その6

 孫式は早朝に目が覚めたので、早めに宿を出た。

 門番の海燕はもういつもの場所に立っていた。挨拶をして邸内に入る。

 まだ水鶴は起きていないかもしれない。その時は雪羅と話して時間を潰すことにしよう。

 回廊にやってくると、ちょうど使用人の寝所である西小房から雪羅が歩いてきた。


「おはようございます」

「あらおはよう。まだ誰も起きてこないわ。しばらく待っててちょうだい」

「承知いたしました」

「あなた、長旅のあとなんでしょう? よくそんなシャキッとしていられるわね。あたしなら疲れて動けなくなっちゃうかも」

「東江楼と銀家を往復するだけですから、簡単なお仕事です。疲労を抜くための休み方も教わっていますし」

「銀家は教育熱心ねえ……。他の奥様方のご実家からはご両親が顔を見に来るくらいかしらね。毎月小間使いを送ってくるのは銀家だけよ」

「それだけ、斗開様は水鶴様のことを心配しておられるのです」

「独特の感性をお持ちの方だからね。気持ちはわかるわ。あなたは疲れない? 心の話だけど」

「平気ですよ。水鶴様は私にもよくしてくださいます」

「心が強靱なら、それが一番いい。こう言うのはよくないかもしれないけど、水鶴様は癖の強いお方。三日だけでも、ずっと一緒にいるのは大変なことよ」

「心得ておりますよ」

「なんて偉そうに言っちゃったけどね。あなたとこうやって話す機会はなかなかないし、ありがたいお説教でもしておこうかなって」

「雪羅さんも、奥様方が六人もいれば苦労もあるでしょう」

「いいのいいの。あたしはけっこう楽しんでやってるわ。なんていうか、振り回されるのが嫌いじゃない性格なのよね。ちょっと得してるかも」

「それは素晴らしい」


 会話が弾み、二人でやりとりしていると、月凛が最初に回廊へ出てきた。


「あっ、奥様。おはようございます」

「おはよう。青雅さんを起こしてもらえる? ナマズの埋葬を朝のうちにやってしまうわ」

「はい、ただちに」


 雪羅が青雅の部屋の戸を叩いた。


「青雅様、奥様がお呼びです」


 返事はなく、雪羅は何度も呼びかけた。徐々に声を大きくしてみるが、それでもやはり反応はない。


「変ね。朝に弱い人ではないはずだけど」


 月凛がいぶかしげな顔をする。


「何かあったのかもしれない。雪羅、開けてもいいわ。わたくしが許可します」

「は、はい。失礼いたします!」


 雪羅が戸を押し開けた。


「――青雅様っ!?」


 雪羅が混乱したように叫び、飛び込んでいった。月凛と孫式も釣られたように部屋に突入する。


 異様な光景であった。

 青雅は寝台でぐったりしていた。

 顔が水びたしになっていたが、不思議なことに濡れているのは首から上だけだった。寝間着は首元が濡れている程度で、他はしっかり乾いた状態だ。


「青雅さんっ、しっかりして」


 月凛が口元に顔を近づけた。


「……息はある。死んではいないようね」


 孫式と雪羅は同時にホッと息を吐いた。最悪の事態は免れたらしい。


「孫式、どうしたの?」


 声をかけられて振り返ると、黒い襦裙姿の水鶴が歩いてきた。


「た、大変なのです。青雅様がぐったりしておられて……」


 水鶴は早足になって部屋に入ってきた。


「ああ、水鶴。これは丸平先生を――」

「……濡れているのですね。なぜこのような……」

「わからないけど、とにかくお医者様に診てもらわなければ」

「ですが、青雅さんは丸平先生を嫌っておられます。呼んでよいものでしょうか」

「こんなことになっているのだから仕方ないじゃない。雪羅――」

「お待ちください」


 水鶴は青雅の腹に手を当てた。


「かなり水を飲んでいるようです。吐き出させれば意識を取り戻すかもしれません」

「できるの?」

「お任せを」


 水鶴は青雅を起こし、顔を下向きにした状態で抱きかかえる。水鶴が青雅の腹を両手で押すと、

「ごほっ」

 と青雅が咳き込み、水を吐いた。


「うう……」

「青雅さん? 気がついた? わたくしのことがわかりますか?」

