第2話 ささやきの庭

朝六時三十分、新宿駅西口。

通勤ラッシュを前にして、空気はまだ冷たく、街のざわめきもどこか遠い。瑞月がコンビニのコーヒーを啜りながらロータリーに立っていると、見覚えのないコンパクトSUVが勢いよく滑り込んできた。


「おはようございます、瑞月さん!乗ってくださいよ、出発っすよ!」


降りてきたのは板垣聡太。明誠社の後輩記者で、オカルトと心霊スポットをこよなく愛する変わり者だ。

彼の提案した“東北・神隠し伝説取材ツアー”なる企画は、数ヶ月前に編集長から「くだらねえ」と一蹴されたものだった。それがなぜか、穴埋め記事の候補として今になって採用された。


「……何、その車。レンタカー?」


「いや、俺のっす! スズキのフロンクス!カッコいいでしょ。今年買いました。高速も楽勝っすよ」


鼻息荒く自慢する板垣に瑞月は無言のまま助手席に乗り込む。眠気と倦怠感が混じる朝の空気に、彼のテンションだけが浮いていた。


車は首都高を経由し、東北自動車道を北へ。

エンジン音と音楽が交互に流れる中、板垣の話し声は止まらない。


「でね、今回の取材地なんすけど――宮城県北部に、昔から“神隠しの森”って呼ばれてる場所があるんですよ。戦後から今までに十人以上行方不明になってるって噂で――」


「うるさい。黙ってて」


瑞月の低い一言に、板垣はハンドルを握ったまま肩をすくめた。


「はい……すみません」


彼の声を聞き流しながら、瑞月は眠りに落ちていった。



 どこかで見た景色だった。

 鬱蒼と茂る草花、苔むした飛び石、風に揺れる木漏れ日――それは、幼い頃に遊んだ“あの庭”だった。


「千波……?」


 声に出すと、庭の奥から誰かの気配がする。

 紫の花が咲き乱れる草むらをかき分けながら、瑞月は少女の名を何度も呼んだ。


 そこに立っていたのは――


ハッと目を覚ますと、車窓の外には見覚えのある風景が広がっていた。

すでに仙台を過ぎていた。大崎市の街並みが遠ざかっていく。瑞月の地元。だからこそ、見覚えがあるのも当然だった。


「もうすぐ長者原SAっす。メシ、食ってきましょー」


板垣が、どこか嬉しそうに声をかけてきた。



レストランの窓際席から、遠くに観覧車が見えた。

それは化女沼にある、かつての遊園地――今は廃墟となった“レジャーランド”の名残だった。


「見えます?あれが化女沼っす。昔あそこに遊園地があって――“観覧車だけが今も動く”とか、“夜になると子供の声が聞こえる”とか……心霊マニアの間では超有名なスポットなんすよ!」


厚切り牛タン定食に夢中な板垣が、得意げに語る。


「……そんなの、作り話だよ」


瑞月は山菜そばの湯気を見つめながら、淡々と答える。


「えっ、瑞月さん、マジっすか。ちょっとは信じても――」


「観覧車が動いてるのは、たぶん風。声がするってのも、民家かラジオの音でしょ」


にべもない返答に、板垣は箸を止めた。だがすぐに牛タンを口に放り込む。


「……うまっ。いや、牛タンは信じて正解だった……」


瑞月は小さく笑った。それを見て、板垣は「お、笑いました?」とからかうように言ったが、彼女は答えず、窓の外に視線を戻した。


観覧車の向こうに見えるのは、灰色の空と、どこまでも広がる山並み。

遠ざかる記憶と、まだ見ぬ真実が、風に揺れていた。


長者原サービスエリアを出た車は、東北道を少しだけ北上し、やがて築館インターで下道に降りた。ここからは、瑞月にとって見慣れた風景が続く。けれどそれは、決して懐かしいとは言えない記憶の堆積だった。


「いや~、いよいよ来ましたね……聖地・栗原!」


ハンドルを握る板垣が、謎の感慨深げな声をあげる。


「……聖地って何のよ」


「いやいや、僕のボツ企画“神隠しは東北に眠る”の核心が、ついにこの土地に……!」


「くだらないって編集長が言ってたじゃん、そのタイトル」


「ひどいっすね。夢を持ってる若者の心をズタズタにするようなこと、よく言えるなぁ……」


「心、ズタズタになるようなタイプに見えないけど」


「なってますって! もう、ぺしゃんこですよ!」


どこまでも軽い板垣のテンションに、瑞月は呆れたようにため息をついた。


「この先、しばらくは山道っすか?」


ハンドルを握る板垣が、ナビをちらりと見て言う。


「うん……。栗原の市街地までは出ないで、山沿いの道を抜けるはず」


「マジか。ちょっとした冒険だな……へへ」


助手席の窓の外には、水田と山影が交互に現れる。地形に沿って緩やかにうねる道を抜けるたび、瑞月は小さく息を吐いた。


子どものころ通ったはずの道――だけど、もう正確な記憶は曖昧だった。昔住んでいた家も、通っていた小学校も、この道の先にあるはずなのに、風景は妙によそよそしい。


「瑞月さんの地元、めっちゃのどかっすね。信号少なっ!」


板垣があまりにも無邪気に言うので、瑞月は少しだけ口元を緩めた。


「……まあ、東京とは違うよね」


「俺、こんな山に囲まれてる町、来たの初めてかもしんないっす。ちょっとテンション上がるな~。秘境って感じで」


「……秘境って」


苦笑して、瑞月は窓の外に目を戻す。


道の両脇に、野焼きの済んだ田畑と、古びた納屋が点在する。雑木林の中に、赤錆びた看板が半分崩れかけて突き刺さっていた。何かの観光案内だったのかもしれないが、もう文字も読めない。


