第8話 かすかな光、新たな道

将棋AIとの衝撃的な出会いから、慧の日常はゆっくりと動き出した。

止まっていた時間が、音もなく回り始めたようだった。


まず、彼が手に取ったのはプログラミングの入門書。

Python、C++、HTML――。

大学の授業で軽く触れた程度だったそれらを、改めて基礎から学び直した。


分厚い技術書に目を通し、意味も分からぬエラーと格闘しながら、

少しずつ、慧は「作る」という感覚に慣れていった。


「この関数が……変数にこう作用して……ああ、そうか」


理解の断片が、点から線へ、線から面へと繋がっていく。

それは、かつて詰将棋を読み解いた日々に似ていた。


けれど、不思議と苦しくはなかった。

そこにあったのは、義務じゃない。

ただ、知りたいという“欲”だった。


次に取り組んだのは、機械学習とディープラーニング。

人間の脳を模した「ニューラルネットワーク」と呼ばれる構造を使い、

データから自律的に学習していく技術――。


数学。

統計。

線形代数。


必要な知識が山のように立ちはだかっていた。

慧は、高校時代の教科書を引っ張り出して、まずはそこからやり直した。


夜は、英語の論文と格闘した。

ページに並ぶ数式は、まるで呪文のようだった。

それでも、目を背けなかった。


この難解な世界のどこかに、

「手の彼方」の“意味”があると信じていたから。


そして、慧は確信するようになる。


AIは、ただ勝つだけの存在であってほしくない。

人の心を揺さぶるような、そんな一手を指せる存在であってほしい。

まるで――芸術作品のように。


彼の胸に、ふと浮かんだ問い。


(人間が本当に向き合いたくなるAIって、何だ?)


単に強いだけじゃない。

それは、きっと「意味」を問うAIだ。

人間の中に眠る問いかけを、逆に引き出してくれるような。


それは慧自身が、かつて盤上で掴み損ねた“答え”にもう一度触れたい――

そんな祈りのような願望でもあった。


やがて、それは一つのイメージとして形になっていく。


「綾香」

――多様な線を“綾なす”ように、奥深く、美しい一手を示すAI。


その萌芽が、慧の中ではっきりと芽吹いていた。


ある日、彼はふと、師匠の峰岸を訪ねることを決めた。

奨励会を辞めて以来、ほとんど顔を合わせていなかった。


和室。

整えられた将棋盤。

変わらぬ空気に、懐かしさと緊張が入り混じる。


慧は、ここまでのことを一つひとつ丁寧に語った。


将棋AIとの出会い。

ディープラーニングという新しい世界。

そして、自分がもう一度、将棋と向き合いたいと思っていることを。


「ほう、AIか。お前さんが……ねぇ」


峰岸は、少し驚いたような顔をした。

けれどすぐに、穏やかな笑みを浮かべた。


「慧、お前の顔つきが変わったな。あの頃とは違う。……良い目をしている」


慧は、思わず視線を落とした。


「……まだ何も形になっていません。ただ、やってみたいことが見つかっただけで」


「それが何より大事なことさ」


峰岸は、茶を一口すすると、静かに続けた。


「将棋の神様はな、盤の上にだけいるわけじゃない。お前が進もうとしてる道にも、きっと“新しい盤面”があるはずだよ」


その言葉は、慧の心の奥で、確かに何かを灯した。


数週間後。

慧は、自作の簡単な将棋プログラムを初めて動かした。


とはいえ、まだAIとは呼べない。

決められたルールに従って、駒を動かすだけのもの。

だが――


画面の中で、駒が自分のコード通りに動いた瞬間。

慧の中に、確かな“手応え”があった。


まるで、小さな手漕ぎボートが、まだ誰も知らない海へ漕ぎ出したような感覚だった。


(ここから、きっと始まる)


窓の外が、ゆっくりと白んでいく。


奨励会を去って以来、これほど清々しい夜明けを迎えたのは初めてだった。


AIと共に、将棋の“その先”へ。

今度こそ、自分の手でたどり着いてみせる。


慧は、静かにそう思った。

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