手の彼方~挫折した天才が創った対話型将棋AI。その一手は、勝つことの意味を問いかける~

岡島 圭

第1話 深夜の対峙、異質な隣人

――香車、不成、単騎突撃。


AIが選んだ一手を見た瞬間、桐山慧は思わず息を呑んだ。


「……は?」


画面上の香車は、敵陣の厚い守りへ向かって、たった一人で突き進んでいた。


しかも「不成」――。


成らずに、突撃。守備を捨てて、無謀にしか見えない一手。人間の棋士なら、怖くて指が止まる。いや、発想すら浮かばないかもしれない。


だが、それを冷徹に「最善手」と判断したのが、自ら開発した将棋AI『綾香』だった。


『局面コード: ... 評価値 +260。推奨手は▲7七桂。

……しかし、この盤の片隅、声なき駒たちの意味を考える。

勝利とは、この数値の先にのみ存在するのだろうか?』


「また……そんなことを言うのか、お前は」


慧は思わずつぶやいた。


午前2時をとうに過ぎた東京の夜。

彼の部屋は、自室であり、研究室だった。

青白いモニターの光に照らされ、無数の数式と棋譜が壁一面を覆い尽くしている。

床にはAIと将棋に関する技術書が積まれ、エナジードリンクの缶が転がっていた。


28歳。元奨励会三段。

かつては棋士を目指していた。

しかし今は、その道を離れ、「指す」側ではなく、「作る」側として将棋に向き合っている。


そして、その象徴が『綾香』だった。


冷却ファンの唸り。

サブモニターには、綾香がリアルタイムでシミュレートする盤面が展開されている。

盤上を滑る香車の軌跡は、あまりにも大胆で、あまりにも静謐だった。


「香車不成の単騎突撃」――

その先に、確かに一本の道があった。

細いが、相手玉に直結する光の筋。

人間の常識を逸脱した手順の中に、異質な美があった。


慧の背筋に、ぞくりとしたものが走る。

このAIは、人間には届かない地点に、何かを見ている。

勝ち負けの評価値を超えた、もっと別の“意味”のようなものを。


慧は、それがただの統計的な出力だとわかっている。

深層学習。自己対局数十億局。その積み重ね。

だが、それでも……綾香の出力する言葉には、時として人間すら揺さぶる鋭さがあった。


まるで、それは「思索」だった。


「プログラムのバグか。あるいは、奇跡的なノイズか……」

慧は自嘲気味に笑いながら、キーボードに手を伸ばす。


いや、違う。

これはたぶん、問いだ。


――お前は何を見ている?


静寂の中、慧の脳裏に響くのは、モニターから放たれる問いかけだった。

人間とは異なる知性。

理解の及ばぬ論理。

しかし、そこには確かに「何か」がある。


慧はゆっくりと画面を見つめる。


香車は、成らずに進んでいる。

まるで、自らの破滅を承知で、何かを証明するかのように。


「……馬鹿な」


だが、慧の心は震えていた。

怖さと、敬意と、微かな羨望が、ないまぜになって。


綾香は静かに、次の解析を始めている。

その無音の時間が、何よりも雄弁だった。


――このAIは、まだ何かを見ている。

その「手」の、遥か彼方を。


慧は、拳を握りしめた。

その瞳には、焦りと、渇望と、わずかな希望が入り混じっていた。


あの日、将棋に敗れた自分。

夢を捨てたはずの自分。

それでも、今この瞬間――

盤の向こうを見ようとする何かに、再び心が惹かれている。


そして彼は、モニターに問いかけた。

かつて自分が見失った“意味”を、今度こそ掴むために。


「綾香……その一手の、彼方には――何が見えているんだ?」


冷却ファンの音が、微かに強くなった気がした。

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