた。


それは、明らかに「私のもの」だった。


だけど、私は……

それを着た記憶が、ない。


(これは……私の……?)


胸の奥がざわつく。

けれど、その制服を見つめるうちに、なぜかほんの少しだけ「懐かしさ」さえ込み上げてきた。


香水のような淡い記憶の香りが、じんわりと心に染みてくる。


ベッドに腰掛けると、マットレスがゆっくり沈み、身体を受け止めてくれた。


(落ち着く……)


そう思った瞬間、背筋がぞわりとした。


(どうして……落ち着いてるの?)


ここは、初めて訪れたはずの部屋だ。

生まれてから一度も住んだことのないはずの「女の子の部屋」だ。


それなのに、クッションの触り心地も、ベッドの硬さも、窓からの風の抜け方も——

すべてが、どこか懐かしい。


私は、ベッドに横たわり、天井を見つめた。


指先で、スカートのレースをなぞる。

その細やかな手触りが、なぜか「私らしさ」のように思えてきた。


(私は、本当に……「理彩」だったのかもしれない)


そんな考えがよぎるたび、心の奥の「理史」が、少しずつ遠ざかっていく気がする。


まるで、海に沈んでいく記憶のかけらのように。


——ねぇ、私は誰?


誰が答えてくれるわけでもない問いが、そっと、部屋の空気に溶けていった。

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