乾いた粘土にキスをして

木村希

黒影と白線

 夏真っ盛りの七月の午後は、強烈な光に包まれていた。

 東京郊外にある私立の芸術大学、七星芸大のキャンパス内の展示スペースでは学期終わりの展示会が開かれ、学生たちが授業で取り組んだ数々の作品が壁一面に並べられていた。

 絵画科に所属する二年生の佐藤直樹は自分の作品の前に立ち、丁寧に染めた茶色の短髪をワックスで細かに所々をとがらせながら、訪れる人々の反応を観察していた。

 身長165センチ——男性としてはやや低めの彼は、人混みの中ではやや埋もれがちだったが、その繊細な雰囲気のある風景画は多くの目を引いていた。

 しかし直樹自身は、自分の作品に満足していなかった。古典的風景画への憧れと、現代の写実主義を融合させようとした意欲作のはずだった。

 技術的には成功していると自負していたが、何か本質的なものが欠けている——その感覚が彼につきまとっていた。


「これ、君が描いたの? 随分と細密な水彩画だけど」


 突然、横から声がかかった。振り向くと、彼よりも10センチほど高い女性が立っていた。ノースリーブの黒いタートルネックに同じく黒のワイドパンツ、そして肩にかかる程度の黒髪に、腕で抱えられるほどの小さな黒いハンドバック。黒一色の装いの中に凛とした美しさがあった。


「ああ、うん。俺の作品」

「何というか、どこか閉じている感じがする」


 その言葉に直樹は眉をひそめた。


「閉じている?」

「うん。技術は素晴らしいけど……感情が入っていない。まるで対象を閉じ込めているみたい」


 彼女は作品に近づき、一部分を指さした。


「ほら、ここ見て。光の表現が完璧すぎる、もっと荒々しくというか、こんなに繊細に書かなくてもいいんじゃない? 光の持つ感情的側面が抑え込まれているように感じる」


 直樹は一瞬目を見開いた。驚きと同時に反発を感じた。


「それは意図的なんだ。感情を露わにするより、対象をありのままに正確に描くことのほうが重要だと思ってる。光は光でしかない——......」


 直樹は反論を企てた時には、彼女はすでに隣の作品に移っていた。彼は少し腹を立てながらも、その女性の背を追った。

 会場の反対側、大胆すぎる色使いと抽象的な形で構成された巨大な油画の前で、直樹は彼女を見つけた。作品のプレートには「高橋美咲」と書かれていた。


「これが君の作品?」

「そう」


 高橋美咲は顔を向けずに答えた。


「技術はあるけど、感情に振り回されすぎじゃないかな。もっと冷静に対象を観察してもいいんじゃない? 色彩の持つ普遍的な力を過信しすぎている気がする」


 今度は美咲が振り向き、少し驚いた表情を見せた。そして、突然笑った。


「あなた、面白いね。佐藤直樹くん。思った以上に理論構築してるじゃない」

「どうして俺の名前を」

「プレート見たわ。私は高橋美咲。三年生」

「なんだよ、先輩なのか……」


 直樹は美咲の自己紹介を聞いて、苦い表情を浮かべた。


「佐藤直樹、二年生です」


 二人は握手を交わした。美咲の手は冷たく、細長かった。


「この後、時間ある? 議論の続きをしたいんだけど。写実と表現の二項対立についてもっと話しましょう」


 直樹は少し考えてから頷いた。


「いいですよ。付き合います、美咲先輩」


 大学近くのコーヒーショップで、二人は熱心に芸術論を交わした。表現主義の美咲、写実主義の直樹。互いに対立する芸術観を持ちながらも、奇妙な共感が生まれていた。


「直樹くんはさ、世界をそのまま切り取りたいのかな?」

「美咲さんは、世界を自分色に染めたいってことですか?」

「そんな感じね」


 美咲はコーヒーを一口飲み、首を傾げた。


「でも私たちが見ている世界は、すでに個々の経験が積み上げたそれぞれの価値観に染まっている」

「だからこそ、できるだけ正確に描く努力が必要なんじゃないですか」


 異なる視点を持つ者同士の、刺激的な対話。それは直樹にとって、芸大に入ってから初めての体験だった。

 その日、二人はコーヒーショップが閉店時間になるまで話し続けた。帰り際、美咲は直樹に一枚のスケッチブックの切れ端を渡した。そこには彼女の連絡先が書かれていた。

 ――時期が進むにつれ、直樹と美咲は授業で顔を合わせる機会が増えた。特にいくつかの授業では、教授の指示で二人は共同制作のパートナーとなることもあった。


「なんでわざわざ反対の傾向を持つ者同士を組ませるんだろう」


 直樹は不満を口にした。美咲は肩をすくめた。


「でも面白いでしょ。私が感情を、あなたが形式を担当すれば、完璧な作品ができるかもしれないわ」


 夕方、二人は大学の図書館や例のコーヒーショップで打ち合わせをするようになった。当初は作品のことだけを話していたが、次第に個人的な話題にも触れるようになっていった。

