第5話 刀(前編)

1.

 昭和7年3月。


 新たに建国が宣言された満洲国の南に位置する都市、奉天。その医務局には、陸軍から派遣された軍医二名と、海軍からの応援で加わった二名、計四名の医師が在籍していた。


 しかし、海軍所属の二階堂中尉は数日前から哈爾濱ハルビンで発生した集団結核の対応にあたっており、医務局には不在だった。


「石膏を練る係でもいないと忙しくなるもんだな。」

 白衣の袖をまくりながら、佐々木中佐が冗談めかして言った。


「まぁ、最近は戦闘も少し落ち着いてますし、三人で回せるでしょう。元は二人だったわけですしね。」

 鈴村大尉が笑いながら応じる。その傍らで、海軍から応援に来ている河村少佐は時計をちらりと見やった。

「もう十八時を回ってますね。」


 そのとき、医務局のドアが勢いよく開き、憲兵が駆け込んできた。室内を見回し、佐々木を見つけると慌てて耳打ちをする。


「何ぃ?」

 佐々木は思わず声を上げたが、それ以上の説明はなかった。ただ白衣を脱ぎ捨て、外套を羽織ると、

「片付けは任せた。」

 とだけ言い残し、足早に立ち去ってしまった。


「何かあったんですよね、あれは。」

 鈴村はそう言うと淡々と片付けを始める。河村も無言で手伝った。医療器具をひとつひとつ整理し、鉗子や鑷子の数を確認していると、今度はさっきとは違う兵士が駆け込んできた。階級章は大尉である。


 青ざめた顔をした大尉は、佐々木の不在を知ると、鈴村の腕を引っ張り

「と、とにかく一緒に来てください!」

 と叫び、そのまま外へ連れ出してしまった。 


 ─あれは確か、砲兵隊隊長、山本中佐の副官だったか…?

 昨夜、士官用の食堂で、立派な軍刀を腰に下げた山本と、その横にいた大尉の姿を思い出した。


 医務局を無人にするわけにはいかず、河村は一人で残った。橘にもらった飴を口に放り込み、私物の『四つの署名』を手に取る。シャーロック・ホームズが出てくる小説だ。


 どれくらい時間が経っただろうか——おそらく二十分ほどだろう。ドアが再び開き、今度は堂々とした足取りで一人の男が入ってきた。


熊野吾郎大佐。


 憲兵隊の隊長であり、その名を奉天の軍人なら誰もが知っていた。身長は平均よりも高く、がっしりとした体格。整った顔立ちに、鋭い眼光。その眼差しは相手の本質を見透かすようだった。


「河村少佐。」


 熊野は低い声で呼びかけた。河村は本を閉じ、椅子の背にもたれながら答えた。

「佐々木中佐と鈴村大尉は席を外していますよ。」

 熊野はその言葉を無視するように続けた。


「殺人事件が起こった。公になれば陸軍の醜聞になるような案件だ。……海軍から来た貴官を、私は信用していない。」

 相変わらずの率直な物言いだった。しかし、次の言葉は河村の興味を引いた。


「私は東京魔術倶楽部の会員だ。」


 河村は軽く顔を上げた。東京魔術倶楽部──その名は、外部にはほとんど知られていない。銀座のホテルの一角にあるこの会員制倶楽部は、一見すると上流階級の紳士たちが集う社交の場にすぎないが、実際にはオカルト、秘術といった、表に出せない知的探求を共有する場所である。


 医師、貴族、軍人、学者、実業家──選ばれた者しか入会を許されず、その存在と会員の身元は厳重に秘されている。河村は海軍の機密任務を遂行する上で有利になるだろうと軍経由で倶楽部に籍をおいていた。


 倶楽部の秘密は、いかなる立場にあっても外に漏らしてはならないという掟があり、破った者には相応の報いがあるとも言われていた。


「規約の第一項を覚えているか?」

「……倶楽部に関わる出来事の秘密保持。」


 淡々と応じながら、河村は立ち上がった。熊野の言葉には深い意味がある。


「海軍のホームズの力を借りたい。」

 熊野は手を差し出す。しかし、河村はそれを握ることなく、外套がいとうを手に取った。


「私は軍医ですよ。」

 肩をすくめながら、冷ややかに続ける。

「ホームズは貴方でしょう?」

 そう言って、河村は熊野とともに医務局の外へと足を踏み出した。


2.

 三月の寒風が吹き抜ける中、熊野大佐は河村を伴い、宿舎から少し離れた草むらへと向かっていた。


 現場に着くと小柄な男がうつ伏せに倒れている。軍服はべっとりと血に染まり、地面にも大量の血が流れていた。


「田中勝己大尉、主計課で軍需品管理を担当していた男だ。」

 熊野は低く言った。


 河村は膝を折り、死体を観察する。顔は青白く、すでに冷えきっていた。

「真面目で融通が利かないところはあったが、人の恨みを買うような男ではなかったはずだがな。」

熊野が手帳をめくりながら言った。


 先程呼ばれて検視を行ったであろう、軍医の佐々木が河村に近づいてきた。


「第一発見者は見回り中の伍長だ。発見時刻は十七時半すぎ。死因は心臓刺傷による失血死。刃物で刺されたようだな。」

「死亡推定時刻は?」

 河村が佐々木に聞いた。


「気温が低いから不正確かもしれんが、十五時から十七時あたりだろう。」

「凶器は?」


「現場にはなかった。ただ、これが近くに落ちていた。」

 熊野が懐から勲章を取り出し、河村の前に差し出す。

「これは……」

「砲兵隊隊長、山本次郎中佐のものだ。」

 

 河村の表情が曇る。つい数十分前、山本中佐の副官が青い顔で医務局へ駆け込んできたことを思い出していた。


3.

