第5話 雨音は慟哭のように
「終わった」
慧はそう呟いた。
誰にでもなく、自分に対して。
空は容赦なく泣き叫んでいた。
バケツをひっくり返した――そんな表現では生ぬるい。
これは“嘲笑”だ。天からの。
将棋会館を出た足は、ただ重く。
何を思ったかも覚えていない。
ただ、頭の奥に貼り付いて離れないのは、自ら絞り出したあの言葉。
「負けました」
声になっていたかも怪しい。
けれど確かに、相手は静かに頷いた。
その表情は、安堵とも哀れみともつかない曖昧なものだった。
駒が散らばった盤面。
それが夢の残骸に見えたのは、錯覚ではなかった。
雨に打たれながら、慧は千駄ヶ谷の裏路地をさまよった。
ネオンがにじみ、水たまりが白く光るたびに、頭の中に“あの一手”がよみがえる。
――金を浮かした。
なぜ、あんな場所に。
何を守り、何を攻めたかったのか。
答えはない。
あの瞬間、慧は将棋に――いや、自分に裏切られたのだ。
気がつけば、自宅アパートの前に立っていた。
鍵はうまく回らず、何度も試した。
ようやくドアが開いた時、慧はほとんど崩れ落ちるように中へ入った。
母はいなかった。
それだけが、救いだった。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。
けれど、芯まで染みついた冷たさは消えない。
布団に潜っても、瞼の裏には盤面が浮かぶ。
金を浮かす直前の局面。
もし違う手を選んでいたら――。
そんな無意味なIFが、何度も脳を侵す。
耳にこびりついた雨音。
だが、それは外ではなく、自分の中から鳴っていたのかもしれない。
眠れないまま朝を迎え、大学の講義へ。
ノートには意味のない駒の配置が書き殴られ、それを黒く塗り潰すことを延々と繰り返した。
数日が過ぎても、心の濁りは晴れなかった。
そして、慧は震える手で電話を取った。
――師匠に、退会を伝えるために。
峰岸の声は穏やかだった。
その分、刺さった。
「そうか。一度、こちらに来なさい」
和室には、整えられた将棋盤。
壁にかかる「大道無門」の文字が、遠く感じた。
「気持ちは変わらないか?」と問われて、慧は首を振った。
「もう……気力が……ありません」
その言葉は、まるで投了宣言のようだった。
峰岸は、深く頷いた。
そして言った。
「将棋の道は一つではない。お前が本当に打ち込める何かを、いつか見つけなさい」
慧は泣かなかった。
涙を流すほどの熱すら、もう残っていなかった。
退会届は、あっけなく受理された。
その日、空は皮肉なほどに晴れていた。
二十歳の夏。
桐山慧の将棋人生は、音もなく崩れ落ちた。
残ったのは、濡れたアスファルトの匂いと、心にぽっかり空いた空洞だけだった。
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