2日目①


(5:00〜7:00頃)


耳の奥を、ジジジ……と蝉の声が這うように通り抜けた。


……朝だ。


ゆっくりと瞼を開くと、カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光が、天井の白を淡く染めていた。

茜とも橙とも言えない柔らかな色が、じんわりと部屋の空気を温めていく。


寝返りを打とうとして——

私は、自分の胸の膨らみに腕が当たるのを感じて、動きを止めた。


……夢じゃ、なかった。


心のどこかで、ほんの少しだけ期待していたのだ。

目が覚めたら、すべて元通りになっていて、鏡の中に理史の顔が戻ってきていて、「やれやれ、妙な夢を見たな」なんて苦笑いできる——


そんな奇跡を。



でも、そんな奇跡は起きなかった。


私はまだ、“山城理彩”のままだった。


布団の中で、静かに深呼吸をする。

けれど、肺に入ってくる空気の感触すら、どこか違って感じる。

胸郭の形が変わったせいなのか、それとも、ただの気のせいか。


——逃げたい。


心の底から、そう思った。

昨日は非番だったから、家に引きこもっていられた。

でも、今日は違う。


今日は日勤。

交番へ行かなくちゃならない。


「女の姿」で、制服を着て、「他人の中」で仕事をする。


息が詰まりそうだった。

胃のあたりがぎゅう、と締め付けられる。


けれど、職務を放棄するわけにはいかない。

私は警察官で、そんな理由で職場をサボれるはずもなくて——


だから、私はベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。


床に触れる足の感触が、昨日よりも現実味を帯びていた。


視界が低い。

肩幅が狭い。

脚が細い。

全部、女の身体だ。


私は、洗面台の前に立ち、鏡を見た。


そこには、昨日と同じ女の顔が映っていた。

長い睫毛。

形のいい唇。

どこか理史の面影を残しながらも、はっきりと「女」だと分かる顔。


私はその顔を、ぼんやりと眺めたまま、しばらく動けずにいた。


「……ふぅ」


ようやく吐き出したため息は、やけに細く高く、まるで他人のものみたいだった。


覚悟を決めて、脱衣所へ向かう。

昨日も使った、見慣れたはずのクローゼットの引き出しを開けると、整然と畳まれた下着たちが顔を覗かせた。


私はその中から、淡いピンクのブラとショーツを取り出す。


「……また、これか」


昨日よりは、少しはマシに手を動かせる。

けれど、やっぱりどこかぎこちない。


ブラのホックを背中で止めるのに苦戦して、つい「くそっ……」と呟いてしまった。

理史だったころ、こんなことで苛立つことはなかったのに。


鏡に映る姿は、ブラをつけただけで妙に「女らしく」なっていた。

胸の谷間が強調されて、目のやり場に困る。


それでも、私は逃げなかった。

今日をサボるわけにはいかない。


昨日の夜、あんなにも泣いたくせに——

私は、今日も「この身体」で、前に進もうとしている。


髪を整える。

肩にかからない黒髪を軽く濡らし、寝癖を直す。

ドライヤーの風が顔にあたり、睫毛がぱたぱたと揺れた。


メイクも、まだ慣れない。

でも、洗面台の引き出しにあったアイテムたちは、まるで私が「いつも通り」に使っていたかのようにそこにある。


ファンデーションを肌に伸ばす。

コンシーラーでクマを隠す。

チークで頬に血色を足して、リップを軽くひと塗り。


——この工程ひとつひとつが、私にとっては初めてで。

でも、手の動きだけは、どこか自然だった。


「……なんで、こんなにうまくできるんだよ……」


呟きながら、私は自分の指を見つめた。


最後に、服を選ぶ。

昨日も見たクローゼットの中から、無難そうなシャツとスラックスを手に取る。

女性らしいシルエットではあるけど、派手すぎず、職場にも着ていける範囲だろう。


着替えを終えると、身体のラインが明らかに強調される。

特に胸。

……スラックスのウエストも、腰のカーブにぴたりと沿っている。


それでも、私は鏡に向かって小さく息を吸い、呟いた。


「行くしか……ないよな」


外は、すでに蝉の声が激しさを増していた。

夏の朝の熱気が、窓越しにじわりと肌を刺す。


私は玄関に立ち、鍵を手に取った。

ドアのノブに指をかけたその瞬間——

足がすくんだ。


けれど、それでも。


私は、右足を一歩、外へ踏み出した。


——この現実を、生きるしかないのなら。


「女としての人生」を、一日目から始めるしかないのなら。


「山城理彩」として。


覚悟なんて、まだ足りない。


でも、それでも私は——

歩き出した。


背中に朝陽が差し込む中、私はゆっくりと歩き出す。

街は、もう動き始めていた。


私の知らない「理彩の日常」の中へ、今日という日が静かに沈んでいくようだった。

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