「宿舎に戻るぞ。」


 熊野は、河村と佐々木を伴い、足早に現場を離れた。三人だけになったところで熊野が小声でいった。

「ここから先は極秘事項だ。山本中佐は部屋で死亡していた。」


 宿舎に戻った熊野らは、山本の部屋へと向かう。扉を開けると、部屋の中には副官の日沖大尉と先程医務局から連れて行かれた軍医、鈴村大尉の姿があった。


 山本は部屋の中央に仰向けに倒れていた。 腹部には軍刀が深く突き刺さり背部の床には血溜まりが広がっている。


 山本の蒼白な顔には経験と厳しさが刻まれた皺が見える。つい先程までは、その経歴に相応しい鋭い目の持ち主だった。

 しかし、今その目は半開き、口も微かに開いている。最後の瞬間の苦悶がそのまま残っているかのようだった。山本は中佐の制服を身に着けており、肩には階級章、胸部にはいくつかの勲章が付いている。その腹部の部分は血で染まり、制服は傷ついている。


 室内はきれいでぱっと見た限り荒らされた様子はない。


「他殺ならば血を踏んだ足跡があるはずだが……。」

 河村は足元に注意を払いながらつぶやいた。

「自殺か……それとも?」


 河村は続いて凶器の軍刀に目を向ける。

「軍刀の柄つかが外れている……。」

 刀身は山本の腹部に突き刺さっているが、なぜか柄が外れ、切羽と鍔つばと目抜き、はばき(刀身にはめる金具)がその横に落ちている。


 副官の日沖が苦しげに声を発した。

「第一発見者は私です。中佐は十七時半に作戦室から自室に戻られました。しかし、十八時半を過ぎても食堂に姿を見せられないので様子を見に来たところ、この状態で倒れていたのです。私は手を触れず、直ぐに医務局へと走りました。」


 続いて軍医の鈴村が検視の所見を述べる。

「私が確認した時には既に死亡されていました。凶器は見ての通り、腹部に突き刺さった軍刀です。おそらく心臓に達しているでしょう。腹部の傷以外に特筆すべき傷はありません。死亡推定時刻は一時間以内、日沖大尉と別れた後の十七時半から十八時半の間と見て矛盾はありません。」


「凶器は、柄が外れた軍刀か……妙だな。」

 河村が軍刀とその部品に目を凝らす。はばきには「御賜ぎょし」の刻印があった。


「恩賜の軍刀か。」

 河村がつぶやくと、

「はい。山本中佐は陸軍大学校を首席で卒業されており、その記念として賜ったものです。この軍刀を、命よりも大事にしておられました。」

 日沖が涙ぐみながら言葉を続けた。


「そんな刀で自殺するものなのか?」

 佐々木が疑念を口にする。


 河村は室内を注意深く見回した。ふと、暖炉の端に何かが燃え残っているのを見つける。それを慎重に取り出し、床に広げた。

「これは……軍服のように見えますね。」


 熊野がそれを覗き込みながら言った。

「こちらは外套か? しかし、ほぼ燃えてしまっていて誰のものかは特定できん。」


 河村は考え込んでいた。

「情報を整理しましょう。」

 しばらくして落ち着いた声で言い、事件の状況を振り返りはじめた。


 ポケットから手帳と万年筆を取り出すと声を出しながら状況を書きつける。万年筆は餞別として、魔術倶楽部での友人、東京帝大教授の伊達から貰ったもので、今まで数千の化学式を書き、その謎を解いてきた相棒であった。


第一の死体、田中大尉。

死亡推定時刻:15時〜17時。

死因:刃物による心臓刺傷、失血死。

現場には凶器がない。

遺体の近くに山本中佐の勲章が落ちていた。


第二の死体、山本中佐。

死亡推定時刻:17時半〜18時半。

死因:本人の軍刀による腹部刺傷、失血死。

軍刀の柄が外れている。

暖炉には軍服と外套の燃えた跡がある。


 河村は日沖に向き直る。

「山本中佐に最近、何か変わった様子は?」

「……ここ数日、何か落ち着かないご様子でした。しかも、なぜかずっと帯刀されていました。そういえば……」

 日沖が急に言葉を切る。


「何か気づいたことが?」

「普段なら、毎日のように軍刀の手入れをされていたのですが……ここ数日は、それをしている姿を見ていません。」

「つまり、山本中佐は何かを警戒し、常に軍刀を身につけていたが、その手入れは怠っていた……」


 河村が静かに言うと、部屋の扉がノックされた。憲兵が熊野に一枚の紙を手渡した。それは熊野が指示した、外出記録の写しだった。

「ご苦労。下がれ。」


 熊野は紙を見ながら言葉を続ける。

「単純に考えれば、山本中佐が田中大尉を殺害し、その後自殺したことになる。しかし……。」

 彼は紙に目を落としたまま言った。

「山本中佐に外出記録はない。」


「午後はずっと私と一緒におりました。中佐が外出していないのは間違いありません。」

 日沖が強い口調で言う。

「それに、中佐が人を殺すなんてあり得ません。」


「つまり、山本中佐には田中大尉を殺す時間がなかった。」

 熊野はそう断言した。


「では、田中大尉を殺したのは誰か?」


 熊野の言葉に室内が静まり返る。熊野は再び紙に目を落とした。


「本日午後に外出しており、アリバイが不確かな者は四名いる。加えて第一発見者の伍長を取り調べる。」


 彼は静かに鈴村へと目を向けた。

「鈴村大尉。」

「……何でしょう?」


 熊野は低く、冷徹に告げた。

「君も容疑者の一人だ。」

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