 ある日、二人が構内で共同制作に取り込んでいるとき、美咲のスケッチブックから一枚の写真が滑り落ちた。直樹が拾い上げると、美咲と別の男性が写っていた。


「彼氏?」


 美咲は写真を取り上げ、バッグにしまった。


「元カレ。……君と会う少し前に別れたの」

「そっか」

「あなたは? 彼女とかいるの?」


 直樹は少し黙った後、首を振った。


「いないというか、いた……だいぶ前に別れた」

「へえ、なんで?」


 直樹は鉛筆で描いていたスケッチを中断し、窓の外を見た。


「彼女は、俺が感情を表に出さないって言ってた。『本当の自分を見せない』って」


 美咲は興味深そうに眉を上げた。


「私の元カレも、似たようなこと言ってた。私に対して『感情的すぎる』って」


 二人は顔を見合わせ、思わず笑った。そんな会話を重ねるうちに、彼らの間には奇妙な親密さが生まれていった。学生たちの間では、二人についての噂が広がっていた。


「もしかしてあの二人、付き合ってるのかな?」

「どうだろ、美咲さんが恋愛対象にするタイプじゃないでしょ。あんなに理論に厳しい人が」

「でもさ、いつも一緒にいるよね。しかも美咲さん、佐藤の前だと笑顔が違うような」


 そんな噂を耳にした時、直樹は否定した。


「俺たちは共同制作のパートナーだよ。それだけ。互いの芸術観を交換する関係だ」

「付き合ってない。アーティスト同士の共闘関係よ」


 美咲も同様に否定した。しかし、二人の間には絆が芽生えていた。それは芸術的な関心という無機質で不可解な、謎の絆だった。

 ――本格的な秋を感じる、十月の最後の週末に直樹は美咲から連絡を受けた。


「明日、私のアトリエに来ない?静物画を一緒に描きたいんだけど」


 断る理由も予定もなかったので、直樹は承諾した。美咲は大学から電車で十五分ほどの場所にアパートを借りていた。玄関を入ると、整然と片付けられたリビングがあった。


「意外と片付いてるね」直樹は言った。

「リビングは、ね。アトリエはもっと……自由よ」


 美咲はリビングの奥にある小さな部屋を、アトリエとして使っていた。彼女が言う通り、アトリエに足を踏み入れると、そこには創造的な混沌があった。


「これが今日の被写体」


 キャンバス、絵の具、筆、様々な素材が無秩序に広がっていた。部屋の中央には小さなテーブルがあり、その上にリンゴとバナナ、そして青い花瓶が置かれていた。

 二人はイーゼルを向かい合わせに設置し、静物画を描き始めた。最初の一時間は静かに過ぎ、ただ鉛筆を走らせる音だけが聞こえていた。

 窓から差し込む午後の光が、徐々に部屋の色を変えていく。直樹は集中して描き続けたが、美咲は次第に落ち着きがなくなってきた。彼女は時々ため息をつき、キャンバスから目を離していた。