「奥様……? 私は、一体……」


 青雅は苦しそうにつぶやいた。水鶴が力を緩め、青雅を再び寝台に横にした。


「どこかへ出かけていたの? 顔だけびっしょりで気を失っていたから驚いたのよ」

「確か……急に息苦しくなって、自分は水の中にいるのだと……そう思ったことは覚えているのです。必死で耐えようとしたのですが叶わず、水を飲んでしまって……」

「奇妙ですね。青雅様の服は濡れておりませんよ」


 水鶴が青雅を観察して言う。

 江若と花悠が一緒にやってきた。


「青雅が溺れていただと? そんな話が聞こえたが」

「まだはっきりしておりません」


 月凛が返事をする。

 孫式は室内を見回す。寝台の近くの床が濡れているが、他の場所に水の気配はない。

 左手側に水の壺が置いてある。蓋を開けてみると、中にはたっぷり水が溜まっていた。水鶴が横から覗いてくる。


「水壺はほぼいっぱい。この壺に顔を押しつけられたわけではないようね」

「はい。それなら壺の周りにもっと水が飛び散っているはず。床は綺麗なものです」


 孫式の言葉に水鶴はうなずく。


「お前は夜中にふらふらと曹湖へでも歩いていったんじゃないか? 昨日はずいぶん意見を戦わせただろう。それで心が参っていたのかもしれん」

「私は……自分で曹湖に顔を入れた……?」


 みんなで悩んでいると、白扇と景嵐もやってきた。事情を聞いた二人も、やはりわからないと返す。


「変な物音は聞かなかったですよ」


 景嵐が言えば、


「私の部屋は曹湖に近いですし、夜中は窓も少し開けておきました。水辺で誰かが何かしていれば音で気づいたはずです」


 白扇も曹湖に異変はなかったことを報告する。


「じゃあなんだっていうんだ。青雅は水のないところで溺れたのか。まるで怪談じゃないか」

「……怨念」


 月凛がぽつりとこぼすと、全員の視線がそちらに集まった。


「ナマズの怨念に復讐されたのかもしれませんわ」

「何を言い出すんだ月凛。ナマズだと?」


 江若は早いうちから花悠と部屋に閉じこもっていたので、ナマズを巡る騒動を聞いていない。月凛が事情を説明する。


「まあ、生き物には摩訶不思議な力があるというからなあ……。珍しい生き物ほど力は強いとも言うし、本当に怨念に取り憑かれたということもありえるかもしれん」


 江若は正夫人を否定しなかった。月凛は乗っかるように他の例を持ち出す。


「セーロでは討ち取られた者の亡霊が出るというお話も広がっておりますからね」


 孫式も旅の宿で聞いたことがある。セーロの男たちは禁軍と戦い、多くが地に骨を埋めた。その地域を通る旅人が亡霊の叫び声を聞いた。あるいは、魂の火が飛び回っているのを見た。そんな話がたくさん出てきて広がっている。噂と切り捨てるには体験した者が多すぎ、最近ではすべて本当のことだと恐れられている。

 ゆえに、ナマズの怨念が実在することも、ありえないとは言い切れない。


「奥様……ナマズをきちんと弔えば、私は許してもらえるのでしょうか」


 青雅が小さい声で言う。月凛はしゃがんで、青雅に視線を合わせる。


「きっと許してくれるわ。だから、元気が戻ってきたら一緒に埋葬しましょう。今後、生き物の命は大切にしないと駄目よ。水鶴の魚にも手を出さないこと」

「……はい。心に刻んでおきます」

「わかってくれたのならよかった。団結して、東江楼を守っていきましょう。丸平先生は呼ばなくてもよさそう?」

「ええ。あの人に診られたらまた肌を必要以上に触られてしまいます。これは自力で治せるはずですので」


 月凛はうなずき、青雅の手を取った。


「怨念か。恐ろしいものを経験したな。もう人間など恐ろしくはあるまい」


 江若が言うと、青雅は「はい」と返した。


「旦那さまとともに、東江楼を脅かす者たちと戦います」


 何もかも想定外だったが、どうやらこれで話は落ち着きそうである。孫式は余計なことを言わず、成り行きに任せた。

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