ひとつめの扉の先
ひとつめの扉の先
ふわり、ふわり、と重力を感じさせない動作で、カギモリは歩く。
ここには、地面というものはない。だが、浮いているとか飛んでいるとか、そういう類でもない。まるで雲の上のようで、足裏を押す感触は現実感がない。
カギモリは腰の鍵束にそっと手を添える。
一本のカギが、カギモリを呼んでいる。
――わたしを、ここへ
その囁きを掬い取り、鍵束から優しく外す。
何もない目の前の空間に挿し、回す。
何もない目の前の空間に、まるで初めからあったかのように存在する扉が、音もなく
扉から現れたのは、透明に近い、僅かに乳白色をまとうもの。
この世界のやわらかな光を反射して、きらりと虹色に光るときもある。まるでシャボン玉のような、儚い存在。
影の形は少し小さい。まだ子供のようだ、とカギモリは胸を痛める。
「さぁ、おいで」
そう言って扉の向かい側にカギを挿す。今度の扉は、重く軋みながら開いた。
その先へ進むよう、手の動作で優しく誘う。
これがカギモリの仕事であり、日常だ。
美しい影を次の扉の先へ案内し、二つの扉の鍵を閉め直す。
幾度となく、終わりなく繰り返される日常。
しかし、影は進まなかった。
「君は……誰………?」
カギモリは警戒した。
意識をもつ影は、厄介だ。先へ進むことを拒絶しうる。
面倒なことにならないうちに、片付けたい。
「僕はカギモリ、君を導く役目を担う。さあ、こちらの扉へ」
「どこへ……?」
「
改めて、二の扉を指さす。
「さあ、お入り」
「いや……はやく、かえらないと」
まだ
カギモリは切ない表情を浮かべ、首を僅かに振る。
君の帰る場所は、もうなくなってしまった。
「ここは一方通行だ」
二の扉を改めて示す。
「この先へ行くしかない」
「いや、かおりが……まってるから、はやく……ああ、間に合うかなあ」
口調がはっきりしてきた。カラダの輪郭に色がつく。
まずい兆候だ。
「さあ、早く」
もはや押し込んでやろうかというところで、カラダが大きく身を揺らした。
「俺、死んだのか?」
カギモリは息を止める。
カラダが動揺した様子で足踏みをしている。必死に見回したところで、見渡す限り何もない世界である。
「俺、死んだのか?」
繰り返され、カギモリはため息をついた。
可哀相に。何も知らずに通れば、悲しみも孤独も感じずに済むのに。
「そうだね」
カラダは怯え、震える。そしてカギモリの肩を掴み、縋りついた。
「冗談だろ、ここはどこだ? 戻らないと。香織が待ってる!」
カギモリに触れられるほど、ここにカラダは馴染んでしまった。
大問題だ。
「どうにかしてくれよ死神! 俺、まだ死ねない!」
「誰が死神だ」
カギモリは不機嫌な口調で吐き捨てる。
「違うのか?」
「ぼくはただの鍵守だ」
「カギモリ? 名前か? あ、俺はシン」
「名前なんて興味ないよ」
カギモリは困ったように呟く。さて、どうすればいいだろうか。
二の扉に無理やり突っ込むのが一番早そうだ、と結論を出すのとほぼ同時に、カギモリは腰にずんと重みを感じた。
鍵束が、一斉に泣き始めたのだ。
「重ね重ね、不幸なカラダだ」
カギモリは目を細め、身を翻して走りだす。
「ま、待ってくれ!」
追ってこようとしたカラダに、カギモリは叫んだ。
「動くな!」
シンは見た。はるか遠くに、ツタのような、長いものが蠢いているのを。
そしてそれは光のように、世界を貫く速度で飛んできた。
カギモリは僅かな動きでそれを避ける。
「なんだよ、あれ……」
シンの震える声に、同情が沸く。
「迷子だよ」
カギモリは近づいてくるツタから目を離さずに答える。
「早く、二の扉をくぐってくれないか。でなければ君も、あの一部にあるぞ」
「あの一部……?」
「迷子になるということだよ」
カギモリがヒュ―――と長い口笛を吹いた。ツタが絡まり、勢いを失ってぐにゃぐにゃと揺らぐ。同時にシンも腰が抜けたようにその場に尻もちをついた。
「おまえは弱らなくていいんだよ」
忌々しい、と舌打ちをする。シンは情けない顔をした。
ああ、もう表情まで分かるようになってしまった。
カギモリは大股でシンに歩み寄ると、その後ろで大きく開いていた両開きの扉を、両手で手早く閉めた。鍵穴にカギを合わせる。
「堪忍しておくれ。迷子がきているんだ、万が一にも通すわけにはいかないから」
カギを宥めるように親指の腹で優しく撫で、強く力をこめて回す。嫌な音を立てながらカギは回り、扉と一緒に消えた。
それを情けない顔のまま眺めていたシンの首を後ろから鷲掴み、カギモリは走り始めた。
まるで子猫を掴んでいるかのような、シンに一切の重さがないかのような動作だ。
文句を言える状況ではなかった。
シンのすぐ近くを、黒いツタが攻撃的な速度で駆ける。カギモリは軽やかに進路を変え、ヒュ――と口笛を吹く。そのたびツタもシンも塩を撒かれたように萎れる。
あっという間に、黒いツタは見えなくなった。
それでもしばらくカギモリは走り続けた。
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