4日目②
(15:30〜20:00)
メイクポーチのファスナーを閉じたとき、窓の外には橙色の光が差し込んでいた。
夏の夕暮れ。
セミの声が高く、重く、空気を振るわせている。
鏡の中にいる私は、昼間とは違う服を身につけていた。
柔らかなベージュのブラウスに、紺色のタイトスカート。
ボタンを一つ外して鎖骨を見せた首元には、シンプルなネックレス。
控えめにまとめたアイシャドウと、優しく色づいたチーク。
そして、ツヤのあるローズピンクのリップを乗せると、どこか「理史」の面影が遠ざかっていく気がした。
なのに、不思議と、それを拒む気持ちはなかった。
(ちゃんと似合ってる……)
そう思った自分に、一瞬だけぞっとした。
でも、目をそらさなかった。
もう、そらせなかった。
家を出ると、ムワッとした熱気がまとわりついてくる。
陽は傾きかけているのに、アスファルトが昼の名残を抱いていて、ヒールの足元にじんわりと熱を伝えてくる。
駅前の通りは、帰宅ラッシュと買い物客で混雑していた。
サラリーマン、買い物袋を下げた主婦、部活帰りの学生たち。
その人波をすり抜けながら歩く私は、まるで何事もない「日常」の一部だった。
(……本当に、違和感を持たれないんだな)
ふと、そんな考えがよぎる。
この見た目のせいか、それとも振る舞いか。
誰も、私の中に「男」を見ていない。
駅前の交差点を渡り、警察署の建物が見えてくる。
冷房の効いた建物に入ると、途端に汗が引いていく。
「お、理彩ちゃん、今日当直かー? 頑張ってねー!」
すれ違った巡査部長が、気さくに声をかけてくれる。
制服の袖をまくった彼の顔は、まるで妹を見るような優しさに満ちていた。
「はい!ありがとうございます!」
自然に笑って、返す。
その笑顔も、もう「作り物」じゃない気がした。
ロッカールームで女性用制服に着替え、髪を整え、身だしなみを確認。
鏡の中の警察官が、確かに「私」だと、今はそう思えた。
交番に到着すると、先に勤務していた女性警察官の先輩・三浦さんが、書類をまとめていた。
「山城さん、よろしくね。……ほんと、頼りになるから助かるわ」
「いえ、そんな……私も、まだまだですから」
照れ笑いでごまかすけれど、胸の奥がちくりと痛んだ。
(——理史としての努力は、どこへ行ったんだろう)
苦労して取った階級。
夜勤も、事件対応も、人一倍真面目に取り組んできた。
あの努力は、誰にも見えない。
誰も、覚えていない。
理彩としての私は、まるで「初めから優秀な警察官」だったかのように扱われている。
(でも……それって、悪いことなの?)
ぐらつく足元。
だけど、否定しきれないのは、この世界で、確かに「私」は必要とされているという感覚だった。
夕方の交番内は、比較的静かだった。
日報の整理をしながら、夜間巡回のルートを確認する。
バインダーの間に挟まれていた、古い日誌がふと目に留まった。
『勤務日誌:山城理彩』
引き寄せる指先が震えていた。
ページをめくるたびに、見慣れた私の字で綴られた言葉たちが現れる。
「今日も駅前で迷子を保護。名前も話せない子だったけど、しゃがんで目線を合わせたら、安心して手を握ってくれた。」
「怖がる人に、威圧じゃなく寄り添う強さを持ちたい。」
「私は、弱い人の味方でありたい。」
……読んだ瞬間、手が止まった。
その言葉は、あまりにも「私」だった。
いや——
私が、そうありたいと願ってきた「山城理史」の姿そのものだった。
日誌を抱えたまま、しばらく動けなかった。
(もしかして……理彩は、私と、同じ想いでこの制服を着ていたのか)
その想いが、この胸の中で確かに共鳴している。
性別も、記憶も超えて、誰かを守りたいという純粋な願い。
それだけは、同じだったんだ。
その瞬間、私は少しだけ——
自分が「理彩」であることを、肯定できた気がした。
窓の外では、もう夜の気配が始まっていた。
橙から群青へ。
空の色が静かに変わっていく。
制服の胸に手を当てる。
今日も、この胸の奥には、確かな鼓動がある。
それが、理史のものか、理彩のものか——
もう、そんなことはどうでもいい気がしていた。
私は、警察官だ。
それだけは、誰がなんと言おうと「私」の本質なのだと、信じられる気がした。
——当直の夜は、まだ始まったばかりだ。
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