第2話 毒(前編)


1.

 秋が深まりつつある十月下旬、河村学は奉天(瀋陽)の地を踏んだ。東京と比べて気温はまだ大差ないが、吹き抜ける風にはすでに冬の気配が混じっている。


「海軍より医療支援に参りました、河村学です。」


 着任の挨拶を手短に済ませ、責任者と数言交わした後、宿舎へと案内される。佐官以上は本来、個室が割り当てられるはずだったが暖房設備の故障を理由に相部屋と説明される。

 

 諜報活動がしにくいなと河村は苦笑したが、どうこう言っても仕方がない。案内された部屋は狭い二人部屋だった。扉を開けると、すでにもう一人の住人の荷物が置かれている。同室者の姿は見えない。廊下を歩いてきた際、ちらりと見えた一人部屋の方が広かったが、それを口にすることはなかった。


「食堂と風呂の場所と時間はこちらになります。医務局には午後から行くようにとのことです。」

 兵士から一枚の紙を受け取り、荷物の整理を始める。ほどなくして、部屋の扉が控えめに開いた。


「あ、あの……」

 入ってきたのは三十歳手前の男だった。背は平均よりやや低めで、やや細身。軍服こそ着ているが、軍人らしさはほとんど感じられず学生のように見えた。気の弱さが全身から滲み出ている。階級章は中尉であった。


「じ、自分は……く、呉から応援に派遣されてまいりました、に、二階堂修と申します。共に、この任務を、無事に遂行できるよう、何卒よろしく……よろしくお願いいたします。」


 緊張のあまり言葉が詰まるのを聞きながら、河村は淡々と名乗った。

「海軍省から来た河村学だ。専門は整形外科だ、よろしく頼む。」

 二階堂はこくこくと頷く。


「は、はい。自分は……こ、呼吸器内科で、主に結核の防疫を担当するよう言われております。」

 

 彼は広島の開業医の次男で、家業を継ぐ兄とは違い、軍医の道を選んだらしい。話すうちに少しは打ち解けたものの、やはりどこか頼りない印象は拭えなかった。


2.

 昼過ぎ、奉天基地の医務局では、陸軍の軍医二人が新しく着任する海軍軍医について話していた。


「まったく、海軍なんぞに何ができるっていうんだ。」

 

 陸軍中佐、佐々木義隆が、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てる。彼は長年最前線で負傷兵を治療してきたベテラン軍医であり、外科手術の腕は確かだった。しかし、その分だけ海軍の軍医に対する偏見も強かった。


「人手が増えるのはありがたいですよ。佐々木中佐も、そろそろ休まないと倒れますよ?」

 

 微笑んだのは鈴村渚大尉だった。彼は整形外科を専門とし、銃弾や砲撃で損傷した手足の治療に奔走している。しかし、佐々木と違って、新しい医官の到着には一定の期待を寄せていた。負傷兵の数は多すぎる。どんな医者であろうと、手が増えるのは助かるはずだと。


「海軍省から参りました河村です。専門は整形外科です。よろしくお願いいたします。」

 

 医務局の扉が開き、河村が入室する。佐々木の視線を感じ取り、無駄な言葉は避け、背筋を伸ばして手短に挨拶を済ませた。


 佐々木は最初から敵意を隠そうとしなかった。

「海軍の医者が陸軍の現場でどこまでやれるか、見せてもらおうじゃないか。」

「……やれることはやりますよ。」

 河村は淡々と答える。その隣で、二階堂が小さく震えていた。


「え、えっと……に、二階堂修、く、呉から参りました。呼吸器内科が専門で、結核の防疫を……あの、その……」

 最後まで言い終わる前に、佐々木が鼻で笑った。

「結核だと?おい鈴村、俺たちは毎日血まみれの負傷兵を処置してるってのに、こいつは肺病の話でもするつもりか?」


「中佐、そう言わないでください。結核の問題は無視できませんよ。戦場では結核以外も感染症が広がりやすいですし。」

 鈴村がやんわりとフォローするが、二階堂はますます萎縮した。

「は、はい……あの……じ、自分もできることは……」

「おどおどしてる場合か。軍医としての覚悟はあるのか?」

 佐々木が鋭く睨むと、二階堂は縮こまるばかりだった。


「ま、まあ、少なくとも俺たちよりは手が綺麗だろうな。」

 鈴村が苦笑しながら言う。整形外科や外科の軍医は、手を血に染めるのが日常だ。しかし、二階堂の手は白く細く、どちらかといえば事務作業向きに見えた。


「さて、早速だが仕事だ。負傷兵は待ってくれん。河村少佐、あんたの腕前を見せてもらおうか?」

 佐々木がそう言うと、河村は静かに頷き、白衣に着替えた。

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