「もしかして、飽きた?」直樹が尋ねた。

「うん、飽きた。リンゴとか花瓶とか、何百回も描いてきたし……これからもいっぱい描くだろうから、気分が乗らない」

「でも光の当たり方とかは、今日だけのものだよ。この光景は、今しか描けないものだろう?」


 美咲は強く首を振った。


「だとしても所詮はリンゴやバナナでしょ……もっと面白いものを描きたい」


 彼女はイーゼルから離れ、窓際に立った。後ろ姿が夕日に照らされ、シルエットが浮かび上がる。直樹は思わずその姿に見入った。


「人物画はどう?」美咲が振り返った。

「お互いをモデルにしない?」


 直樹は少し考えた。


「なるほど、肖像画か。いいと思う」

「いいえ、もっと挑戦的なもの」美咲の目が輝いた。

「お互いのヌードを描くってのはどう?」


 直樹は驚いて鉛筆を落とした。予期せぬ発言に緊張がほとばしる。


「ぬ、ヌード!? 冗談だろ?」

「本気よ。芸術の本質は自己開示じゃない? お互いの素の姿を描くことで、新しい発見があるかもしれない」

「いや、でも、それは......」

「恥ずかしい?」


 美咲は少し挑発的な笑みを浮かべた。


「芸術家が裸体を恥じるの?」


 直樹は困惑した表情で首を振った。


「そういう問題じゃなくて」

「あなたの元カノが言ってたわよ」


 美咲は突然、冷たい声色になった。


「あなたは本当の自分を見せない人だって。きっと、今も同じなんでしょ?」


 直樹は凍りついたように動けなくなった。


「元カノ......知り合いなのか?」

「絵画科は狭いのよ。君の彼女こと少し調べたら、私の同期らしいの。たまに話すわよ」


 直樹は黙り込み、美咲を凝視した。美咲はそんな彼を見て、少し声を和らげた。


「ごめん、意地悪だったかも。でも私、本気で芸術的な挑戦をしたいの」


 長い沈黙の後、直樹はゆっくりと頷いた。


「やってみる、やってみるよ」


 美咲は少し驚いた顔をした後、満足げに微笑んだ。二人は新しいキャンバスを用意し、向かい合って座った。

 美咲が最初に立ち上がり、ためらいなく服を脱ぎ始めた。直樹は目をそらそうとしたが、彼女の声が彼を引き止めた。


「ほら、芸術家の目で見て」


 彼女の声には緊張が混じっていたが、堂々としていた。セーターを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。直樹は鉛筆を握りしめたまま、動けずにいた。


「あなたも、早く」

「ああ......うん」


 直樹は震える手でシャツを脱いだ。二人とも決して自然体ではなかったが、芸術の名の下に自分を偽った冷静さを装っていた。

 美咲の肌を、今まで全く見なかったわけではない。八月に二人で海へ行った時の、美咲の黒いビキニの姿を直樹は憶えていた。均整のとれた細い素体に宿る美しさを黒い衣装が際立たせていた。しかし今回は――状況が全く違い過ぎる。

 完全に服を脱ぎ終えると、二人は再びイーゼルの前に座った。美咲の身体は予想以上に筋肉質で引き締まっていた。肩から腰へのラインには、彫刻のような美しさがあった。

 直樹は鉛筆を走らせ始めたが、手が震えていた。目の前の裸体を「モチーフ」として見ることができない。美咲も同様に、彼の姿を描きながら時折目を逸らしていた。


「客観的に見て」


 美咲は自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 二人の視線が絡み合い、空気が変わった。美咲の頬が赤く染まり、直樹の鼓動が早くなっているのを自分でも感じた。


「描けない」直樹は筆を置いた。

「君を単なるモチーフとしては……見られない」

「――私も」美咲も筆を置いた。


 キャンバスには、ぎこちなく不完全な輪郭線だけが残された。アトリエの窓から差し込む夕暮れの光が、二人の肌を柔らかく照らしていた。美咲は立ち上がり、ゆっくりと直樹に近づいた。彼も同様に席を立ち、二人は部屋の中央で向かい合った。

 言葉は必要なかった。彼らの芸術的感性が言葉以上に多くを語っていた。美咲が手を伸ばし、直樹の顔に触れた。彼女の指先は冷たかったが、その接触は火花のように熱かった。

 二人の唇が重なった。最初は優しく、次第に深く。部屋の中の光と影が踊るように、二人の感情も揺れ動いていた。

 時間は流れ、窓の外は完全に暗くなっていた。部屋には小さなスタンドライトだけが灯り、二人の体に柔らかな光を投げかけていた。


「こんなつもりじゃなかったんだ」直樹は囁いた。

「私もまさか、こうなると思わなかった」美咲は微笑んだ。 


 美咲は窓際に立ち、煙草を取り出した。ライターで火をつけ、深く煙を吸い込む。吐き出された煙が、夜空に溶けていくのを直樹は横になったまま見つめていた。


「初めてだったの、こういうの?」美咲は唐突に尋ねた。

「いや......元カノと何回かは」

「そう」彼女は無表情だった。

「私は……初めてだった」


 彼女はもう一度煙草に火をつけ、直樹に差し出した。


「試してみる?」


 タバコを吸える年齢ではあったが、直樹は首を振った。


「いや、健康に悪いから」

「これも人生経験だよ」


 彼女は微笑んだ。


「様々な経験をするべきじゃない? 芸術家として」


 直樹は少し考えた後、煙草を受け取った。初めての一服に、彼は咳き込んだ。


「何だよこれ、こんなのよく吸えるなあ」直樹は苦笑した。

「最初は誰でも咳き込むもの」美咲は穏やかに微笑んで言った。


 彼は再び一服し、今度はうまく煙を吐き出すことができた。不思議な達成感があった。


「このままじゃ、危険かもしれない」直樹は呟いた。

「何が?」

「俺たち。このまま進むと、本当にお互いを愛してしまいそうだ」


 美咲は彼を見つめ、その目には何か読み取れない感情があった。二人は再び静かになった。アトリエの壁には、二人の描きかけの肖像画が無言で見つめていた。


「タバコ吸い終わったら、続きやろっか」


 直樹は言った。美咲は彼の目をじっと見つめ、わずかに微笑んだ。


「――どっちの?」


 彼女の問いには答えず、直樹は最後の一服を終え、煙草を消した。部屋には二人の静かな呼吸だけが満ちていた。窓の外では、遠くの街の灯りが星のように瞬いていた。

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