やがて道が少しだけ登りに入り、林の向こうにぽつりぽつりと家屋が増え始めた。


瑞月は、思わず窓の外に目を凝らした。


見覚えのある、くすんだ青い瓦屋根。軒下の丸太の束。風除室のついた玄関。遠くの景色に、ふいに記憶が色を取り戻す。


(……ここだ)


心の奥にしまい込んだままだった名前のない感情が、ゆっくりと背筋を這い上がってくる。


「着いた?」


板垣が尋ねる。


瑞月はうなずいた。


「うん。……私が小学校卒業までいた、町」


車は、かつての“日常”に、そっと踏み込んでいた。



曲がりくねった坂道の先に、小さな神社の鳥居が見えていた。古びた石段には、落ち葉が折り重なっている。

名前も知られていない社…木々に覆われ、苔むした石灯籠と、朽ちた狛犬がひっそりと鎮座していた。


瑞月は神社の鳥居の前で足を止め、草に覆われた石段を見つめていた。石段の先に何があるのかは知っている。子どものころ、父と一緒にこの神社を訪れたことがある。けれど当時の記憶はぼんやりとしていて、階段を登った先に何があったのか、どうしても思い出せない。


「ここ、昔“神隠しがあった場所”って言われてるんですよ。……って言っても、僕もネットの掲示板でしか見たことないんですけどね」


板垣がバッグからカメラを取り出しながら得意げに語る。


「たしか、昭和五十年代に子どもが一人いなくなって、数日後に境内で見つかったって話。記憶も喪失してて、“知らない女の人と森で遊んでた”って言ったらしいです」


「ふーん……よくある話じゃん」


「まあね……でも神隠しって、どこかに消えるんじゃなくて、“戻ってくる”のが肝なんですよね。で、ちょっと変わって帰ってくる。だからこそ怖い」


板垣がシャッターを切りながら語る。瑞月は返事をしない。かわりに、境内の奥を見つめるその目は、遠い記憶の断片を探るようだった。


午後の陽が傾きはじめた山の中、二人はしばらく神社を撮影したあと、小さな集落や道沿いの祠を回りながら、簡単な取材を続けた。人影は少なく、出会った地元の高齢者に話を聞いても、「昔はあっちの山で狐に化かされた」といった曖昧な話が出るばかりだった。


けれど瑞月は、それでも構わないと思っていた。


物語の核心に迫るために、必要なものはまだ地表には出てきていない。けれど、確かに“におい”だけはある。どこか不穏な気配。

都市伝説や民間伝承などはそういうものだ。




その夜、二人が泊まったのは、栗駒山のふもとにある温泉旅館だった。山あいの宿らしい木造の二階建て。昭和の面影を残しつつも手入れが行き届いており、落ち着いた雰囲気が漂っていた。


二人とも別々の部屋が用意されており、夕食は板垣の部屋で軽く打ち合わせを兼ねながら取ることにしていた。


「……うまかったですね、あの鮎の塩焼き。炭の香りが絶妙というか。あと、だまこって初めて食べましたよ。きりたんぽとはまた違う感じで」


湯上がりの浴衣姿で、板垣が缶ビールを開けながら喋る。瑞月はノートPCを閉じ、手帳に走り書きをしていたペンを置く。


「だまこは秋田だけど……まあ、こっちの人も食べるね」


「なんか、東北って素朴で良いっすね。空気もうまいし」


板垣が伸びをしながら言ったところで、瑞月が口を開く。


「明日の取材だけど、板垣に任せるわ」


「えっ?任せるって…瑞月さんは?」


少しの沈黙の後、瑞月はポツリと言った。


「…実家寄ってくるよ」


板垣は珍しく神妙な顔つきになり、缶を置いた。


「わかりました。今日まとめたリスト、明日の朝もう一回見直してから動きます」


「よろしく」


短くそう返して、瑞月は立ち上がった。


「じゃあ、また明日。何かあったらLINEして」


板垣も腰を上げ、ドアまで見送る。


「了解っす。……実家、行くんですね。気をつけてください」


瑞月は一瞬、歩みを止めた。振り返ることはなかったが、その声の真意に気づいていたのかもしれない。


「うん。じゃあ、おやすみ」


部屋を出たあと、瑞月は廊下を渡って自室へ戻った。窓の向こう、黒く沈む山々。その手前にぽつりぽつりと灯る町の明かりが、まるで遠い記憶の残火のように瞬いていた。


部屋に戻り、布団に寝転びながらスマートフォンを開く。


”あの庭”正直、はっきりと覚えているわけではない。千波からの久しぶりのメールに、嬉しさのあまり思わず”覚えてるよ”と返してしまった。

元気にしてるのか、今はどんなことしてるか、近況の写真送って欲しい…返信メールは普段の自分からはびっくりする程長文だった。

だが、千波からの返信には近況報告も写真も無かった。




From: Chinami

件名: Re: あの庭のこと


お姉ちゃんへ


メールありがとう。やっぱり覚えてたんだね、あの庭。

私も、時々夢に見るの。

紫の花が揺れてて、風の音だけがしてて。


この前の夜も、夢に出てきたの。

私はそこにいて、でも誰かに呼ばれてた。

ずっと、遠くから。


明日、なにかが動き出す気がする。

お姉ちゃん、気をつけて。


千波より





次回▶ 第三話「ノイズの中の真実」


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